「建築とまちのぐるぐる資本論」対談4

相乗的なコミュニティへ──変容しつつある資本主義のなかで

大澤真幸(社会学者)+連勇太朗(明治大学専任講師、NPO法人CHAr代表理事、株式会社@カマタ取締役)

「建築とまちのぐるぐる資本論」 では、様々な実践者へのインタビューや有識者との対話を通して、資本主義がどのようにまちや建築の実現に影響を与えているのかを考え続けてきた。今回は社会学者の大澤真幸氏を迎え、資本主義それ自体が現在、変容してきていること、そして人間の尊厳やプリミティブな特質を踏まえて、私たちの社会が新しいシステムへ転換していくための契機について議論した。

Fig. 1: 大澤真幸さん(右)と連勇太朗さん(左)。

資本主義に飲み込まれる? お金と理念と承認

連勇太朗(以下、連):

特集連載「建築とまちのぐるぐる資本論」では、これまで2年間にわたり、資本主義が建築やまちづくりにどのような影響を与え、逆にそれらの実践がどのように現行の資本主義を変えていくのかを考えてきました。様々な現場や実践を経験的に知ることができ、希望を感じることも多かった旅でした。他方で、理念ある建築やまちづくりの実践が、資本主義の強大な力によって再びそのシステムのなかに飲み込まれてしまう状況や、小規模であったり局所的な実践であればその効果や可能性も限定的にならざるを得ないというジレンマも感じることがありました。こうした状況を一度俯瞰的に捉えてみたいという思いがあり、大澤真幸さんに資本主義の根本的な性質とこれからについてお話を伺いたいと思っていました。

大澤真幸(以下、大澤):

ありがとうございます。建築というのは人間の思想を集約して物質化するような総合的なものなので、その世界観が大事ですね。
特集連載を読ませていただき、とてもおもしろかったです。取材されてきた方々は僕の本を読んで刺激されたというわけではないと思いますが、僕が抽象的に考えていることを実践的に現実化していくという片鱗が感じられました。やはり具体的な実践がないと意味がないので、様々な試みを行っている人が世の中にいるということがうれしかったです。
僕らの生活全体は資本主義という大きな枠組みの内側にあって、個々人が小さな実践をやっているように思われるかもしれませんが、そうではなく、ふと気がつけば枠組みが反転してむしろ資本主義が部分になっている、というようなヴィジョンをもって仕事をすることが大事だと思います。
将来どういう社会になっていくのか、本当のところは誰にもわかりません。状況は切迫していて、地球上で人間が存続できる時間も少なくなっているというような議論もあります。長い目で見て、資本主義という枠組みそのものを変えていくべきです。資本主義は、誰かが計画したものでも革命によって生まれたものでもなく、歴史学者フェルナン・ブローデルが「長い16世紀」と言ったように、15世紀半ばから17世紀半ばまでの200年をかけてヨーロッパを中心に初期の資本主義らしいものが始まっていきます。
そういう意味では、来るべき社会は僕たちの死後かもしれませんが、今から200年後に社会のシステムが変わったあと見返してみれば、21世紀の初頭あたりから色々な動きが起きていた、と思われるようになれば良いですね。

連:

取材してきたどの現場・実践にも共通しているのは、それまで市場価値がないと思われていた空き家、古材、集落、寂れた商店街などに新たな意味や可能性を見出し、そこに極めて資本主義的マナーで価値を付与したり、創造をしているということです。アプローチは様々ですが、情報技術、不動産のノウハウ、プラットフォーム化やサービス化など、使えるリソースを上手に組み合わせながら持続可能なかたちで事業化が実現されています。資本主義の単純な否定ではなく、資本主義の力学を使いながらその課題を乗り越えようとしている点に可能性を感じました。一方、それらは「新たな商品」をつくっているとも言えるわけで、流れや力点が変わってしまうと、再び強大な投資や消費のサイクルに飲まれてしまう危険性もあります。そういった微妙なバランス感覚で成り立っているというのは可能性でもあるし、脆弱だとも言えるので悩ましく思っています。

大澤:

現在の資本主義のシステムを完全に拒絶してその外側で生きるというのは無理な話ですし、たとえできたとしても長続きはしないので、やはりビジネスにしていくことは大事です。
ただ、資本主義は非常に強力で、「市場による道徳の締め出し」と呼ばれている現象があります。行動経済学者がある実験を行いました。それは高校生が慈善の募金活動をするときにグループ分けをして、第一グループには寄付の重要性を説く激励を聞かせるだけ、第二グループには集めた寄付金の1%に当たる額の報酬を別財源から与える、第三グループには同じく10%を別財源から与えるというものです。結果、最も募金額の成績が良かったのは、実は第一グループでした。通常は金銭的なインセンティブはパフォーマンスを向上させると思われますし、事実として、第二グループと第三グループを比べれば第三グループの方が良かったのですが、それよりも報酬がない被験者グループの方がパフォーマンスが高かったというわけです(★1)。
この実験が示しているのは、道徳や公共心をもった尊い行いが、報酬をもらうことになった途端にある種のアルバイトになり下がってしまったということです。意義のある仕事をしていると自覚していても、お金が絡むとやはりビジネスとして成り立たせなくてはならない、利益を出さなければならない、というふうになって本来のモチベーションが下がるのです。
重要なのは、自分の仕事の意義がどういう人たちの関係のなかでいかに認められるのかというコミュニティです。仕事をする本人やプロジェクトに参加する人の心構えだけでは駄目で、そのプロジェクトの意義を迎え入れてくれる人たちも必要です。その関係性が希薄になると、結局は儲からなければ意味がないという方向に流されていってしまいます。
リスペクトを表すため、承認のひとつのかたちとして賃金も重要なことです。でも、賃金だけが上がればいいという単純な話ではありません。NHK放送文化研究所によって1973年から5年ごとに行われている「日本人の意識」調査には、日本人の自尊心に関する質問項目があって興味深いです。調査開始から1983年までは右肩上がりなのですが、その後下がっていきます。バブルの絶頂期には日本人は世界で最もお金をもっていたわけですが、自尊心は低くなっていた。みんなお金があるだけで地に足が付いていない、その虚しさに気がついていたということです。

資本主義の変質──新たな囲い込み

連勇太朗(以下、連):

言及された「コミュニティ」という概念についても慎重に考える必要がありますね。伝統的共同体に戻ろう、過去に戻ろうというのも難しいと思いますし、脱資本主義やポスト資本主義といったタームにも違和感を感じます。それは理念的には理解できても、資本主義はそんなに簡単に否定できるものではないわけで。金融資本主義の限界は認めつつ、単なるアンチではなく、それをどのように乗り越えるのか、丁寧に考えていく必要があるのではないかと思っています。

大澤:

そうですね。伝統的な社会に戻るというのは難しいと思います。そもそも僕たちに共通した伝統的なものなどほとんどありませんし、既にみんながそこに魅力を感じていませんから。
僕たちは日々生きていかなくてはなりませんから現段階では資本主義を全否定することはできないのですが、その資本主義自体が変質してしまっているという説があります。ギリシャの経済学者ヤニス・バルファキスは政治家でもある人ですが、近年「テクノ封建制」ということを言っています(★2)。教科書的な歴史として、中世に封建制があり、共有地の囲い込みや貨幣経済の普及などによってそれが崩壊し、資本主義になった。20世紀には、資本主義に対抗しようとした社会主義体制もできましたが、真に資本主義に対するオルタナティブになり得ず、社会主義体制は崩壊した。これが冷戦の終結ですね。こうして資本主義だけが生き残ったように見えますが、実は、僕らが資本主義だと思っているシステムは、既に経済的には一種の封建制である、というのがバルファキスの説です。資本主義は資本主義ではないものに脱皮して、さらにひどいものになろうとしているというわけです。
今、最も儲けているのは基本的には情報技術を使った超大型プラットフォーマーのGoogle、Apple、Facebook(現Meta)、Amazon、Microsoftなどいわゆる「GAFAM」で、既に小国よりも大きな力をもっています。そこで生まれている利益のほとんどは、企業の従業員の労働から生み出された商品を市場で売って得ているわけではないというのが従来の資本主義とはとても異質な点です。普通の企業にとって賃金コストは大きく、中小企業だとなおさらで従業員に賃金を支払うと利益がほとんど残らないということも珍しくありません。ところが、GAFAMのような企業は、儲かっているお金に対して従業員の賃金として支払っているお金の比率が非常に低いのです。なぜかと言えば、GAFAMなどの利益の源泉になっているのは従業員の労働ではなく、僕らのデジタル・デバイスの使用、クラウドにある個人情報、そしてアルゴリズムです。つまり、現在の封建領主に当たるのが超大型プラットフォーマーで、僕たちは「クラウド農奴」だというわけです。みんなが検索したり、SNSに投稿したり、生成AIを使うことでプラットフォーム──これが封建領土のようなものです──の価値が高まっているということは、僕らは実質的にはタダ働きをしている。それは資本主義の基本的なモデルとは違って、ある種の消費活動のなかから利益が生まれているということです。
僕らの主観的な感覚としてはインターネットをタダで使っています。かつてインターネットはコモンズ(共有地)でしたが、そこで新たな囲い込みが始まり、今や僕たちは自分の好みやアイデンティティもGAFAMに握られています。過剰な所有権の設定による問題が起きているのです。
また、資本主義が行き渡っていなかったところまで資本主義化すると、GDPが伸びたとしても貧しくなるということがあります。例えば、コモンズだった水源が企業のものになると水に事欠く人が出てきますが、ミネラルウォーターは売れて経済活動は活発になる。GDPは大きくなりますが、人々の生活は実質的には貧しくなっているのです。
資本主義はこのように、出発点において、誰のものでもないものに私有の権利を設定している。資本主義は非常に大きくなった場合にも、インターネットに蓄積された社会的知性のような本来は私有すべきではないものに依存しています。その私有すべきではないものに私的な所有権を設定したことの逆説的な結果が、今述べた資本主義のテクノ封建制への転換ですね。ですから、私たちは、マクロの観点に立ったとき、私有を減らしていかないといけません。

ブルシット化しない仕事──世界からの呼びかけに応答する

連:

リーマン・ショックのときに、アメリカ政府が公的資金を使って大手金融機関の倒産を防ぎましたが、そうした出来事自体が、既に現行の資本主義が社会主義的なものに変質していきているという話にも関連しますね。そういう意味で、私たちは資本主義がわかっているようで、実はよくわかっていないのだとお話を伺っていて思いました。むしろ「正しく資本主義をやる」といったトレーニングが重要なのではないかとも思いました。商品としての労働をしっかりと社会的に承認したり、資本主義の仕組みを使いながら共有資源を守っていくということが、実は正しく資本主義を実践することで可能なのではないでしょうか。

大澤:

そうですね。資本主義の収益の中心は人間の労働からではなく、僕らがタダで使っていると思っているものから生まれていますから、いわゆる仕事や労働の意義が薄くなってしまいます。
でも、意義がなくなりにくい仕事は大きくふたつの種類があります。ひとつはエッセンシャル・ワークと呼ばれるような、直接的に人に接する仕事です。料理をつくる、人のケアをするといった仕事は、自分の行為やつくったものを喜んでくれる人が目の前にいますから。
もうひとつは表現活動です。デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店、2020年)の冒頭にも、かつてロックバンドで活躍していた同級生が有名企業の顧問弁護士になっているものの、その彼は世の中に何の貢献もしていないことを自覚しているという記述がありますが、過去のバンド活動はブルシット・ジョブではなかったのです。
表現活動とは、広い意味で美しいものをつくるということですが、イマヌエル・カントは、美は「目的なき合目的性」であると定義しています。美しいものとは必ずしも何かの目的のために存在しているわけではありません。もちろん機能があり目的に適っていることも大事ですが、それ以上に、すごく気持ちのいいグラスがつくれた、それ自体としてふさわしいものができたと感じられることがあります。それは優れた職人や特別な芸術家に限らず、プリミティブな感覚です。
僕らは、何か世界から呼びかけられていて、それにうまく応えたいと思うのです。その応答こそが表現活動です。世界からの呼びかけとは資本主義的な要求とは異なるもので、もちろん儲かるか儲からないかは関係ありません。

連:

現在、一般的に不動産は投資や投機の対象で、マネー資本主義の代表選手のようなものですが、特集連載のなかでは土地を所有するオーナーや不動産屋さんによる公共的な意識の高いプロジェクトがいくつもありました。不動産は利回りが数字で明確に出るので、最も効率的なプランで回していくというのが常套手段ですが、彼らはみな自分なりの思想をもっていて、そうした利回りに還元できない、まさにある種の「表現活動」として不動産事業を行なっているように見えました。まるで作品をつくる作家のようです。こうしたところにも、「正しく資本主義をやる」ことの契機を感じます。

大澤:

土地は自然とともにあり様々なかたちで僕らの生きる支えになるコモンズです。お金を生むことだけを目的にすると虚しいことになりますね。

異なるコミュニティをつなぐ太い線──中村哲医師とペシャワール会とアフガニスタンを例に

連:

「ぐるぐる資本論」という言葉は、あくまでも資本(論)の話なので、何らかの剰余価値がないと概念として成立しないと思うのですが、基本的な図式は物事がぐるぐると循環していくだけなので、字面だけを見れば明らかに語義矛盾です。最初は変なネーミングにしてしまったなと自分自身でも思っていたのですが、取材を続けていくなかでおもしろい気づきを得ました。つまり、ある対象や実践において、単に閉鎖系で物事が循環しているだけではなく、異なる循環系や社会的レイヤーとの交わりや重なりがあるということです。むしろ別の社会的レイヤーへのつながりがあるからこそ持続可能になっているし、資本主義を正しく実践しているようにも思えてきました。

大澤:

コミュニティがあるだけではなくて、異なるコミュニティ同士のつながりがあるということが大事なのだと思います。私の師である見田宗介は、社会構想として「交響圏とルール圏」というアイデアを提案しました。「交響圏」にはみんなが共鳴し合うような親密な関係がありますが、その交響圏が複数あれば、互いの自由を邪魔しないような共存を許す「ルール圏」が必要であるという二重の構造をもっています。でも実際に僕らが生きていくうえで必要な物のほとんどは、僕らだけでは調達できずルール圏から市場経済を通じてもたらされますから、基本的には資本主義に身を委ねることにしかなりません。
そうなると資本主義のもつ相克性が顕になってきますが、その限界を超えるヒントになる究極的な事例は、アフガニスタンで活動された医師の中村哲さんとペシャワール会です。ご存知のように、中村さんは医者でありながら井戸を掘り、用水路をつくりました。紛争地帯という非常事態においては、そもそも普通の生活がなかったからです。僕が最も驚いたのは、中村さんたちペシャワール会が介在したことで、紛争地域であってもみなが協力し合い、そこにあった葛藤が解消されたことです。
それが成功したのは、ふたつの一見矛盾したことが効いています。ひとつは、中村さん自身も繰り返し強調していることですが、徹底した現地主義です。世界中からたくさんのNPOやNGOがアフガニスタンに来ていましたが、中村さんたちは彼らのように外から助けてあげるというスタンスではなく、その場にあるものを使って初めて用水路をつくるとしたらどうすればいいだろうかと試行錯誤しながらつくっていく。日本のゼネコンに来てもらって最新技術でつくったとしても、その後の維持ができずに荒廃していくでしょうから、現地の人たちがそこで生活し続けていくことを考えて現地の人が可能な技術でなければいけません。それは中村さん自身も現地の人に教わりながら、現地の人たちの一員として生きたということです。
もうひとつは、中村さんはそのように現地の人と一緒にありながら、外来者でもあるということが重要です。用水路ができれば恩恵がもたらされますが、それが全員に平等に行き渡るわけではないので新たな紛争の原因にもなり得ます。それなのに、どうして紛争が生じず、逆に協力しあう関係が生まれたのか。中村さんが外来者でもあった、ということが効いたと考えるほかありません。中村さんが本当に現地の人そのものであれば、そうした紛争の解消には至らないでしょう。しかし中村さんは、日本人であることも手放しませんでした。それは日本の江戸時代の用水路の工法に着目し、それをアフガニスタンに導入したことにも表れています。中村さんは想像的に江戸時代の九州に身を置き、農業用水の調達という課題と格闘したのです。
中村さんは、現地に深く内在する外来者という驚くべき態度と方法でコミュニティとコミュニティの間に連帯の「太い線」を引くことができました。ドメスティック・バイオレンスがある種の典型で、親密なコミュニティの内部にも問題は起こります。小さなコミュニティでも、親密な交響圏になるとは限りません。むしろ、コミュニティから外へとつながる線が必要なだけではなく、コミュニティ自体がうまくいくためにも外から入ってくる線があった方が良いのです。
僕が著書『資本主義の〈その先〉へ』(筑摩書房、2024年)の最後の方で示したのは、ダンカン・ワッツとスティーヴン・ストロガッツらのネットワーク理論を援用しながら、中村さんたちがつくったような「太い線」はものすごく沢山必要なわけではなく、「ランダムな太い線」があれば良いというものでした。ランダムな線は、十分に太ければ、少数でも有効なのです(★3)。コミュニティがつながり、別の場所で実践している人たちを助ける、あるいはまた別の場所にいる人たちを惹きつけ合い、やがて資本主義とは違うシステムになっていくというイメージです。

連:

大澤さんは「相克的」と「相乗的」という言葉を書籍で使われていますね。人と人の関係には競争によって駆動される関係性と、お互いの相互作用によって駆動される関係性の二種類があると。人間には常にその二面性があって、資本主義を正しく実践するためには、相乗性を私たち自身が個人的にも社会的にも上手に育んでいく必要があるのではないかと思いました。

大澤:

人間には、仲間以外の者に対してもシンパシーをもってしまうという特徴があります。例えばチンパンジーはとてもアグレッシブで、異なる集団のオス同士が出会うと、しばしば血で血を洗う戦いになり、かなりの高確率でどちらかが殺されてしまいますが、そこに良心の呵責などありません。一方、人間はどんなに憎い相手でも、そして異なる集団に属する他者であっても殺すのは簡単ではなく、殺すまでに至るには戦争の大義や強い信仰がなければなりません。 資本主義は相克的な関係を利用しています。競争のなかで勝者と敗者が分けられ、勝者には利潤が生まれ、敗者は退場になるからこそみんなが必死に競争し合うという構造です。人間は利己主義的で、自らの利益のために頑張っていると思われますが、内実をよく見ると、実は市場で戦っているのは個人ではなくて企業同士だったりします。個人はむしろ自らの人生を犠牲にしてでも会社のために、プロジェクトのために働いたりすることもあります。つまりある意味では利他的に行動しているのです。それは人間自身が相乗的なものに向かっていく性質があるということです。つまり資本主義でさえも、利己性ではなく、一定の利他性にこそ依存して機能しているのです。

連:

資本主義は疎外的な相克性をもっていますが、大澤さんがおっしゃっている相乗的な性質、商品化できない領域を人間が内面に備えていて、ブルシット・ジョブ化しないような表現へのプリミティブな欲求も人間自身がもっているということですね。資本主義は、コミュニティの内外の相乗的な関係を駆逐しようとするなかで、いかに相乗性を私たちの社会のなかで生成していくことができるのでしょうか。

大澤:

「建築とまちのぐるぐる資本論」で取材されてきたような人たちは、お金儲けをして成功を目指しているというよりは、仕事がおもしろいからやっている、まさに世界の呼びかけに応答しているという感じですね。資本主義は常に人間を資本の競争にもっていこうとしますが、そこからどれだけ逸脱できるか。その逸脱の度合いがどんどん大きくなっていったときに、気がついてみればもう資本主義とは言えないものになっているかもしれません。コミュニティの外には相克的、コンペティティブ、コンフリクティブな関係しかないというように思いたくなりますが、中村さんおよびペシャワール会とアフガニスタンの関係のように、コミュニティとコミュニティの間にも相乗的な関係が生まれ得ます。言わば内側に閉じた相乗性を、「ランダムな太い線」によっていかに外側までスピンオフできるかが問われています。

連:

「建築とまちのぐるぐる資本論」も後年振り返ってみたときに、各地の実践や論をつなぐ「太い線」のひとつであったと思えれば良いなと思いました。大澤さんとお話したことで、現行の資本主義をボトムアップ的に改良していくための、概念的道具をいくつかいただいたような気がします。抽象的な思考モデルと、超具体的な実践例を往還しながら、ぐるぐる資本論という考え方をより深めていきたいと思います。ありがとうございました。


★1──マイケル・サンデル『それをお金で買いますか──市場主義の限界』、早川書房、2014年、pp.171-173
★2──ヤニス・バルファキス『テクノ封建制 テクノ封建制デジタル空間の領主たちが私たち農奴を支配する とんでもなく醜くて、不公平な経済の話。』(集英社、2025年)が本対談直後に刊行された。
★3──大澤真幸『資本主義の〈その先〉へ』、筑摩書房、2023年、pp.428-433

文責:富井雄太郎(millegraph) 服部真吏
撮影:富井雄太郎
サムネイル画像イラスト:荒牧悠
[2025年1月29日 東京・渋谷区にて]

大澤真幸(おおさわ・まさち)

1958年長野県松本市生まれ。社会学者、博士(社会学)。 東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。

連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)

1987年生まれ。建築家、博士(学術)。明治大学専任講師、NPO法人CHAr(旧モクチン企画)代表理事、株式会社@カマタ取締役。
主なプロジェクト=《モクチンレシピ》(CHAr、2012)、《梅森プラットフォーム》(@カマタ、2019)など。主な作品=《2020/はねとくも》(CHAr、2020)、《KOCA》(@カマタ、2019)など。主な著書=『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版社、2017年)。
http://studiochar.jp

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公開日:2025年03月26日