穴が開くほど見る
── 建築写真から読み解く暮らしとその先 (第4回)

乾久美子(建築家、横浜国立大学大学院Y-GSA教授)× 島田陽(建築家、京都造形芸術大学客員教授)

『新建築住宅特集』2019年2月号 掲載

第4回 乾久美子(建築家、横浜国立大学大学院Y-GSA教授)× 島田陽(建築家、京都造形芸術大学客員教授)

「穴が開くほど見る──建築写真から読み解く暮らしとその先」と題して、名作住宅の建築写真を隅々まで掘り下げて読み取ります(第1回は新建築住宅特集1802、第2回は同誌1803、第3回は同誌1808)。1枚の写真から時代背景、社会状況、暮らし、建築家の思いなど、読み取る側の想像も交えながら細部まで紐解くことで、時代を超えた大切なものを見つめ直し、未来に向けた建築のあり方を探ります。第4回目は、乾久美子氏と島田陽氏のおふたりに公開対談でお話しいただきました。

島田:

学生時代から今でも変わらず、雑誌はとにかく穴が開くほど見てきました。特に事務所を始めた頃は青木淳さんや妹島和世さんの住宅が、立体的にどうなっているかがまったく分からなくて、興味がある住宅は手当たり次第に雑誌の図面と写真から模型をつくって、いろいろな角度から濃密に見ました。今回改めて昔の『新建築』を見ようと、神戸大学の資料室に行ったのですが時間を忘れて夢中になりました。こういうものはウェブにはない感動です。大学にあるいちばん素晴らしいものは蔵書で、大学から離れてしまうとそこに没頭しになかなか出かけられません。だから古い資料を端から見て、ものを考えるという時間は改めて幸せだと思いました。学生たちはウェブの中になんでも情報があると思いがちですが、ウェブの中には現在の枝葉のようなものはたくさんあっても古くてよいものを探すのはとても難しい。新しい試みにチャレンジするには改めて歴史をつくってきたものを端から見て、興味のあるものは穴が開くほど見ることで、幹のようなものを見つけるべきだと思います。

乾:

建築写真の面白さというのは、その中に自分を投入して、その中を歩き回ることです。私は大学に進学する際に関西から出てきて建築科に入ったものの、どのように友達と建築を語り合っていいのか分からないようなところがありました。東京に出てきて、とにかく面白いものを知りたい、建築とは何かを知りたいという気持ちもあるのだけど、何をどう話していいのかよく分からない。そこで、孤独といえば孤独なのですが、大学の図書館に通って古い建築写真を見続けて、建築とは何なのかを知ろうとしていました。大学1、2年生の頃です。その後は島田さんと似ていて、OMAや妹島さんなどの、明らかに新しい構成論理に衝撃を受けました。そうした新しい建築は図面表現に謎が多くて、ぱっと見ただけではどうなっているのかがよく分からない。そこで私も図面と写真を読み込んで、どういう構成なのかを必死で解読することをしていました。そうやって、謎を解いてやっとその建築の中を想像上で歩き回れた時、本当に嬉しい。リアルな建築をボーッと見に行くよりも面白いかもしれません。普通は複数枚の写真や図面からその建築を一周できるように理解していきますが、今日は1枚。どこまで歩き回れるかやってみましょう。

広い敷地に優雅に建つ平屋/「正面のない家/ K氏邸」 坂倉準三建築研究所 大阪支所(西澤文隆、太田隆信)

「正面のない家/ K氏邸」 坂倉準三建築研究所 大阪支所(西澤文隆、太田隆信)「正面のない家/ K氏邸」 坂倉準三建築研究所 大阪支所(西澤文隆、太田隆信)(1961年、兵庫県宝塚市) 撮影:多比良敏雄

乾:

私は、今日の会場の近くで生まれましたが、1歳の時に親が宝塚に家を建て、そこで高校生の終わりまで育ちました。この「正面のない家/ K氏邸」は、実家の近くにありました。阪急電鉄の宝塚駅南口からほど近い山の上にあって、毎日のように通っていた公園の脇に建っていたのです。その姿を見るたびに子供心に「この建物は何かがある」と思っていました。この家のあるエリアは区画が大きいので、平屋で十分な延床面積がとれています。実家の方は、その後に開発された分譲地なので区画が小さいんです。なので、広い敷地に平屋が優雅に建っているという佇まいは憧れで、どんな人のどんな暮らしが展開しているのだろうと想像するだけでドキドキするような存在でした。
この住宅の特徴は庭です。この写真からは、庭を中心に周辺環境と暮らしぶりが見えてきますが、設計者の思想も想像することができます。設計者のひとりである西澤文隆さんは庭園や日本建築の実測研究を続けてこられたことで有名です。この家は写真からも分かるように中央に小高い山をつくって造形的な庭にしていますが、西澤さんが庭園の研究を始める前の作品かもしれないと思いました。なぜなら、この家では絵画的な線を駆使しながら、人工性を際立たせたようなモダンランドスケープをつくっていて、その後の西澤さんの自邸に見られるような、自然風の庭園とは一線を画しています。ただ、若い時代の作品とはいえど、西澤さんは倫理性を追求するような建築家だったはずなので、西澤さんがどういう気持ちで絵画的なモダンランドスケープをトライしようとしたのかが興味深いんです。私がこの写真を穴が開くほど見て気づいたのは、この庭の山がちょっとびっくりするくらいの高さで盛られていることです。そこで、建物を建てる時に出てくる土を全部使ってつくったランドスケープなのではないかと考えています。工事で出る土は、普通は敷地外に捨てることが多いわけですが、出てきた土を場外搬出せずに敷地内で全部使い切るというタスクを自らに課すことで、庭としての倫理性をつくったのではないかと想像しています。それがもし当たっているのだとしたら、私なりに思う西澤さんという建築家の倫理観と合っているような気がして、腑に落ちるのです。
他にもこの1枚からいろいろ読み取れます。庭のペーブが陶器タイルで仕上げられていてツルツルしています。どことなく洋風な素材であることを筆頭に、室内にはカーテンがかかっているし雨戸のガラリも洋風です。しかし、外の世界と中の世界を結びつけようという意識はとても日本的なもので、この写真に強く表れています。空間構成は和風にしておきながら、要素は洋風なものにしていくことを意図的にやっているようで面白いです。雨戸は建物からはみ出していて特殊なディテールです。西澤さんも実測したはずの三井寺の勧学院や光浄院といった書院造りに、妻戸といって壁がはみ出すディテールがあるのですが、そういうものを参照にしながらこのディテールを思いついたのかなと想像できます。あと、中央の袖壁にゴルフクラブがさりげなく立てかけられています。宝塚界隈には有名なゴルフ場がいくつかあって、そこに通っていたであろう裕福な家族像も見えます。どこかで読んだことがあるのですが、建主夫婦は大阪に働きに出て、宝塚に住んでいたとありました。大阪や神戸に働きに出て山あいの郊外住宅地に暮らすというのは当時の関西ではひとつの暮らしの理想形で、この建主が当時の憧れのライフスタイルを具現化されていたのだとこの庭に置かれたゴルフクラブから見て取れます。

島田:

昔の写真は白黒なので色が出てこないのですが、この写真の説明にウルトラマリンの壁とか書いてあって、思ったよりかなりカラフルなんですよね。写真の左の部屋には縁側のような小さいデッキがありますが、どんな意図なんでしょうか。

乾:

今回選んだ写真には写っていないのですが、この家には庭と建築を繋ぐ中間的な役割の中庭があり「パティオ」と呼ばれています。カラフルで綺麗なタイルがロバート・ブール・マルクスばりのパターンで貼られていて、さらにカラフルなモビールが吊り下げられていたり、人工性を強調するようにつくられています。写真に写っている縁側もある意味形式のひとつのようにも見えて、意識的に中と外の庭を対比していたり、日本的な構成と洋風素材を対比させたりしていますね。また、この写真をしげしげと見ていると、建物の背景に写っている乾いた山の雰囲気が気になりますが、六甲山は当時森林資源として使い倒され一時期ハゲ山と呼ばれていて、その後少しずつ植林をして植生が回復しつつある様子が見受けられます。この庭の敷地や周辺に立っているアカマツも公園の周りに多く見られたもので、これも植林の一部だったのかと思います。西澤さんもできるだけ敷地内にあるアカマツを残したのでしょう。また、この写真からは、砂防ダムが多いこの界隈の乾いた土の風景が感じられ、この場所が持つ空気感が出ているように思います。

人のふるまい・マナーがセットになった住宅/「傾斜地に建つ家」 林雅子

「傾斜地に建つ家」 林雅子「傾斜地に建つ家」 林雅子(1958年、東京都世田谷区) 撮影:平山忠治 『新建築』1958年9月号より転載

島田:

僕が林雅子さんの「傾斜地に建つ家」を選んだのは、今まで自分があまり穴が開くほど見てこなかった謎がある住宅を探そうと思ったからです。これは林さんが独立してすぐの1958年の作品ですが、さまざまな大胆さに衝撃を受けました。まず題名の通り傾斜地に建っており、その高低差を使った中央の吹き抜けが空間を大胆に分節しています。写真の手前が客間で、吹き抜けを介して向こうが主寝室です。主寝室の吹き抜け側には何か飾り棚のようなものがあって、人形なのか小さな置物が可愛く飾ってあります。断面図には猫が描かれていたので、これは猫の通り道だったのかもしれません。2階の手前と奥の部屋にはそれぞれ異なる階段でアクセスするので手前の客間は立体的な離れみたいな位置付け。なんともいえない距離感です。客間の欄間と襖の関係が吹き抜け側では反転して手摺と障子になり、その向こうの寝室は驚くことに襖を開いて手摺が一切ないんです。林さんの解説文を読んでいると「大人の室だから」とあっけらかん。そして右側の障子の開口部には、ガラリ戸や雨戸がレイヤーになってその外はデッキの空間ですが、結構高さがあるにもかかわらず600mmくらいの手摺しかありません。この年代の住宅を見ていくと、とにかく手摺がとても低いです。

乾:

この年代の住宅の大らかさは素晴らしいですよね。今回改めて西澤文隆さんの書かれたものを読んだのですが、それを彷彿とさせます。建築は人のふるまいとマナーがセットで空間がつくられていたという内容です。見えているんだけど見ず、聞こえているんだけど聞かずというマナーが、当時は当たり前のように成立していたんだと思います。西澤さんのテキストと同じような時期に建てられた林さんのこの家も、そうしたマナーとセットで検討されていたのかなと思います。手摺も、おそらく住宅の中で暴れることはないから、落ちるような動きを室内ではしないとすればよしとしたはずです。それに対して、現代の建築はほとんど動物を檻に入れるかのように人間を扱います。建築の意味が相当違ってきているように感じられます。

島田:

そうですね。それに和室の身体感覚は重心が低いから、この家では室内に手摺をつけようとしたら視線の妨げになったはずで、その繊細さもここに出ています。欄間と手摺の反復されたリズムは最奥で地袋と押入れになり、その隣は同じ高さで文机になっているようです。照明も各室の重心に合わせて高さを変えてランダムに付けているのが分かります。また、写真手前の客間から見て、キッチンのシンクが見えないようになっていて、スパッと見せたいところだけが切り取られていて見え方も繊細です。もうひとつ、この時代の住宅はどこで食事をとるかとかなり模索していたように思います。今だとダイニングテーブルが置かれますが、和室に座卓で食べたこの時代には、カウンターに椅子をおいて食べるスタイルも出てきたりして、ダイニングテーブルというものがはっきりしていない。この住宅では写真の吹き抜けの下にキッチンが見えますが、そこにカウンターと椅子が設えてあります。キッチンは少しレベルが下がっているのでキッチンに立つ人と椅子に座る人の目線が合う。キッチンには計りとミキサー、トースターが見えますが、当時の憧れのキッチン用品ですよね。換気扇が見当たりませんが、横の窓下に抜いているようで、キッチンと庭の関係も楽しそうです。それにキッチンの奥には簾のようなものが見えて、後ろに回ると洗濯機やガスボイラーなど新しい暮らしの設備の場所があります。今だと洗濯機は浴室とセットで置かれることが多いのですが、ここでは黎明期の洗濯機の横に流しがあって、ユーティリティが独立しています。その横にバスルームがあるのですがこれがまた妙に広い。この時代の新しい暮らしへのチャレンジみたいなのが見えてすごく面白いです。

このコラムの関連キーワード

公開日:2019年11月27日