穴が開くほど見る
── 建築写真から読み解く暮らしとその先 (第2回)

西沢大良(建築家、芝浦工業大学教授)× 木村吉成(建築家)

『新建築住宅特集』2018年3月号 掲載

第2回__西沢大良(建築家、芝浦工業大学教授)× 木村吉成(建築家)

「穴が開くほど見る──建築写真から読み解く暮らしとその先」と題して、2回にわたり名作住宅の建築写真を隅々まで掘り下げて読み取ります(第1回は新建築住宅特集1802)。時代背景、社会状況、暮らし、建築家の思いなど、読み取る側の想像も交えながら写真の細部まで紐解くことで、時代を超えた大切なものを見つめ直し、未来に向けた建築のあり方を探ります。第2回目は、西沢大良氏を木村吉成氏の地元である京都に招き、公開対談でお話しいただきました。

西沢:

建築写真を「穴が開くほど見る」ことは、この連続企画の第1回で塚本由晴さんが言っていましたが、私が学生時代よくやっていたことです。私の中学、高校時代の1970年代には、世の中に写真というものが今ほど溢れていなかった。スマートフォンもインターネットもなく、カメラも一家に1台の高級品で写真が貴重でした。今の学生なら10秒しか見ないような写真でも、学生時代の私は30分くらいじっと見ていました。すると、見えなかったものが見えるようになる。視覚が覚醒してきて面白いのです。

木村:

私は建築写真を食い入るように見るようになったのは建築家として独立してからです。卒業直後に入ったアトリエは、主に近代建築を手掛けていたので、いざ自分で現代住宅をつくろうとしたら、どうやってつくるのか分からなかった。独り立ちして自分が一体どんな建築を目指したらよいのか、そんな思想をもって、具体的にどうすればいいのか、その教科書は建築写真。そしてその中でどうすれば現代の住宅になるのかを、一番熱心に見たのが1990年代の西沢大良さんや塚本由晴さんの建築だった。だから私はあなたの建築の写真を穴が開くほど見てきたわけです。

脱経済成長の先駆者の家/川合健二自邸

「川合健二自邸」川合健二「川合健二自邸」川合健二(1966年、愛知県豊橋市) 出展:『建築』1970年5月号

西沢:

私が選んだ1枚目は「川合健二自邸」の内観写真です。川合さんは1950年代には設備設計者で、丹下健三さんの「香川県庁舎」や「旧東京都庁舎」の機械設備を手がけます。1960年代に高度経済成長が始まると、都会の生活を捨てて故郷の愛知県豊橋市に移住します。1,200坪の農地を手に入れて、農業とエンジニアを半々で行う生活をこの自邸で始めました。1970年代に入るとこの住宅は、石山修武さんをはじめとする若い世代から熱い視線を浴びます。広大な畑の中に土木用暗渠として使われるコルゲート製の円筒シリンダーがゴロンと転がるという、壮絶な住宅だからです。また、その設計思想も強力だったからです。
この住宅はコルゲートパイプ(亜鉛引きの波板)の波板で全体ができています。コンクリートの基礎はなく砂利を盛った地面にゴロリと置かれ、転がらないようにワイヤーで係留されています。コンクリートを使わない理由は、川合さんによると「セメントと砂利と水によるコンクリート反応は不可逆な化学反応で、砂利やセメントには戻せない。だからコンクリートは再生不能の産業廃棄物になる。建築家はそのために住まい手にローンを組ませ、何十年もかかってお金を払わせる。完済しても産廃しか残らないような住宅は財産とはいえない。でも鉄は違う、鉄は再生可能だから売れる」と。川合さんの計算では40坪の住宅には約10tの鉄が使われるから、その10tを薄く延ばして幕のようにして空間を包めばよい。大きな台風が来たらコンプレッサーで室内の気圧を調整して均衡させればよいと考えた。川合さんの専門は熱力学で、建築界の常識をほとんど無視していますが、そうするだけの思想をもっています。
ところで、この写真には川合さんの思想以上のものも写っています。私が本当の意味でこの住宅を理解したのは、この写真を「穴のあくほど」見てからです。ここはリビングダイニング兼書斎で、上部には2階の床が見えていて、その向こうに2層分の吹抜けがある。画面の下半分には川合さんが使っている家具やプロダクトが見えます。よく見るとその選び方が鋭い。左のペンダント照明は、アッキーレ・カスティリオーニの初期の傑作「シュプリーゲンブロイ」。右の照明は北欧のポール・ヘンニグセンの「アーティチョーク」。左の奥の椅子とオットマンは、イームズの「ラウンジチェア」です。その手前のローテーブルは、脚の配置からしてポール・ケアホルムのPK61、さらに手前の背だけ見える椅子はPK22。右の壁沿いの棚はジョージ・ネルソンがミース・ファン・デル・ローエのためにデザインしたシステム棚。
これらの家具やプロダクトを、1960年代半ばの日本で使い倒していたことに驚きます。当時の日本ではまだ販売されていない製品ばかりだから、個人で輸入したのだろうと思います。川合さんはデザインの門外漢ですが、どれも洗練された都会的な作品で、個々のデザイナーにとって「当たり」の作品ばかりです。そのことを、発売と同時に見抜いているのですね。

木村:

コルゲートの断面に張った膜に飾ってある凧は、豊橋市の名産ですね。これだけ凄いプロダクトを揃えた空間に凧を組み合わせる感覚も面白い。それと、正面に見えるのは川合さんが輸入して販売したものの故障が多くてメンテナンスに苦労した、という冷蔵庫でしょうか。ここでは電気代がかかりすぎるので食器棚に使われていたようです。確かにキッチンになくてリビングに冷蔵庫っておかしいですよね。この中に川合さんが選び上げた器が並んでいるのでしょうか。それにしてもこの暮らし、本当に贅沢ですよね。

西沢:

ええ。いわゆる豪邸のような贅沢さとは違いますけどね。川合さんは頭の切れる技術者で、経済にも明るかった。銀行口座はスイスにしか置かず、奥さんはドイツ人。戦後に10気圧の高性能のドイツ製ボイラーのパテントを個人で取得して、日本の国鉄に売って悠々と暮らしていたこともあります。ボイラーやエンジンなどの熱機関の良し悪しを瞬時に見抜くという、先物取引のバイヤーのようなスキルを持っていた。おそらくこれらの家具も、工業製品として評価したと思います。ですから、都会を捨てて田舎に行っても、1960年代風の自然回帰や文明批判などではない、工業文明の中の極上品だけを手に入れる能力を手放さなかった人です。
この川合さんの生活は、自分が価値を認めたものだけで成り立っています。真に評価に値するものだけを、工業製品であれ手工芸品であれ身の回りに置いています。とても贅沢な暮らし方です。おそらく高度成長期に都市部を離れたのも、価値のない製品が大量に出回ってきたからだと思います。

ローカリティと実験性に溢れた日本最初のモダニズム/本野精吾自邸

「本野精吾自邸」本野精吾「本野精吾自邸」本野精吾(1924年、京都府京都市) 所蔵:京都工芸繊維大学美術工芸資料館(AN.5343-140)

木村:

私が選んだ1枚目は、京都にある「本野精吾自邸」です。本野さんは1882年生まれの建築家です。10くらいある建築作品の中の3番目くらいの作品です。東京大学建築学科卒業後三菱地所に入社し、その後26歳の若さで京都高等工芸学校、今の京都工芸繊維大学の教授に転身します。当時は様式主義全盛の時代で、本野さんの設計もその影響下にあったはずです。しかし1909年から第二次世界大戦前のベルリンに留学し、そこでモダニズムに目覚めた。この自邸は帰国後、1924年に建てられたもので、日本最古のモダニズム建築です。中村鎮式ブロックという、L字型の薄いブロックを組み合わせて、中に鉄筋を通しコンクリートを流し込む木枠が要らない工法で、当時の日本ではこんな素材そのものを内部にも外部にも見せる建築はかなり珍しかったはずです。1923年の関東大震災で、このブロックを使った建物は壊れなかったのを見て、これを使ったそうです。
この写真がいつ撮られたかは不明ですが、右から3番目の女性がおそらく奥さんで、海外からのお客さんが一緒です。後ろに見えているのは衣笠山で、その向こうには立命館大学があります。本野さん自身は映っていないから、本野さんが撮ったと想像できます。建築家としてこのアングルがベストだと思ったんでしょうね。実はこの住宅は僕の家の近所にあるんです。30歳の時に雑誌でこの写真を見て惚れ込んでいたら、たまたま引越した先がこの近くで、散歩しながら今でもよく眺めています。写真の人がいる側の東面が道路に面していて、アプローチを抜けるとポーチがあります。玄関から前室を通ると、写真手前の開口が面するワンルームのリビングが広がっています。本野さんは多趣味な方で、バイオリンや社交ダンスも得意でした。テーブルや椅子を片付けて、そこでダンスをしていたようです。この住宅の特徴は、写真を見て分かる通りとても小さいことです。天井の高さは1階が2,380mmで、2階が2,100mm。階段は12段くらいでしょうか。コンクリートブロック造ということもあって、そんなに高くはできなかったと考えられます。しかしそれ以上に、明治時代の上流階級の出身者で敷地も広いこの場所に、こんなに小さな自邸を建てるというのは、自分の学んできたものを先駆者もいない中つくりたいという前のめりな建築家の志が感じられます。

西沢:

確かに小さいですね。映っている人の身長から推察すると、2階建てなのに高さ5mくらいでしょうか。

木村:

そうです。見た目のモダンな感じと実際の空間の小ささのギャップが面白いです。もうひとつ面白いのは、窓に庇や窓台がついていることです。本野さんはドイツでモダニズムの洗礼を受けて帰ってくるのですが、その後「ローカリティ」という言葉を使って実践している。地域に根ざすモダニズム、地域の特性に合った最適化を狙っていたようです。
どんなふうに暮らしていたのかと想像すると、2階にある寝室の窓にカーテンが見えるからそこはプライベートな空間。でも1階の窓にはカーテンはない。外に向けて開けたままにしていたのでしょう。写真左手、1階の奥はダイニングですが、そこに唯一掃き出し窓が見えるし、ポーチが設けられています。折りたたみの椅子もありますが、ここで食事はしていなかったにしても、お茶くらい飲んだりして外の暮らしを楽しんでいたことが窺えます。ブルーノ・タウトがここを訪れて、酷評したという逸話があります。小さい、と(笑)。

西沢:

なるほど。ただ、デザインの意図は明快ですね。ブロックはどうしても縦に積むから、開口が縦長になる。それを気にして水平要素を入れようとすると、軒や庇を出すことになる。近代的なキューブな立体なのに長い軒があるのは、組積造が原因ですね。ところが、当時タウトたちが目指していたのはトロッケンバウで、左官を排した乾式工法です。左官を使うブロック工法を嫌ったかもしれません。

木村:

このあたりの風景はすごく変わってしまっているのですが、この一画だけは今もこのままの雰囲気を留めています。日本画家や洋画家がかつて多く住んでいた地域で、映画の製作所もありました。絵を描くための題材が周りにたくさんあった。芸術村のようなところだったんですね。そういう場所を選んで本野さんは自邸を建てた。自分でも京都に住んでいると、「中心」を自分で決められるということです。川合さんの話と通じるところがあると思うのですが、自分がここを中心だと思えば、いかようにでも生活できる。自分で決めたライフスタイルを貫ける場所だと思います。

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公開日:2018年12月27日