穴が開くほど見る
── 建築写真から読み解く暮らしとその先 (第3回)

内藤廣(建築家、東京大学名誉教授)× 藤村龍至(建築家、東京藝術大学准教授)

『新建築住宅特集』2018年8月号 掲載

第3回 内藤廣(建築家、東京大学名誉教授)× 藤村龍至(建築家、東京藝術大学准教授)

「穴が開くほど見る──建築写真から読み解く暮らしとその先」と題して、名作住宅の建築写真を隅々まで掘り下げて読み取ります(第1回は新建築住宅特集1802、第2回は新建築住宅特集1803)。1枚の写真を時代背景、社会状況、暮らし、建築家の思いなど、読み取る側の想像も交えながら写真の細部まで紐解くことで、時代を超えた大切なものを見つめ直し、未来に向けた建築のあり方を探ります。第3回目は、内藤廣氏と藤村龍至氏のおふたりに公開対談でお話しいただきました。

藤村:

学生時代、塚本由晴さんと西沢大良さんによる『10+1』(INAX出版)での「現代建築研究」という連載があり、20世紀後半に発表された住宅作品を対象に、それぞれに共通するところ、異なるところなどをふたりならではの視点で見つけてさまざまに論じていて、当時塚本研究室に在籍していた私や同級生たちはふたりが選んだ住宅の写真をCADの線画で再現する仕事を担当していました。例えば、齊藤裕さんの「蕣居しゅんきょ」(新建築住宅特集9807)の壁一面の書棚をその本も含めて表現することになった時、最初は同じ本の厚みをコピーして描いたら西沢さんから「本に見えない」とダメ出しされて、建築写真を穴が開くほど読み込みながら、本の種類の厚みや大きさを徹夜して必死に作図し直してFAXしたら「GOOD!」と返信がきてようやくOKが出たことを覚えています。おふたりのマニアックな建築の見方で独自の論理を展開していく姿勢は、まさに建築写真1枚を「穴が開くほど見る」ように情報を読み解いていくところからきていて、その掛け合いの議論を通して学んだことは私の原点です。今回はそのようなことを思い出しながら、写真を選びました。

内藤:

私は昔からたくさんのことを建築写真から学びました。最近のメディアに掲載されている建築写真は、印象が薄くなってしまったと思います。昔は強烈に伝える力があった。カラー写真は表現が分かりやすいし、雑誌が華やかになってよいのかもしれませんが、モノクロ写真の方が深みや湿度など情感を表現できていたのではないかと思います。さらに最近ではデジタル写真になって、同じ時間で何倍も多く撮れて、明るさや色味などを自在に変更することができますが、かつての建築写真は、空間が持つ雰囲気をそのまま捉えたものだったという意味でとてもドラマチックでした。もしかしたら、最近の建築の力や暮らしの生命力が弱くなってしまったから建築写真の印象も薄くなったと感じるのかもしれません。それはそれで今の時代ならではなのだろうけれども、今日私が取り上げる建築写真にある力強さみたいなものが、現代にあってもよいのではないかと思っています。

住宅=唯一の根城/「ドーモ・セラカント」 象設計集団

「ドーモ・セラカント」象設計集団「ドーモ・セラカント」象設計集団(1974年、神奈川県鎌倉市) 撮影:山田脩二

内藤:

まず、象設計集団による「ドーモ・セラカント」の建築写真を取り上げたいと思います。この写真を見た当時、その迫力と共に置いてある家具や物が何だか怪しげで気になっていました。一番気になったのは写真中央の階段に置かれている3本足の骨董品。かなえと呼ばれる中国の物で、何とも不思議なものを飾っているなと思っていました。最近知ったのですが、竣工当時の建主は、主人が魔術の研究者で、夫人が琴の先生だったそうです。鼎も魔術研究か何かに使用していたのでしょうか。象設計集団が住宅の設計をして、魔術研究者の主人、琴の先生の夫人、撮影が山田脩二というように何ともキャラクターの濃いメンバーが集まってできている1枚です(笑)。この写真を読み込んでいくと、他にもさまざまなことに気がつきます。床が黒いのですが、今では珍しいアスファルトブロックを使用しているようです。なぜ、このような仕上げにするのか疑問だったのですが、ここには床暖房が設置されていたようなのです。「ドーモ・セラカント」は1974年竣工ですが、当時一般家庭に床暖房を設置することはかなりの贅沢でした。台所を見ると、シンクがアメリカのKOHLER(コーラー)社のものであることが分かりました。さらに台所に立つ夫人の前にある箱のようなものは多分ウェスティングハウス・エレクトリックの電子レンジで、ミキサーも見えます。キッチン周りに最先端のものが使われていたことからも分かるように、ハイエンドなものを好む夫婦のための住宅だったようです。
また、このモノクロ写真の白と黒の空間の差が印象的です。写真の1/3くらいが黒いのですが、その中に深さというか、建主の生き方と象設計集団が設計した空間が上手く表現されています。テーブルには瓶ビールが置いてありますね。今だったら片付けて撮るところですよね。暮らしのシーンがよく出ています。奥さんの服装と影が伸びていることから夏の昼下がりでしょうか。写真の手前側、階段の上には書斎があるのですが、書斎から面白がって山田脩二さんが撮影したのかなと想像を膨らませることができる、味が濃いと言える写真だと思います。

藤村:

有機的なかたちを住宅で実践することは勇気が必要だったのではないかと思います。平面と断面は独特ですけれど、片流れの屋根勾配で架構をシンプルに解くような工夫も見られますね。

内藤:

私はこの住宅が発表された当時『新建築』の月評を書いていてその中で取り上げているんです。あの時代は建築家の固有性みたいなものが求められていて、象設計集団の集団で編み出されるかたちに自分にはとてもできない嫉妬を感じていました。彼らによる設計、住まい手の暮らし、建築写真のどれもが色濃いですね。1974年当時はベトナム戦争中であり、ウォーターゲート事件でニクソンアメリカ大統領が辞任したり、インドが核実験をするなど世の中が騒然としていた時でもありました。先日、森鴎外の娘の森茉莉のエッセイ『幸福はただ私の部屋の中だけに』(筑摩書房、2017年)を読んだのですが、そこでは「都会に出ると殺伐としたものを感じるし、世の中には不安が多い。自分の部屋に帰ってきた時、ここだけに幸せがある」と書いてあるのですが、そのような思いは騒然とした時代を生きていた当時の人は誰もが抱いていたのかもしれません。住宅は、そのように世の中から距離を取り、息つける唯一の場所だったと思います。この少し前に、菊竹清訓さんが自邸「スカイハウス」を発表されていますが、菊竹さんは文章の中で「アメリカとソ連による核実験が世界を滅ぼしてしまう可能性があるが、そのような状況下でも家族の唯一の根城としてスカイハウスはある」と表現をしています。住宅にはいつの時代でもそのような住まい手の根城としての役割、唯一休息が許される場としての役割があるのだと思います。この写真からは、そのような様子が伺えて、さまざまなノイズが入っているのに全体が今にない暮らしの濃度をもっているんです。

絵で建築を考える/「山荘・もうびぃでぃっく」 宮脇檀

「山荘・もうびぃでぃっく」宮脇檀「山荘・もうびぃでぃっく」宮脇檀1966年(山梨県山中湖村) 撮影:新建築社写真部

藤村:

今回、この企画にあたり建築雑誌を見返して、内藤さんが仰られたように1970年代の力強い建築写真が印象的だと思いました。しかし、私は少し見方を変えて建築写真の構図や写真のつくり方に注目することにして、宮脇檀さんの「山荘・もうびぃでぃっく」の写真を取り上げたいと思います。宮脇さんは「手で考える」と仰っていた建築家です。私は今、東京藝術大学で教えているのですが、藝大の学生たちはよく建築を「絵」で考えています。私が学んだ東京工業大学では、構成や配置などに注目して建築を考えることが議論されていたのですが、彼らは自分たちの考える建築の部分的なパースをたくさん描いて、それを積み重ねて思考していくのです。そういった建築の考え方・つくり方が面白いと思い、絵画的でパースペクティブが強調された写真を探してみると、「山荘・もうびぃでぃっく」のこの写真がまさに絵で建築を考えている人の建築だと思いました。この建築は宮脇さんのふたつ目の建築で、まだ木造の経験もなく、それ故に非常に原理的なつくり方をしています。空間の中心部分を強調するようにして梁の角度だけを変化させて屋根をつくっていますが、一方で入れ子状の構成とすることでパースを強く感じさせない、写真にすベてを収めさせないようなつくり方をしています。写真の左手を通って奥へと行く時に見る情景と、右側を通って行く時の情景は異なるのでしょう。後に「松川ボックス」に代表されるように、打ち放しコンクリートで箱状のスケルトンをつくり、内側を木でつくるボックスシリーズを展開しますが、この写真からはその原形みたいなものも見えますね。この有機的な木架構や柱のトップに取り付けられた少し変わった照明の付き方、アクリドームの丸窓や暖炉の脇の造り付けのソファや段差などを見ていると、とても加算的で絵を描くことでたくさんアイデアが出てきたのだろうなと想像ができます。

内藤:

 「山荘・もうびぃでぃっく」の屋根のかたちは、エーロ・サーリネンによるイエール大学の「インガルス・ホッケーリンク」に似ています。そのような有機的曲面をつくりたかったのでしょう。梁の角度がすべて異なるため、1本ずつ違う仕口が必要になりますが、よくつくったなと感心します。でも、あの宮脇さんでも若気の至りというか、際どいディテールが目立ちますね。

藤村:

連続的に角度を変えながら鉄の丸パイプに取り付けられた木架構の反復は、内藤さんの「牧野富太郎記念館」を思い起こしますね。宮脇さんは初期の頃は数多くの小住宅を設計していましたが、次第に「シーサイドももち」など多くの住宅地の全体計画も手がけます。住宅地を空間として考え風景をつくるように設計して、他と比較しても完成度が高く、絵になる住宅地だと思います。当時の建築家達は住宅設計からデザインサーベイや住宅地の計画に携わるようになった宮脇さんをどのように見ていたのでしょうか。

内藤:

私は1975年に『新建築』で宮脇さんと一緒に月評を担当して以来、親しくさせていただきました。ある時、宮脇さんによる住宅を4、5件見学する機会があったのですが、「家族が一緒に食事をするということに意味がある」とよく仰っていた通り、どの住宅もダイニングは素晴らしい空間でした。しかし、リビングはどのように座って寛げばよいのか分からないものもあるなと感じました。もしかしたら、宮脇さんはダイニング以外の住宅要素にあまり情熱を持っていなかったかもしれません。住宅作家と言われるくらい数多く設計をしていましたが、だからこそ戦後日本で言われていた「家族」という形式がもはや崩壊していると感じていたのではないでしょうか。そのような思いもあったので、住宅の外部空間、さらには住宅地や都市に興味が移っていったのではないかなと思います。先ほどの「ドーモ・セラカント」にはさまざまな居場所がありましたよね。それとは対照的に、「山荘・もうびぃでぃっく」のこの写真を見ると、どこに居たらよいのかちょっと迷うなと思います。宮脇さんは感覚のすごい鋭い人で、そのようなことを感じていたのではないでしょうか。

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公開日:2019年06月26日