「建築とまちのぐるぐる資本論」鼎談3

利他とケアからまちの未来を考える

伊藤亜紗(東京科学大学未来社会創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授)+近内悠太(教育者、哲学研究者)+連勇太朗(明治大学専任講師、NPO法人CHAr代表理事、株式会社@カマタ取締役)

「建築とまちのぐるぐる資本論」 というテーマを掲げ、16もの建築やまちづくりの実践を取材してきた。ひとつの締めくくりとして、資本主義の欠点や限界を補完するであろう考え方である「利他」や「ケア」をテーマにした著書をもつ伊藤亜紗さんと近内悠太さんを迎え、これまでに見えてきた新たな課題・疑問について議論した。

Fig. 1: 左から近内悠太さん、伊藤亜紗さん、連勇太朗さん。

アンチコモンズの悲劇を避ける「どんぶり」

連勇太朗(以下、連):

2年にわたり、人々・マテリアル・お金などが一定の地域においてぐるぐると循環していくというイメージをもって、様々な事例を取材してきました。現代では建築やまちづくりにおいて事業という側面が重要になっていますが、単に経済的な循環以上に、現在の資本主義の課題を補完していく可能性を見たいと思っています。そういう意味で、おふたりが考えてこられたケア、利他、贈与といったキーワードが軸になってくるのではないかと思っています。今日は特集連載を振り返りつつ、おふたりに様々な疑問を投げかけてみたいです。まずは自己紹介をお願いできますでしょうか。

伊藤亜紗(以下、伊藤):

私は、2020年から24年まで東京科学大学(旧・東京工業大学)の「未来の人類研究センター」の初代センター長を務めていました。そこで最初の5年間、みんなで考えていくテーマとして「利他」を掲げました。一見不合理と思えるにもかかわらず、人間が確かにもっている利他という性向を領域横断的に研究するというものです。そこで大事にしていたのは、利他を心の問題にしないということでした。もちろん利他のルーツは心や宗教にあるのですが、心そのものの研究には難しさがあるので、そうした心がなぜ発動するのかという仕組みの方に関心が移っていきました。そういう意味では、まちや空間といった制度的なものにも興味があります。
また、ケアというテーマにも関心をもち続けています。目の見えない方や吃音の方など、障害をもつ方の身体感覚について調査をしてきました。高齢化社会がますます進んでいくなかで、ケアはほとんどの人が選択肢なく向き合わざるを得ない問題だと思っています。

近内悠太(以下、近内):

私は在野の研究者、物書きです。ヴィトゲンシュタインの哲学、言語ゲームなどをバックボーンにしながら、贈与や利他、ケアなどをテーマに本を書いてきました。
人間は動物であり物理的な物体でありながらも、喜びや悲哀といった感情があり、言葉によってアフォードし合うという不思議さをもっています。最近特に関心があるのは、それまで開かれていなかったコミュニケーションの回路がふと開かれる瞬間、例えば贈与を受け取っていたことに時間的な遅延をもって気がつくこと、ケアがケアとして成立するときなどです。

連:

ありがとうございます。連載を振り返ってみたいのですが、何か気になったトピックはありましたか。

伊藤:

岡部明子さんが言及されていた「土地の所有を動かさない」とか「所有を顕在化することの弊害」という言葉に共感しました。それは「アンチコモンズの悲劇」にも関係していると思います。よく挙げられる例として、ドイツ西部のライン川の話があります。川沿いに立派なお城が建っていて今は観光地になっていますが、歴史的にあれらは航行する船から通行税を徴収しようとして建てられたものです。沢山の関所ができてしまった結果として、ライン川は不便になって使われなくなりました。みんなが私的所有権を主張すると、共有のリソースのポテンシャルそのものが下がってしまう、誰にも使われなくなるという悲劇です。
悲劇を避けた好例として最近知ったのが、沖縄の米軍基地跡地をショッピングモールに活用したものです。基地が別の場所へ移転しましたが、土地の地権者が多く、個別に返還されると、超細切れになった私有地の集まりとして誰も何にも使えない土地になります。それらの土地所有者全員の納得を得ながら活用し、ショッピングセンターなどがつくられました。所有者が米軍に貸していたときと同等もしくはそれ以上の収入が土地から得られること、などの現実的な要望をクリアしたのです。
日本にたくさんある空き家の抱える問題のひとつは、私的所有物であるがゆえに地域のために使うことができないことだと思います。大きな主体というのは否定されがちですが、アンチコモンズの悲劇を考えると、ときには大きな枠組みで動かす、みんなの「どんぶり」をつくるような議論も重要だと思います。

Fig. 2: 伊藤亜紗さん。

近内:

コモンズという概念の含みは、それは「みんなのもの」であって、勝手に使えるものでもない、というような、良くも悪くも管理のにおいがつきまとっていますね。ですが、「みんなのもの」という以上に「誰のものでもない」、だから大切にしなければならないという感覚が生じるもののことだと思います。そういう意味では「どんぶり」というのは良い表現ですね。都市に住んでいると、昨今どんぶり感覚のようなおおらかさを感じられる物事はとても少なくなっていると思います。

連:

まさに都市部の住宅地はどんどん細分化されて開発されています。これからさらに人口が減った後に住空間としての価値はどうなるのか、将来のさらなる空き家へとつながっていく懸念がありますね。野澤千絵さんと高橋寿太郎さんとの議論でも指摘されていたことです。

伊藤:

私的所有物であっても、まちのために使ってもらいたい、公共的に開放してもいいと思っている人は少なからずいますから、それらを受けることができる「どんぶり」があるといいですね。

連:

饗庭伸さんが個人所有の住宅をまちづくりの場として開く世田谷区の「地域共生のいえ」制度を紹介されていました。また、藤原岳史さんは、名士さんから由緒ある建物をまちのために使ってほしいという相談をよく受けるというお話をされていました。そのときには、やはり法人などの受け皿が必要ですね。東野唯史さんもエリアリノベーションをスムーズに進めていくための媒介として、金融機関や不動産屋さんと一緒に新たな会社をつくったというお話をされていました。まさに、受け皿や運用の仕組みが「どんぶり」になっています。

伊藤:

アンチコモンズの悲劇に関連して、ベトナムのハノイで見たある公園の事例もおもしろかったです。社会主義の国なので、私有財産が認められるようになってからの歴史が浅く、日本とはだいぶ所有の感覚が違うと感じました。
ある団地の中に公園があり、団地の1階にある店が自分のテーブルを公園に出して営業していたところ、子どもたちが遊べないということで近隣と揉め事になりました。その結果、ランチタイムまでは店がテーブルを出して営業をしていて、小学校が終わって子どもが帰ってくる時間にはテーブルを片付けるようになりました。共有地をめぐって争っている状態とも言えますが、実は公園のリソースを最大限に活用しているようでもあってとてもおもしろかったです。私有と共有の境界がダイナミックに動くのです。

連:

例えばドイツのベルリンでは、スクウォッティングによってつくられたコミュニティパークなどが、遡及的にフォーマルなものとして認められるという事例もあります。私有・共有の線が事前に確定していて動かせない状態だと社会はどんどん硬直していってしまうのかもしれません。
連載を振り返ると、まさに経済的な意味で「どんぶり勘定」で動いたというプロジェクトが多く見られました。例えば、建築家の能作淳平さん宮崎晃吉さんがカフェや飲食店の運営をしたり、子育て真っ最中の主婦だった豊田雅子さんが空き家をふと購入したり。最初から不動産のエキスパートであれば、収支計算をすると大した利益が出ない、そもそも手間が面倒だという理由から手が出なかったものでも、良い意味でのアマチュアであり、最初は自分の専門外だからこそ、「これくらいでいけるだろう」「ここまで考えたからまずはやってみよう」といったかたちで、すべてががんじがらめの計画ではないからこそ意思決定できた側面もあるのかなと思います。

物がまとう情報とそれを見る想像力

連:

取材で様々なグッドプラクティスに共通していることは、資本主義的マナーを極めてしっかり守っているということです。つまり、慈善やボランティアの次元ではなく、ちゃんとした事業として展開している点。それは素晴らしいことなのですが、一方、資本主義の大きな流れから見たとき、「新しい商品」が生み出されていると見ることもできます。あるいはそうではなく、資本主義的な価値観から外れていく事象が含まれていると見るべきなのか、考えさせられました。

近内:

一言で新たな商品と言っても、色々な意味があると思います。内実が伴わない、単に金融的な価値が高められた商品と、例えば刀鍛冶の方が丹念に時間をかけてつくった包丁の商品の価値はやはり異なると思います。
名士が「地域のためになるならば先祖代々受け継いできた土地を売ってやる」という場合には、見た目としては資本主義の取引ではあっても、金銭以上の利他的な関係性や価値をはらんだものになっていると思います。だから、この場合は「売る」というよりも「あなたに譲る」とか「あなたに託す」という言い方のほうがふさわしいのかもしれませんね。売買ではあるけれども、相手が誰でもいいわけじゃない、という点に贈与性が含まれているように思います。なぜ贈与性があるかというと、そこでなされるやり取りがシステマティックではないからです。相手がちゃんとそこにいる。固有名をもった具体的な相手が。それに対し、例えば市場価値がいくらだからとか、今後の資産価値がこうなりそうだから、という視点でなされる売買は単なる交換です。売買の双方に顔がありません。だからそのやり取りにおいては背景も歴史もなくなってしまいます。

Fig. 3: 近内悠太さん。

連:

近内さんは、『世界は贈与でできている──資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング、2020年)で、贈与の時間的なズレ、後から贈与に気がつくことについて書かれていましたね。物と人の関係のなかで、そのように事後的な気づきが生じることがあります。やはり物自体の履歴、存在感や強さは、数字や定量性に還元できないところがあると思います。

伊藤:

いわゆる大量生産品であっても、本当は職人の包丁と同じようにストーリーがあるのだと思います。「魔改造の夜」というNHKの番組に関わっているのですが、この番組のおもしろいところは、普段なかなか光の当たらない、表に名前の出ない開発者に光が当たるところだと思っています。例えばユニクロのヒートテックの開発に関わった繊維メーカーの社員さんが出演した回がありました。その人の名前はユニクロの肌着のタグにはクレジットされず、隠されているのですが、でも確実に背後につくった人がいる。ユニクロ製品の縫製に関わっているベトナムの会社にも行ったことがありますが、その会社の名前もクレジットされません。資本主義のなかでも、あらゆる商品がもつ背景を想像する力を鍛えたいところです。

近内:

一般的に流通している情報、検索してすぐにわかるような情報ではなく、自分の興味関心から物のバックグラウンドを探求することができるかどうかが問われますね。

連:

例えばトーマス・トウェイツの『ゼロからトースターを作ってみた結果』(新潮社、2015年)は、まさにそういったひとつの商品の背景にある複雑なネットワークやシステムを私たちに想像させるプロジェクトですね。普段の私たちは、資本主義によってそうしたことを想像する力や感性も飼いならされているので、おっしゃるように物の見方、価値観を変えるということもすごく重要だと思いました。多様な文脈を引き受けて改修された空き家に泊まるのと、ビジネスホテルに泊まるのとでは、当然宿泊者のマインドが違うはずです。 吉良森子さんと加藤耕一さんとの鼎談では、マテリアルへの感性を鍛えることや、単にお金がかかっているということではない「ラグジュアリー」を考えることの可能性も指摘されました。

プロジェクトの理念と持続可能性、労働と活動

連:

取材を通して、プロジェクトの崇高な理念の部分と事業としての持続可能性を担保することのバランスを保つ難しさも感じました。歴史的な価値あるお屋敷を残しながら、背景にあるストーリーを伝えることと、ビジネスとして広くお客さんを集めていくことを両立させるのは並大抵のことではありません。当然、当初の理念や思いがベースにありつつも、それを純粋なかたちのまま保持することにも限界があります。理念と持続可能性をうまく両立することが可能なのか、様々な方法や考え方があると思いました。

近内:

週4日は事業として収益を上げて、残り3日は社会のために活動する、といったように理念と事業の持続は相反するものではないと思います。
例えば本居宣長は、医師として生計を立てながら、古典の研究を続けていました。うまく稼ぎながらも、自己のための探求や、人類にとって大切な仕事が継続できれば良いですね。働き方の問題は大きいと思います。

伊藤:

2022年に施行された労働者協同組合法によって、労働者協同組合が法人として制度化されました。普通の株式会社は労働者(従業員)ではなく、株主の方を向いているものですが、労働者協同組合は、メンバーが出資者になって働き、組織の経営方針などをみんなで決められるというものです。社会制度として週に3〜4日働いて、それ以外の日を別の活動に割くことができるようになれば良いのですが。

連:

各自の仕事との向き合い方は大事な問題ですね。私は東京の大田区蒲田で、まちをおもしろくするために「@カマタ」という会社を5人でやっているのですが、みんなそれぞれ別の仕事もあります。@カマタでは、出資するだけではなく、ちゃんとプレーヤーとして@カマタの仕事をすることや、住まいか職場が蒲田近辺にあることを独自のルールとしています。そこではまさに様々なものがワークしていくためにどんぶり勘定が大事で、例えば役員報酬の額を決めるにしても、細かく各自の貢献や労働時間を数値化して決めようとすると色々辻褄が合わなくなったり、モチベーションという意味でもうまくいかなくなってしまいます。そういう意味で、どんぶり的にある程度決める必要がでてくるのですが、そこで改めて各自がどのように仕事をしていくのか、時間の使い方やプロジェクトへの向き合い方などが問われます。

伊藤:

人々が生きる環境には色々な条件の違いや分布があることを踏まえて、社会全体として資源や仕事がぐるぐると回っていくようになれば良いですね。
四国の真ん中の山間部にある早明浦ダムというダムを訪れました。このダムは50年ほど前にできたもので、高知県に位置するのですが、高知県の人たちはその水を飲んでいないのです。恩恵を受けている人たちは、香川県や愛媛県や徳島県の人たちです。水は、実はダムの周辺の森林を管理することよって質が保たれているのですが、いわゆる林業は専業ではなかなか生業になりません。そこで、どうやったら都市の利水地域に住む人と、山に暮らす人をつなぐか。具体的に言うと、都市から山へという資金の流れをどうつくるか、ということに取り組んでいる方に出会いました。

連:

建築の領域でも、アクターネットワーク理論を援用しながら、使用するマテリアルがどこから来て、誰が加工しているのか、どう届けられて、建築ができたあとはどうなっていくのか、といった物事の背後にあるネットワーク、時間についての議論も世界的に行われるようになっています。
「建築とまちのぐるぐる資本論」では、ある地域の中でぐるぐると社会資本含めた資本が回っている系を見てきましたが、当然、ひとつの系はそれだけでは完結せず、他の系とつながり合っていますね。

伊藤:

日本や台湾は超少子化の国で、ケアの労働力が足りないために、フィリピンやインドネシアから人が働きに来ます。すると今度は現地で足りなくなった労働力は農村から集めることになります。そうした、担うべきケアの労働力が玉突き的に別の場所へ移動することをグローバル・ケア・チェーンと言いますが、マクロな経済格差なども絡む難しい問題です。
一方、ミクロでは様々なことが起こっています。インドネシアには、仲間と一緒にお茶をしながらおしゃべりをする「ノンクロン(Nongkrong)」という慣習があり、情報交換やお互いの悩み事を解決したりする最もシンプルな相互扶助になっています。インドネシアの人がケア労働のために台湾へ行き、平日は家庭で家事をしたりして働きますが、週末は仕事から解放される代わりに居場所がないので、みんながまちに出て駅前などでノンクロンする。それが台湾の人との間でトラブルになったこともあったそうです。
異なる系同士の経済ネットワークによって文化や慣習もぶつかり合うことになり、簡単に善悪がジャッジできないような思わぬことが起きます。

連:

日本はごく一部の地方を除いてご近所さん同士の関係も希薄ですし、宗教的なコミュニティも弱いですし、大手チェーンやショッピングモールが浸透していて、ある意味では資本によって相互扶助的なものが漂白されてしまっていますね。

伊藤:

日本はハイフォーマル・ソサエティなので、ボトムアップ的なものに憧れがあると思います。逆にインドネシアやフィリピンでは、国によるフォーマルなケアが充実しておらず、例えば道路が壊れても町内会のような自治の仕組みを使って、自分たちで直さなければなりません。インドネシア国家は、何もしないことの言い訳として相互扶助社会だと言う、という批判も耳にします。

連:

そういう意味では、やはり日本ではボトムアップ、地域のつながり合いや活動を意識的につくっていかないといけないということですね。

近内:

日本では、子育て世帯が多い地域では自治的な活動が生まれやすいと思います。日々成長していく子どもたちという「共通の大切にしているもの」があるので、そこには監視ではなく、見守るという作用が起こりやすい。それはゼロサムのゲームではないのです。だから親同士にも利他的な連帯が生まれます。やはり子どものケアといった切実な共通問題が必要なのではないでしょうか。
地域社会のような小さな単位のつながりは改めて大事だと思います。そもそも人間の脳は、大きすぎる人的ネットワークを正確に捉えられません。顔の見える人々とのやり取りによって、自らの仕事がどこに役に立っているかを自覚することは大切だと思います。
タクシーに乗ると座席前のモニターで見させられる「組織を最適化!」といった広告にはげんなりしますね(笑)。大きな組織がうまくいっていないからといって、そんな機械的なシステムを入れてしまったらますますみんなが苦しくなるのではないかと思ってしまいます。

連:

まさに山崎亮さんが面識をもった人同士の経済的な関係性、「面識経済」の重要性について話をされていました。

Fig. 4: 連勇太朗さん

変化し続けるための学びと驚き

連:

現状の社会に対して閉塞感を感じていて、そこから突き抜けてしまったのが取材先の人たちでしたが、世の中には週5日勤務という固定概念が根強くありますし、それに対して違和感やモヤモヤがあっても、なかなか抜け出せなくて苦しい思いをしている人もたくさんいると思います。

伊藤:

確かに現実はとてもシビアです。大企業が利他やケアに関心をもつのも、資本主義的な活動の外部にある免罪符みたいなものとして捉えられているのが現状です。それは私たちが考えたいこととは違っていますが、私たちの力不足なので、いかに資本主義のなかにそれを入れていくかを考えなければなりません。利他とは、自分の利益を最大化するという資本主義の基本からするとだいぶとぼけた行為ですから(笑)、深い意味をもって伝わるということはやはり難しいです。だからこそ、心の問題ではなく仕組みの問題です。
高齢化社会とAIは、近代的な主体を基本に据えている制度を土台から変えていくかもしれないと思っています。高齢化やAI の浸透は、ある意味で人間の自律性や主体性を奪うようなところがあります。そうなると、個人所有という概念や、物の購入するときの自発性をもとにした自由市場など、資本主義の前提も捉え直さざるを得なくなるかもしれません。

近内:

人間は、幻想を抱いて判断してしまったり、とても変なことを考えてしまったり、おかしな振る舞いもしてしまうとても弱い存在です。人間の主体性や理性が信じられ過ぎた時代のフェーズがそろそろ終わるような気がしています。一見馬鹿げた行為に見えるもの、つまり愚行の価値を再認識する必要があるように思います。

連:

強烈な資本主義のなかで、私たちの常識や固定観念をいかにキャンセルして突破口を見出すことができるのでしょうか。

近内:

うんざりすることだと思います。しかも、徹底的にうんざりすること。心からうんざりすれば人は動き出せる。北極点に立っていれば、どちらに一歩進んでも南に向かうことができるのと同じように、徹底的にうんざりした後は、どこに進んでも正解になるはずですから。現状がしんどい、嫌だな、何か違うなと感じていても、心底うんざりしていなければ、焦って動く必要はないと思います。今は、消費というものに対して結構うんざりしている人も多いのではないでしょうか。それは何かの兆しだと思います。

伊藤:

外へ踏み出すときには、「その人だからこそ」というある種の作家性みたいなものが必要だと思います。でも、100%自分にしかできないとか、代わりがまったくいないという状況もしんどいので、良いバランスで作家性とシステム・仕組みを両立させることが理想的ですね。
持続可能性という意味では、学びがあるかどうかだと思います。理念や使命感だけでは続けられませんから。

近内:

そうですね。学び、もしくは驚きでしょうか。本人も周りも驚いてしまうような変化がないと、当初の目的を見失ったり、エネルギーが枯渇していきます。システムをときに逸脱して遊びながら変化していくことだと思います。

連:

私たちが手がけている「モクチンレシピ」は、工務店や不動産屋さんなどに向けて改修アイデア、図面を公開するものです。それらを自身で使用することで、木造賃貸住宅をローコストでリノベーションすることができる課題解決のツールです。でも、事業を続けていて気がついた価値は、モクチンレシピがあることで互いの学び合いがあるということでした。改修によってデザインのアイデアを学ぶだけではなく、提供する私たち自身も不動産屋さんが抱えている問題や関心を知ることができるということが、お金のやり取りに換算できない最も重要な価値だと思っています。

伊藤:

探検家の角幡唯介さんは、21世紀の今、地球のあらゆる場所に人が到達して地理的な空白部は消滅しているので、探検のあり方が変わってきていると書いています。彼は北極圏で犬ぞりを飼って生活をしていますが、毎日同じところに出かけても日によって小さな変化があるので、裏庭のようによく知った場所でも冒険になりうると語っています。土地の名前や地図、GPSやスマートフォンといったテクノロジーなど、網目のごとく構成された社会システムの「外」を想像することによって、自ら未知の世界へ行くことができるのだと思います。

連:

確かに文字通りの未開の地に行くのは資本主義的な感性ですが、私たちがよく知る場所であってもその循環のなかに新しい学びや驚きの芽がたくさんあるわけで、そうした想像力を鍛えていくことがとても大切なのかもしれません。やはり私たち自身が、資本主義的な感性や見方を逸脱するためのトレーニングを日々していかなければならないと再認識しました。

Fig. 5: 近内悠太さん(左)、伊藤亜紗さん(中央)、連勇太朗さん(右)。

文責:富井雄太郎(millegraph) 服部真吏
撮影(特記なし):富井雄太郎
サムネイル画像イラスト:荒牧悠
[2025年3月3日 明治大学駿河台キャンパスにて]

伊藤亜紗(いとう・あさ)

東京科学大学未来社会創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授
専門は美学、現代アート。生物学者を目指していたが、大学3年次に文転。障害を通して、人間の身体のあり方を研究している。2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野を単位取得退学。博士(文学)。
主な著書=『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社、2013年)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社、2015年)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版、2016年)、『どもる体』(医学書院、2018年)、『記憶する体』(春秋社。2019年)、『手の倫理』(講談社、2020年)。

近内悠太(ちかうち・ゆうた)

教育者、哲学研究者。
1985年神奈川県生まれ。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。
主な著書=「知のマッシュアップ」を実践している。『世界は贈与でできている──資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング、2020年)、『利他・ケア・傷の倫理学──「私」を生き直すための哲学』(晶文社、2024年)。

連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)

1987年生まれ。建築家、博士(学術)。明治大学専任講師、NPO法人CHAr(旧モクチン企画)代表理事、株式会社@カマタ取締役。
主なプロジェクト=《モクチンレシピ》(CHAr、2012)、《梅森プラットフォーム》(@カマタ、2019)など。主な作品=《2020/はねとくも》(CHAr、2020)、《KOCA》(@カマタ、2019)など。主な著書=『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版社、2017年)。
http://studiochar.jp

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公開日:2025年03月26日