穴が開くほど見る
── 建築写真から読み解く暮らしとその先 (第5回)

平田晃久(建築家、京都大学教授)×中山英之(建築家、東京藝術大学准教授)

『新建築住宅特集』2019年8月号 掲載

第5回 平田晃久(建築家、京都大学教授)×中山英之(建築家、東京藝術大学准教授)

「穴が開くほど見る──建築写真から読み解く暮らしとその先」と題して、名作住宅の建築写真 を隅々まで掘り下げて読み取ります(第1回は新建築住宅特集1802、第2回は同誌1803、第3回は同誌1808、第4回は同誌1902)。1枚の写真から時代背景、社会状況、暮らし、建築家の思いなど、 読み取る側の想像も交えながら細部まで紐解くことで、時代を超えた大切なものを見つめ直し、 未来に向けた建築のあり方を探ります。第5回目は、平田晃久氏と中山英之氏のおふたりに公開対談でお話しいただきました。

中山:

はじめにひとつだけ。このシリーズを楽しみにされている読者のみなさんに、もしかしたら今日のお話は「おいおい、違うだろう」と言われるような展開になってしまう予感がしています(笑)。どうか、「写真を見て考える」ということが持っているひとつの可能性として、こういう逸脱もありかもしれない、と思って読んでいただけますようにと祈っています。と、言い訳から入ってしまうのも、実は今回写真を選ぶのに非常に苦労しました。図書室に何時間も籠って『新建築』のバックナンバーを、それこそ穴が開くほど見たのですが、「暮らし」の様子が窺える写真は、当然と言えば当然なのですが見つかりません。古い婦人誌なんかを探すべきだったのかな。平田さんはどうでした?

平田:

そりゃあもう、大変でしたよ……(笑)。これまでの連載を読ませてもらったのですが、みなさん「こんな写真どこから見つけてきたんだろう!?」というような、非常によい写真を取り上げていますね。住宅の「暮らし」が切り取られた写真から、建築を取り囲むさまざまな状況を読み取り、さらに面白く論じられています。しかし、そもそもそういう文化人類学的な語り口ではない仕方で、住宅を語ることも必要だと思います。それにとてもじゃないけれど、同じフィールドでは僕には語ることができないので、今回は「暮らし」の話よりも「その先」の話、これからの建築をどうつくるかに振り切ろうと思います。おそらく、中山さんも僕も大した暮らしはしてないと思うので(笑)、今日はマニアックな建築の見方の話を聞いてください。

中山:

ははは、同じですね。僕たちが「暮らし語り」に向いていないのは編集部のせいにして、開き直っていきましょう。

図式と機能と暮らしが出合う/「反住器」 毛綱毅曠

「反住器」 毛綱毅曠「反住器」 毛綱毅曠(1972年、北海道釧路市) 撮影:彰国社写真部

平田:

僕が選んだ1枚目の写真は、毛綱毅曠さんの「反住器」です。
僕は今の建築に対して、生活しやすいとか周辺地域を活性化させるといった、その建築がつくられる目的がはっきりしていて、建築家はそれに対して高いクオリティで実現できるようになってきていると感じています。そのこと自体は素晴らしいと思うのですが、一方ですごく物足りない。実はひとつの視点だけで説明できてしまう建築はそれほど魅力的ではなくて、複数のまったく違った角度から説明ができて、それぞれが成り立っていてそれが出合うところにこそ建築の魅力があると思うのです。その理由を考えるきっかけがこの写真にあるような気がして選びました。
「反住器」は、3つの立方体が入れ子になった非常に明快な形式を持った建築です。この建築に対するきわめてありふれた批判は、「建築としては面白いけれどほとんど住めない」といったものです。でもそれは、非常に表層的な批評だと思います。この住宅は毛綱さんのお母さんがひとりで住むための住宅です。「この住宅は住みにくくないですか?」と聞かれて、お母さんが憮然として、「こんなに住みやすい住宅はない。息子が若くして母親より先に亡くなってしまったことは親不孝かもしれないが、こんな住宅を残してくれたのは最高の親孝行だ」と反論したと聞きます。敷地である北海道釧路市は冬の寒さが厳しい地域ですが、入れ子により生まれるバッファーゾーンには窓を多く設け、サンルームのような静かで暖かく過ごせる場所となっています。お母さんがひとりで住む家ですから、囲まれた落ち着けるスケールの中で、ゆっくりと雲が動く空を眺めることができる、身体の快適性だけでなく精神の快適性が目指された住宅だと言えます。
ここには、なんというか、概念と、物質性あるいは構法との間の、豊かな会話がある。たとえば、トップライトと立面の開口とで、同じ図式の中でも主体構造とサッシの関係が反転しています。三角に切り取られた部分に対してなんとか山型にトップライトを当て込んで少し煩雑に見えてしまうところを、コンクリートの梁を斜めに通すことで統一が取れています。一方奥に見える壁の開口はかなり細いコンクリートでフレームをつくり、フィックスの窓なのでサッシも細いものを用いて、補強のために今度は鉄骨で斜めのラインをつくっています。また、写真左にあるひとつ内側の立方体は、よく見ると木製の建具で構成されていて、女性が簡単に動かすことができるスケールで自由に開閉し換気や通風ができるようになっています。

中山:

不勉強にもこれまで「反住器」を、建築史年表の中の小さなサムネイル写真としてしか見たことがありませんでした。こうして内側からの写真をまじまじ眺めてみると、小さな外観写真から、単純に斜め格子のグラフィックデザインとして捉えていた線のひとつひとつが、実は多様かつシンプルなディテールのアセンブルで編み上げられたものであることが分かって、とても驚きました。建築には、細い線を引こうとすると重くなり、太い線を引くと軽くなる、という逆説がありますが、外皮のスチールサッシと、入れ子の木製の建具など、それぞれの必然が選ばせた材料のプロポーションが、結果的に小さなサムネール写真でも目に焼き付くシンプルな図像性に回収されていることに、遅ればせながらたいへん感銘を受けています。チラリと写っているレンガ敷きの床と鉄骨階段の関係などにも何かありそうで、もっと知りたくなりますね。

平田:

いわゆる図式的であるとして批判されるような素材など他の問題を置いてけぼりにした建築ではなく、図式的には斬新でありながら、それとはまた別の指標である快適性や精神性も追及されていて、それが建築のありようとして融合しているところが非常に豊かだと感じました。それは、現代建築において、自分たちが目指そうとしている質に近いものではないか、と思いました。同じ建築が複数のまったく異なった観点からそれぞれ魅力を持っているような、コンセプチュアルな混成系、単に見かけがごちゃごちゃしているというのとは一線を画す、建築のありようです。

分節のないAI的認識への憧れ/「オルタ自邸」 ヴィクトール・オルタ

「オルタ自邸」 ヴィクトール・オルタ「オルタ自邸」 ヴィクトール・オルタ(1898年、ベルギー・ブリュッセル) 撮影:新建築社写真部

中山:

僕が選んだ1枚目の写真は、ヴィクトール・オルタの「オルタ自邸」です。事務所の本棚にあまり建築の本がないのも、今回写真選びに苦心した理由のひとつなのですが、なぜだかオルタやアール・ヌーヴォーの本はいくつかあります。なんとなく好きというだけで、特に深い理由もなく買っていたものだったので、これを期になぜ好きなのか少し考えてみたいと思いました。
有名なオルタ自邸の階段室です。真ん中の柱も含め、ここに写っているものに建築の主体構造的な要素はありません。光天井にしても、矩形のトップライトが載った屋根架構はこの上にあります。階段や手摺りや、照明器具としての機能性はもちろんありますが、やはり写っているものすべては、基本的には装飾的なフィクションと言っていい。アール・ヌーヴォー様式特有の花や植物の有機的なモチーフや装飾が、光天井のステンドグラスや柱、手摺り、照明、壁面のグラフィックデザインなど随所に用いられています。手摺りひとつをとっても、ツルの表現が構造的合理を匂わせつつも、別の何かに向けて描かれているようだし、それが照明器具の吊り材と呼応していたりする。僕が面白く感じるのは、今フィクションと言ったそうしたモチーフが、単純に光天井の存在によって意味付けられている点です。つまり、柱や梁、手摺りや照明、はたまた壁に施されたグラフィックといった、僕たちが今日的に考える建築要素の序列の中では別々の位相にあるエレメントすべてが、「植物は光を求めて伸びていく」というもはやフィクションでも何でもないただの真理に導かれるようにして、ここに存在することを許されている。そういう物の存在のさせ方に、どうやら僕は惹かれているようなんですよね。
仮に今、クライアントに壁に絵を描きたいと言われたら、きっとちょっぴり困ってしまいますよね。ここに絵を描きましょう、と提案することもまずない。でもそれは、単に今日僕たちが使っている建築的な言語の中に、壁に絵を描く理由を導き出す回路がないだけだからなのかもしれません。ただ光がありさえすれば、その下にある、こちら側の事情や慣習によって意味を染み付けられたものすべてが、別の真理の元に再統合されていく。この写真はそんな様子を確かに捉えた1枚のように思われて、同じ設計者として羨ましく感じます。

平田:

確かに僕たちが現代日本の視点で、ここまでが建築でここからが装飾とかグラフィックだと思っている分節のシステムとはまったく違ったものを感じますよね。しかも、それもまた建築であるという素直な驚きを感じますね、改めて見ると。
また、この建築はスキップフロアのような立体的な空間構成を持ちますが、そういう想像力が、もしかしたら鋳鉄という素材が持っている可能性から生まれたものなのかもしれないと感じさせられました。何か空中に立体的な線を描いていくようなところがある。それは鋳鉄だからこその自由度ですね。

中山:

この後建築は、「型」の存在を前提とした量産規格材の時代に突入しますね。今回付け焼刃で堀口捨巳さんの欧州視察記事を斜め読みしていたのですが、そこでも既にアール・ヌーヴォーに古臭さを見ていて、オットー・ワーグナーなどが持ち上げられていたりする。20世紀を経た現代から眺めるアール・ヌーヴォーって、そういう存在ですよね。でも、たとえばAIによるコンピュテーショナルデザイン黎明期である現代は、生産の現場から再度「型」が消える時代でもある。抜き型のテーパーやパーティングラインの最小化といった設計原理の基本が、3次元プリンターのもとには無意味化される。型なしで直接出力された機械部品の最適化設計モデルの造形など、誰もがアール・ヌーヴォーを連想することを禁じ得ない。そうした生産原理の変化や単純な表層的類似もそうですが、もうひとつ面白いのはAIの目も、対象の構造的な分節を意に介さない点です。たとえばAIによる画像認識は、相手がポートレートであろうが風景写真であろうがお構いなしで、すべてはピクセルの集合でしかありません。ただピクセルのパターンを膨大に学習することで、「ピクセル相互がこういう近接関係ある場合それは顔だ」というふうな認識があるのみです。そういう、私たちの側にあった、対象を分節する目そのものを疑ってみる必要を感じざるを得ない現代にあって、このオルタの階段室を眺めることは新鮮なヒントをもたらしてくれるように感じます。

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公開日:2020年04月30日