穴が開くほど見る── 建築写真から読み解く暮らしとその先 (第11回)

貝島桃代(建築家)×能作文徳(建築家)

『新建築住宅特集』2025年10月号 掲載

第11回 貝島桃代(建築家)能作文徳(建築家)

「穴が開くほど見る──建築写真から読み解く暮らしとその先」と題して、史上に残る名建築の建築写真を隅々まで掘り下げて読み取ります(第1回はJT1802、第2回はJT1803、第3回はJT1808、第4回はJT1902、第5回はJT1908、第6回はJT2003、第7回はJT2210、第8回はJT2308、第9回はJT2312、第10回はJT2410)。1枚の写真から時代背景、社会状況、暮らし、建築家の思いなど、読み取る側の想像も交えながら細部まで紐解くことで、時代を超えた大切なものを見つめ直し、未来に向けた建築のあり方を探ります。
第11回目となる今回は、貝島桃代氏と能作文徳氏のおふたりにお話しいただきました。

  • ※文章中の(ex JT2212)は、雑誌名と年号(ex 新建築住宅特集2022年 12月号)を表しています。

写真のもつ力

能作:

私が東京工業大学(現東京科学大学)に入学したきっかけとなったのが、2枚の写真です。ひとつは、進路を考えていた高校生の時に読んだ『PEN』に載っていた「ミニ・ハウス」(JT9901)の外観写真。キャンティレバーでもち出された低いヴォリュームの下にミニクーパーが停まっていて、塚本さんと貝島さんが楽しそうに話しているものです。調べてみると東工大でこのような若い建築家が教えていて、都市を楽しんでいる様子に惹かれました。東工大の教授の建築をさらに調べていったら、篠原一男という建築家を見つけ、「上原通りの住宅」の内部にコンクリートの柱と方杖が部屋を横断している写真を見つけて、高校生ながらこれはただごとじゃないぞと思いました。その2枚で自分の目指す大学を決めたという意味では、写真の力を感じます。

貝島:

私は子供の頃から家が好きだったので、穴が開くほど見たものは、新聞の不動産広告の間取り図でした。間取り図から家を想像する遊びに夢中になった。建築の写真を見始めたのは、日本女子大学の時の、高橋公子さんの授業課題でした。建築雑誌を読み込んでその中から、ひとつ建築を選びレポートを作成するというもの。当時は『新建築』だけでなく、いろいろな建築雑誌があり、毎月どれを買うか、図書館や本屋で悩みました。 特に『建築文化』や『SD』の建築家の特集号は、建築家の新作を創作活動の流れから理解することができて好きでした。その中でも象設計集団の特集は夢中になって、雑誌を携えて彼らの建築にも訪れました。穴が開くほど見た写真というと、妹島和世さんの処女作「platform」(JT8810)の発表誌面の最初の写真。丘の上にふわっと建築が浮いているその軽やかな建ち方に憧れました。斜面を上がり、水平と斜めのヴォリュームが吹抜けで繋がっている空間はどんなものだろうと、想像してワクワクしました。もうひとつ穴が開くほど見たのは、マリオ・ボッタ「カサ・ビアンキ」(1973年)の外観写真。谷に建つ塔状の住宅に赤いブリッジが架かっていて、それを渡り、階段で降りる空間はどんな体験なのだろうと想像したものです。そのどちらにも共通しているのは、動きのあるシークエンスのある空間。雑誌の写真と図面の中で、どこまでも想像を膨らませることのできる建築に当時から魅力を感じました。
自分が建築をつくるようになって撮ってもらった写真で印象的なのは、なんといっても『住宅特集』に掲載した「アニ・ハウス」(JT9802)の最初に載せた外観写真ですね。私たちはそこに建てた約6m角の建築自体を設計したというよりも、隣家との間の隙間を設計したと主張したかった。だから設計した建物は見切れていいから、隣家との間の隙間を中心に撮ってほしいと編集者や写真家にお願いしました。しかし建築全体が写らず、隣家を撮ることには抵抗があったようでした。議論の末誌面になったのは、「アニ・ハウス」がやや多めに入っている隙間の写真。当時の編集部には苦労をかけたと思いますが、隙間という主題を写真表現できたのは嬉しかったです。

能作:

その視点で振り返ると、私は弟と一緒に設計した実家「高岡のゲストハウス」(JT1611)の誌面の最初の見開きの写真です。この住宅は古屋を少しずつ解体してつくっていったのですが、特に屋根を移設する様子を鈴木淳平さんにタイムラプスで撮ってもらっていました。解体して数年後に完成して、いざ『住宅特集』に発表するぞという時に、いちばん最初の見開き写真は通常であれば完成した外観全景。しかし編集者に、古屋を解体途中に屋根をクレーンでもち上げている写真を是非使いたいといわれました。誌面になってみると、たしかにこの建築をいちばん象徴する写真はプロセスなのだとしっくりくる。「アニ・ハウス」の話も含めて、建築家と写真家と編集者の互いに高め合う緊密な協働関係があって初めて面白い議論が起こる誌面になるのだと思います。

「斉藤助教授の家」

「斉藤助教授の家」(1952年、東京都大田区) 撮影:清家清

能作:

2017年に東京国立近代美術館で行われた「日本の家」展で、「斉藤助教授の家」の原寸大模型の制作に携わりました。だからこの建築の写真も図面も、私は穴が開くほど見なければいけなかったんです。2008年に解体されてしまったこの建築の本来の姿を探るために、歴史家の藤岡洋保さんが解体直前に撮られた写真を見ていくと、どうやら外壁は塗装し直されていたことが分かりました。清家清さんは色彩について論考を書いたり、『生活と色彩』(修道社、1958年)という著書があるように、『新建築』に建築を発表する時はデータシートに塗装に使われた色のマンセル値(色相・明度・彩度の数値化)を載せているんです。色彩を数値で掲載する建築家はほかにはいないから、ずいぶん色に拘りが強かったはず。しかしこの数値を実際の写真と照合したいと思って探すのですが、竣工当時の写真は平山忠治さんが撮影した白黒の写真ばかり。それで資料を探したところ、唯一新建築社から1982年に刊行された別冊『日本現代建築家シリーズ5 清家清』の中にこの写真があったんです。調べてみるとなんとこの写真だけ清家清本人の撮影とクレジットされている。樹木の茂り具合からも竣工後数年で清家さん自身が撮った写真だと推測されます。これは写真家の撮影した写真と比べると、やはり素人的な印象を受けます。しかし自分の特集号が出るなら、あの建築の色が分かる写真を1枚入れたかったのではないかと想像できます。解体直前の外壁はすべて青色に塗られていましたが、発表誌面の概要文には雨戸以外は海老茶色に塗装されているとあって、青色の建具の脇にある西側の外壁の板1枚分にその海老茶色が写っていたことで、それが事実だと確証を得た写真です。
この建築は、戦前に建っていた住宅のコンクリート基礎を再利用してその上に木造平屋を載せた住宅です。そのため、基礎からはみ出た部分は片もち。また、この緩い2寸勾配の薄くて華奢な屋根は、戦後軍事産業として必要なくなった航空機の機体のために生産されたアルミシートを入手して実現しています。この写真は南側の長手立面ですが、残された図面はそれぞれ不整合なところがあって、柱の位置を割り出すには写真と合わせて照合するしかなかったんです。開口部には2本の柱、食堂と居間の中央に1本の柱、それらの柱の軸線がズレているのがこの建築の特徴ですが、清家さんの考えた合理性は、柱を含めこの建築がさまざまな等分割で構成されていることだと解読できました。雨戸は南立面全体の6分割の寸法、開口部の柱は3分割の位置、その開口部を4分割した寸法で建具のサイズを設定しています。この小さな建築の中にいろいろな比例関係が重奏しているんです。

貝島:

音楽みたいですね。清家さんにお話を聞くため、自邸である「私の家」(『新建築』5703)「続・私の家」(『新建築』7101)に伺ったことがあります。いろいろなジャンルへの並々ならぬ探究心に支えられた、博物館のようなコレクションに圧倒されました。何台ものオートバイや、鉄道の模型群。オートバイでの海外旅行の武勇伝もお聞きしました。想像するにこの住宅を設計していた1950年代初頭、30代前半の清家さんは、新しい建築の技術をワクワクしながら見て使ったのでしょう。
そしてこの写真を見ると和風住宅とはいえない。今見直しても新しい木造建築に見えますよね。日本の伝統住宅は素地が基本で、あまり色を使わなかったけれど、そこに海老茶色を使うということもとても新しかったはずです。

能作:

この建築のキャンティレバーを実現するために、ブレースや金物など、当時としては新しい技術をたくさん使う挑戦をしたのだろうと思います。色が建築に自由に使えるようになった背景には、オイルペイントという化学材料の進歩があった。それまでは素材そのものの色が多かったと思いますが、清家さんは塗料にも建築の可能性を見ていたと思います。そして、清家さんが好んで使った青色は海軍に憧れをもっていたからと聞いたことがあります。この住宅の納戸には船で見られるような丸窓が開いています。それを踏まえてこの写真を見ると、船のように水上に浮いているように見えてきます。

「谷川さんの住宅」

「谷川さんの住宅」 篠原一男(1974年、群馬県吾妻郡長野原町)撮影:多木浩二

貝島:

篠原一男生誕100年にあたる今年、ギャラリー間で開催された展覧会「篠原一男 空間に永遠を刻む―生誕百年100の問い」で、キュレーターのひとりを務めました。展覧会の構成にあたって、批評家であり写真家の多木浩二さんが撮ってきた写真を見る機会があり、そこから選んだ写真です。「広間夏」を撮った多木さんの写真は、人やものの数や位置、明るさや暗さが微妙に異なる連作が残されており、その中の1枚です。多くが土の地面の黒と真っ白な空間が、ちょうどの面積になるように写されている。『新建築』の「谷川さんの住宅」(『新建築』7510)の掲載誌面は、前半に新建築社写真部による、空間のみを写した写真が並び、後半に芸術的で直感的な多木さんの写真が篠原さんの「横断」という言葉を補填するように続く構成となっています。
谷川さんの住宅を初めて訪れた時に、この写真には写っていないけど、写していたものがあったことにハッとさせられました。それは、この住宅が森が切れる、谷に面した斜面に建っているということです。この写真の上部は、左右どちらの窓からも均等に光が入ってきて、ホワイトアウトしていますが、もしこの住宅が斜面が続く敷地に建っていれば、そのような光はこの住宅に差し込まない。篠原さんは斜面には言及していますが、谷に面した立地については触れていないので、私が勝手に斜面がずっと続いていると思い込んでいたことに気づかされました。

能作:

この住宅の建主だった谷川俊太郎さんの詩の中の世界に入ったような写真ですよね。多木さんの撮ったこの住宅の写真は、真ん中に写る梯子の存在が不思議に思うのですが、これは篠原さんがポール・セザンヌのアトリエにあった梯子を見て、真似してつくったと聞いたことがあります。

貝島:

斜面に梯子を立てると斜めになりますが、土を掘り片方の足を埋めることで平行を保っています。それは土間であることも示している。浅間山の火山灰でできた大地の斜面を屋根で切り取ったこの土間は、建築によって時間を封印し、土を火山灰という死んだ土に戻すことで、浅間山との関係で生まれた土地の歴史をも感じさせます。そして地窓の外には、樹木の育つ森の生きた土が続き、その連続と不連続が建築の哲学的意味を語っている。多木さんはそれを直感的に撮っていたのだと思います。多木さんがこの数年後に撮る伊東豊雄さんの「中野本町の家」(『新建築』7611)では、内観写真はUの字型の空間がどこまでも続いているかのように見えるし、中庭の俯瞰写真は画角のほとんどを占める建築によって切り取られた残部の存在感が示されています。どの写真にも建築の中の時間が写っているのだと思います。

能作:

『多木浩二と建築』(2013年、出版長島)の中の、『住宅特集』の初代編集長の石堂威さんがインタビューで、最初に多木さんの写真が『新建築』に載った時は事件だったと話しています。それは篠原さんの「未完の家」(『新建築』7101)で、ほとんど多木さんの写真だけで誌面を構成している。しかも外観はほとんど撮っていなくて、内部もホールだけ。篠原さんとしては建主がもち込んだ家具に納得いっていなかったからなのか、それを「未完」だと発表するわけです。そこに写るホールは縦に長い空間だから、1枚ですべてをとらえきることができなくて、多木さんは35mmのレンズと魚眼レンズを組み合わせてシーンだけを切り取るようにして撮っています。石堂さんは当時を振り返って、篠原さんの建築の変貌ぶりに驚いたことと、多木浩二の特殊な写真による誌面構成から掲載するかどうかも悩み、巻頭を飾ることの多い篠原の作品を巻末に配置して掲載することを選んだ。それがその先の多木さんと篠原さん、そしてそのほかの建築家たちとの関係に繋がっていったのかもしれないと思うと、やはりすごい存在だと思います。

「上原通りの住宅」

「上原通りの住宅」 篠原一男(1976年、東京都渋谷区) 撮影:多木浩二

能作:

これは多木さんの著書『幾何学的想像力』(2007年、青土社)の表紙に使われた、この住宅を象徴する有名な1枚です。建築写真のセオリーからは大きく逸脱していますよね。空の光の具合から見ると夕方の日が暮れる直前で、建築自体はほとんど真っ黒なシャドーになっています。しかしながらよく見ると、コンクリート打放しの肌理が微かに見えます。この光と影のシルエットは、ロボットが目を見開いているようにも見えてくる。しかも左下に誰かの足ではないかと推察できるふたつの白い影があって、これは位置関係から駐車場の奥にいる誰かであると思うと、うっすらと地面を暗示させますが、地面と建物の関係も宙吊りになっています。
そして、この写真ではこの住宅の窓は、丸窓ふたつとその下に三角形の窓が3つ並んで見えますよね。でも本当は真ん中の三角形はガラスじゃなくてアルミパネルです。夕方でこんなに真っ白に光るってどういうことなのかと思って調べて見ると、篠原さんの作品集に載っているこの写真について、本人が書いたキャプションがあってそこには、「春の夜の道路側の立面。すぐ前にある街灯の光でアルミ製の三角窓の表面が光る。銭湯がこの裏にあって、煙突からの煙もこの風景に参加している。」とある。そうすると途端にこれを多木さんが撮っていた時の現場の状況が変わって見えてきます。
しかし、多木さん本人はこの建築の写真を乗り気で撮っていないと書いています。先ほどの「谷川さんの住宅」でも、「なぜ多木が篠原一男に呼ばれたのか分からない」と語っていて、自分が写真の撮影をやめようと思っていた時期に呼ばれて写真を撮らされたとまでいっています。1968年に写真家の中平卓馬さんや森山大道さんと共に立ち上げた同人誌『プロボーグ』が3巻で終わった時多木さんは、このタイトルにもなった「アレ・ブレ・ボケ」という彼らの手法が、スタイルとして消費されてしまったことが写真撮影を終えたきっかけなのだろうと想像します。しかし乗り気でなかったとはいっているけれど、ここまで迫力のある写真を撮ったなら手応えはあったはずなんです。

貝島:

この写真は、ギャラリー間の展覧会の中庭にも選びました。先ほど話した「谷川さんの住宅」の写真と対にして見せることで、篠原さんと多木さんの関係を説明する内容としましたが、ふたつの写真は共に斜め材のある樹形をした柱をとらえており、木とコンクリートの素材がもたらす軽さと重さの対比も見ることができます。
多木さんの写真を見て思い出したのは、私が大学写真部にいた時の、写真の現像という体験です。フィルムを投光器にセットして、印画紙に照射するという工程があるのですが、写真を撮影した後にも、そこで最終的なコントラストや明るさを考え調整できるという、現像工程での表現が面白かったのです。多木さんの写真のアーカイブには、紙焼きの写真がたくさん残っていることを聞き、あの独特な陰影には、現像の過程でも表現の試作があったのだと想像します。たとえば「上原通りの住宅」(『新建築』7701)は四角い建物なのに、この写真では建物の輪郭が周囲の闇と一体化し、窓だけが浮かび上がって見えます。側面の窓が照らした地面の光のパターンもその幾何学に取り込まれている。ペントハウスの丸窓、背景のおどろおどろしい空の雲、ロボットの動き出すような生命感もある。光と影の関係を操る、白黒写真への熱狂が感じられます。
建築写真は、その歴史を遡れば建物の竣工写真に始まり、大型カメラを三脚を立てて使いじっくりと時間をかけ建築の細部まで写し取るという工程により、客観的なものが多いといえます。それに対して、多木さんの写真には手もちカメラでとらえたような、多木さんという個人から見えた私的な世界が写っています。多木さんの著書『生きられた家』(1976年、田畑書店)で論じられることにも通ずる、自らが経験した時間と空間という、経験としての建築が写真というかたちで残っている。それゆえに多木さんの写真は、多木さんの高揚感を伝え、今もそれを見る私たちをドキドキさせるのだと思います。

「ハウス・グミュール」

「ハウス・グミュール」シルビア・グミュール(1978年、スイス・バーゼル)撮影:シルビア・グミュール

貝島:

1939年に生まれたシルビア・グミュールというスイスの女性建築家の自邸の内観写真です。私が教鞭をとるスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETHZ)のふるまい学講座では、チューリッヒ、ジュネーブ、ルガーノ、グラウビュンデン、バーゼルなどのスイスの地域を選び、戸建て住宅研究をしています。各地のルネッサンス後期から現代まで、時代ごとの個人住宅を35〜40事例を抽出して、人びとの暮らしの変化を住宅の変化から調査するものです。この住宅は、バーゼルの調査で見つけました。斜面地の敷地と、矩勾配の屋根が架かっていることが「谷川さんの住宅」との共通点ですが、内部構成は正反対です。斜面に直行方向の大きな分割で夏と冬の広間とした「谷川さんの住宅」の静的な構成に対し、「ハウス・グミュール」は45度を反復して用いることで複数の居場所をつくり、これらが、写真にある棟もち柱によって支えられた動線のある吹抜けで繋がれた動的な構成です。この住宅は自身の建築事務所も入った職住一体の3階建てで、事務所には地下から、住居には地上から入り、キッチン、ダイニング、居間に続き、その上部に寝室群があります。設計ルールは、45度で仕切られた部屋を斜面を生かしたスキップフロアで繋ぐというものですが、図面だけでは読みきれないほどの複雑さで、訪れた時もラビリンスのような経験でした。45度の回転した平面を成立させる合わせ梁が取り合う丸太の棟もち柱は、まさにこの住宅にそびえる大木のようでした。スイスの女性建築家の第1世代であるシルビアは、料理が得意で多くの人が集まっていたようです。それぞれの居場所はありながらも、吹抜けによって音や空気感は共有されていた。シルビアはこの後、公共建築の設計で活躍しますが、この自邸は、彼女の仕事と子育てを支えたのだと思います。

能作:

貝島さんがこの住宅を2枚目の写真として選んだと聞いて、初めて知る建築だったから少し調べてみました。45度の幾何学を立体的に組み合わせていく単純な形式ですが、本当に複雑ですね。矩勾配の屋根を切り欠いたようにガラスの開口部がいくつも開いていて、それが思いがけない光の入り方をしているのだろうと想像します。手前玄関側はシャドーで、奥にホワイトアウトするかなり明るい空間が広がっていて洞窟のようです。

貝島:

右下奥に見えるキッチンは、住宅や事務所のアプローチに面し、サンルームやその先の庭のテラスまで繋がっています。つまりキッチンから、誰が帰ってきたかも、上部の子供部屋で何が起こってるかも吹抜けを通して感じられる。このキッチンは彼女にとって、建築家として、母として、活動を切り盛りする司令塔のようです。
私は日本女子大学住居学科の卒業生であることから、『a+u』の日本女子大住居学科の特集号(『a+u』2201)で、ゲストエディターを務めました。その際、女性建築家がつくった建築をまとめてみる機会がありましたが、共通してキッチンが住宅の中心にあることや、子供や女性、高齢者のための建築が多いこと、そして大胆な空間構成でやわらかい居場所をつくることに取り組んでいることが見えてきました。それは、男性社会の中でジェンダーが背負う建築観の現れでもあると思った。スイスの戸建て住宅でも日本の戸建て住宅でも、かつて汚いからと家の隅にあった炊事場は、現代住宅では家の中でコミュニケーションのための場所を司っています。スイスは女性参政権が大変遅く実現した国ですが、1978年のスイスで彼女が置かれた立場を想像すると、これほど大胆で力強い構成にも関わらず、実にやさしくて不思議な住宅を社会に提案したことは、どれほど大変な挑戦だったのだろうと思うのです。それと同じ時代に、日本では篠原一男がポエティックな住宅をつくったことと比べると面白いですね。

建築とメディアの批評的な関係

能作:

今回改めて建築を考えるうえで写真とは何だろうと考える機会になりましたが、建築メディアの中でつくり出された写真と言葉の存在は非常に大きい。その中で特に、多木さんの写真と言葉は、戦後の建築メディアで批評的な水準を明らかに別のレベルに引き上げたと思います。篠原さんだけでなく、その後伊東豊雄さんや坂本一成さんが加わって、ひとつの建築文化の潮流をつくりました。なぜそのようなことができたのか。写真に限ってみると、多木の写真論考の中に、写真とは情報としての写真と、身体(特に視線)としての写真があると述べています。新聞などに掲載される写真は被写体の情報が重要です。写真が事実を刻印し、権力や歴史へと結び付けられます。しかし写真は、被写体を記録すると同時に撮影者の目であるということです。その目が時に現実を不気味なものや見慣れないものにするのです。では建築写真はどうでしょうか。写真はあくまで建築の代理表象です。建築そのものの全体性を把握することは難しいのでひとつの側面を切り取っていくわけですが、それは「空間」を情報に置き換えて伝播させる力にもなります。多木さんの写真は建築家の意図とは異なる現実を写しとることによって、建築の情報化に抗っているように見えます。このことによって建築そのものと写真が拮抗する関係を維持しようとしたのではないでしょうか。
多木さんの建築に対する論考にも同様な印象を受けます。

貝島:

建築家と編集者が、互いに自律的な批評性をもち、時間をかけて、ひとつの建築を巡り、ああでもないこうでもないと議論した末に、「事件」のような写真や言葉、それが載る誌面が生まれるのだと思います。残念ながら現代のメディアではそうした時間が取ることができないないためか、産業社会のひとつのコマとして建築や建築家が消費されてしまう危うさがあるように見えます。1970年代の高度成長期でも大変だったと思いますが、もう一度能作さんのいう、熱が溜まっていく感じが見えてくることにはならないでしょうか。すべてを事件にするわけにはいかないけれど、しかし諦めないで議論するプロセスの中に、われわれの目が醒める瞬間が見つけられると信じたいです。そして、自分が知り得た知識をどう身体化するか、その積み重ねがそれぞれの建築になるから、知の入手方法は、学生はもとより情報化社会では重要な戦略といえます。調べ物にデジタルデータは有効ですが、世界のどこで、何語で検索するかによっても知の文化圏が異なり、見つかる情報も異なることにももっと意識的にならないといけないです。ETHZの司書は、データ検索のプロがいて、学生たちは相談するとその探索方法を教えてくれます。闇雲に流れてくる情報だけを見ていては、本当に面白いものには出会えない、私たちは情報の深さに貪欲にならないといけないと思います。

(2025年8月18日、SHIBAURA HOUSEにて、文責:新建築社編集部)

東京都港区「SHIBAURA HOUSE」で行われた対談風景。

INAXライブミュージアム「トイレの文化館」

「INAXライブミュージアム」

株式会社LIXILが運営する、土とやきものの魅力を伝える文化施設「INAXライブミュージアム」(愛知県常滑市)は7つ目の館として日本のトイレ文化を発信する展示館「トイレの文化館」を2025年4月にオープン。
木製便器の時代から、華やかに装飾された陶磁器製便器、水洗化を経て和魂洋才の技術的な発展を遂げ、空間としても充実した現代のトイレに至る日本のトイレの歩みを、約50点の実物と豊富な資料で辿ります。
展示室には、絵図面をもとに復元した江戸城本丸の木製のばこ、白地に青で美しい絵付けを施した染付古便器、世界に先駆けて発明された19世紀イギリスの水洗トイレなどの貴重なコレクションに加え、国産初の温水洗浄機能付き便器(シャワートイレ)など、日本のトイレ史を飾るエポックメーキングなトイレの数々が並びます。さらに、1階コンクリート造・2階木造の建物には、廃材をマテリアルリサイクルして製作したモザイクタイルや階段吹抜けの塗り壁など、建築の見どころも満載です。
清潔さにおいても、技術においても、世界から注目を集めている日本のトイレ。その進化を紹介すると共に、背景にある、清浄性や清らかさをトイレに求めた日本の心と技を世界に向けて発信しています。

左上:イスラームのタイル貼りドーム天井の再現。右上:メソポタミアのクレイペグによる壁空間の再現。左下:常設展示室風景。右下:古便器コレクション。

左上:展示室。左下:樋箱(ひばこ)、江戸時代の共同トイレ(模型)。右上:イギリスで発明された水洗便器。右下:「しゃがむ」和風から「座る」洋風便器へ。

常設展「日本のトイレ文化への誘い ―千羽コレクションより―」

会場:INAXライブミュージアム「窯のある広場・資料館 2F」

明治時代から昭和時代初めにかけて、愛知・瀬戸でつくられた陶磁器製の染付便器。小便器は正面だけでなく脇や背面まで、大便器は金隠しの外側だけでなく内側まで、さらには床にはめ込む縁部分にまで、季節色豊かな花や生き物が生き生きと描かれており、美術品と見まがう便器を間近で鑑賞できます。
(INAXライブミュージアムの古便器コレクションは、千羽他何之氏の蒐集品を母体としています。)

INAXライブミュージアム

所在地:愛知県常滑市奥栄町1-130 tel:0569-34-8282
営業時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
休廊日:水曜日(祝日の場合は開館)、年末年始
入館料:一般 1,000円、学生800円 、中高生500円、小学生250円(税込、ライブミュージアム内共通)※その他、各種割引あり
web:https://livingculture.lixil.com/ilm/

雑誌記事転載
『新建築住宅特集』2025年10月号 掲載
https://japan-architect.co.jp/shop/jutakutokushu/jt-202510/

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公開日:2025年12月24日