連載「よりマシな世界のためのデザイン──Architecture for a better world」第1回
そこに存在するものをあるがままに受け入れる
連勇太朗(建築家、 CHAr)
今、私たちの暮らしはどこか窮屈で、退屈さや息苦しさを帯びているように感じられる。地球温暖化や格差の拡大、過剰な消費や情報の氾濫、紛争や災害……。世界に目を向ければ、日々の暮らしから遠く離れた、あまりにも複雑で手に負えないような問題が次々と浮かび上がってくる。現在の社会システムが、資本主義の論理だけでこのまま駆動し続けていくとは到底思えない。いずれ大きく揺らぎ、崩れる状況に直面するかもしれない。実際リーマンショックやパンデミックを通して私たちはそれを経験してきた。だからこそ、資本主義が提供する巨大で無機質な仕組みとは別に、大小様々な別の社会を用意しておくことが、現代を生き抜いていくために必要になるのではないだろうか。
そのような試みを、「社会の複層化」と呼んでみたい。多様な価値観や関係性を内包した小さなシステムを重ねていくことで、社会の厚みを増し、しなやかにしていく。そうすることで、今の資本主義システムそのものも、少しずつ変えていけるのかもしれない。
本連載では、建築という営みが社会の複層化にどのように寄与できるのか、具体的な事例を織り交ぜながら考えていく。荒れた世界を少しでもやわらかく、生きやすい場所へと近づけるために。
システムを手で修復する
ある夜、NHKスペシャル「廃炉への道 第1回 放射能“封じ込め”果てしなき闘い」を見ていて、テレビに映し出された福島第一原発の廃炉作業の様子に釘付けになった。2011年の東日本大震災以降、福島第一原発では、数万年にわたり高い放射線を発する燃料デブリを取り出し、原子炉を解体する「廃炉」が進められている。原発中心部は人が容易に立ち入れないほど放射線量が高い状態にあり、メルトダウンした三基の原子炉を同時に廃炉にするのは人類初の試みである。外の除染作業がひと段落し、ようやく原発中心部で燃料デブリを取り出す計画を立てるための調査を始めようとしているが、そこで長時間作業できるのはロボットだけである。2号機の調査では、放射線量を測定するロボットと、途中にある障害物を撤去するロボットの二台が投入された。しかし、後者のロボットは床に散乱する瓦礫によって途中で転倒し、調査は予定通り実施できなくなる。また、1号機では、原子炉格納容器の内部に入るために直径55センチメートルの貫通部を通るロボットの投入が計画されるが、そもそもロボットを設置するために貫通部まで作業員が接近する必要があり、周辺部の放射線量があまりにも高いため、この計画も途中で変更を余儀なくされる。テレビに映し出されていたのは、合理性と安全性の象徴だった原発の廃炉作業が、文字通り手探りで進められている様子であった。あらゆる作業が、マニュアルや最先端のロボットでは対応しきれず、人の力を常に必要としている。「左、左、まっすぐ」と声を掛け合いながらロボットが操作され、実際に人が立ち入れるかどうかが議論され、当直の人々によって格納容器の状況は24時間体制で監視が続けられる……。近代工学の頂点とも言える構造物が、地震と津波によって破綻した後、その「修復」は、最先端技術によって着々と行われているどころか、作業員が手、足、耳、声を使いながら、生身の身体を拠り所に暗中模索で作業や調査が進められていたということに、眩暈がした。
ここから極めて象徴的な教訓を得ることができる。完璧なシステムは存在せず、システムの破綻の後、その修復には人の手や創意工夫を必要とするということ。どれだけテクノロジーが発展したとしても、現実の複雑性のなかで、人そのものを捨象することはできないということ。
都市やまちもまた、機械のように自動的に回り続ける機構ではない。制度や計画の枠組みだけで機能しているのではなく、日々の修繕や改良、現場での判断といった人々の関与が積み重なって、かろうじて存続している。この真実を改めて直視すべきではないだろうか。いくら技術が発展しても、メンテナンスし続けるということから逃れられないのだとしたら、私たちは自らの手で維持・改変できるシステムを、できる限り数多く備えておく必要がある。
3.11以後の世界とリノベーションまちづくり
東日本大震災以降、2010年代を通して国内で「リノベーションまちづくり」が隆盛を見せたのは決して偶然ではない。社会のなかで見えなかった(あるいは見えないふりをしていた)諸々のシステムが確かなものではなく、様々な制度や仕組みへの信頼が揺らいだとき、目の前には大量の空き家・空きビル、寂れた中心市街地、空洞化した住宅地があったのだ。人々が、「自らを支える基盤としてのまち」を自覚し、点在する空き家や空きビルを空間資源として再解釈し活用へと踏み出した。2010年代は、まさに時代の空気が変わり始めたときだったと言える。
そもそもリノベーションまちづくりとは、空き家や空きビルなどの既存建物を地域資源として再生・利活用し、まちの価値を高めようとする取り組みである。従来の大規模再開発とは異なり、小規模な改修や活用を通じて、まちの魅力や活力を引き出すことを目的としている。北九州市中心部などを皮切りに全国に広がっていった。
ここで注目したいのは、それが人々に、自らの手で空間を創出し、つくり変えていくことを可能にしたという点だ。リノベーションまちづくりは、建築家や都市計画家といった専門家ではなく、地主、商店主、小規模事業者、生活者などの非専門家が主要な担い手となって活躍している点が特徴だ。目の前に具体的な空間や物があることで、「まずはやってみよう」「何かできるはずだ」という意識や行動が引き出されたのだ。こうした動きを「フロー型からストック型社会へ」「新築至上主義から循環型社会へ」といった産業的なスローガンとともに語ることも可能だが、本質は空間資源を目の前にして、個々人の内側に建て替えやスクラップ・アンド・ビルドとは違った社会的想像力が芽生えたことにある。
冷静に考えれば、「リノベーション(改修)」と「まち」というまったく異なるスケールの言葉が結びついているのは不思議なことだ。しかし、人々の意識が変化し、目の前にある確かなものから行動を始めて、大きなスケールで存在する「まち」を自分たちの手元へ引き寄せる営みに転化させていったことは、自然な流れにも思える。「目の前にある既存を修復する」という行為は、そのまま都市や地域、まちといった広いスケールで環境を変質させ、システムそのものを変えていくアプローチになり得たのだ(★1)。
「リノベーションが大切」「改修は良い」と主張することもできるが、これからの社会をつくっていくうえでそれは手段のひとつにしか過ぎない。思考をさらに一歩前に進めるために、目の前のあるものに働きかけたり、変えたり、調整したりするということが、どのような意味をもつのかを考えてみよう。
バルコニーとゴンドラリフト
1987年にパリで設立された設計事務所ラカトン&ヴァッサルは、フランス各地でのソーシャルハウジング(公営住宅)の再生を通じて、建築がデザインの対象とする範囲を大きく拡張して見せた。その根本には、何を既存と見なすのかという問いに関わるラディカルな認識の転換がある。
1990年代以降、老朽化を理由に多くの公営住宅が取り壊しの対象となるなか、彼らはスクラップ・アンド・ビルド型の更新手法に異議を唱え、既存住宅の価値を評価し、その活用を促すオルタナティブな方法論を、研究や書籍を通じて発信してきた。そして、パリの「Tour
Bois-le-Prêtre」(2011年)やボルドーの「Grand
Parc」(2017年)などのプロジェクトで実際に実現していく(フレデリック・ドルオーと協働)。その方法は驚くほどシンプルだ。第一に、既存の躯体には極力手を加えないということ。第二に「ウィンターガーデン」と呼ばれる、奥行き約2.8mの広い室内バルコニーとポリカーボネートの建具で仕切られた1m弱の外部バルコニーの2層で構成されたユニットを、各居室を拡張するように増設するということ。基本的に大きな建築的アイディアはこの二点だ。しかし、その効果は驚くほど大きい。
バルコニーの追加により、外観の印象は大きく刷新され、内外の中間領域があることにより建物の断熱性能は向上し、居住者が自由に使える空間が拡張し享受できる風景は拡大した。さらに増築部は、外周に対して独立した構造フレームを設け、プレキャストコンクリートの床板や柱をクレーンによって足場を組み立てるように素早く施工できるようになっていて、そのおかげで施工期間は大幅に短縮され、工事中も居住者は住み続けることができた。「Grand
Parc」では3棟(G・H・I棟)計530戸が改修され、コストも建て替えの3分の1で済んだという。驚異的な成果である。
このプロジェクトの重要な点は「生活の連続性が断ち切られなかった」ことにある。住人は仮設住宅に移ることなく、住み続けながら、空間が豊かになっていくプロセスを経験したのだ。つまり、このプロジェクトの革新性は、人々の生活の時間とリズムを既存として扱い、そこに敬意をもって建築を実践する態度にある。ここでラカトン&ヴァッサルらが「既存」と捉えたものは、建物の躯体だけでなく、そこに住む人々の暮らしそのものであった。つまり、部屋の使われ方、日照への欲求、ベランダでの会話、家族の食卓、隣人との視線のやりとり……、そういった日常が、設計・計画に先立つ前提条件と捉えられている。コンクリート、ガラス、ポリカーボネートなど即物的かつ安価な材料の組み合わせによる質素な外観とは対照的に、バルコニーに色とりどりの植栽、自転車、ソファーが置かれている生活の様子は、このプロジェクトが物理的な更新を超えて、人々の生活の深い部分に根ざすことで実現したことを物語っている。
「Grand Parc」は、6月に訪れた。2層のバルコニーが存分に活用されている。
ラカトン&ヴァッサルのつくり出す軽やかで透明な建築は、一般的な感覚からすると、あまりにも簡素で荒々しく、受け入れ難いかもしれない。多様な背景をもつ人々が住まう公営住宅で、その即物的なデザインが受け入れられているということには素直に驚かされる。通常は相容れない眼差しが共存しているのは、そこに社会と空間を紡ぐ一貫した美学があるからだろう。(★2)。
2021年には、こうした設計思想が評価され、建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受賞した。ふたりはそのスピーチで、彼らの合言葉でもある「Never demolish(決して壊さない)」とともに以下のように宣言した。
私たちは、解体・排除・削除・切断をやめ、都市をあるがままに、そのままの姿から始め、手元にあるすべてを使って考え、発明しなければならない。どんな建物でも改造や再利用は可能だ。どんな木でも大切に保存できる。どんな制約でも肯定的に転換できる。
同様に「既存」の定義を拡張した特筆すべきプロジェクトとして、アーバン・シンクタンク(Urban-Think
Tank)によるベネズエラの首都カラカスのスラムでのゴンドラリフト整備プロジェクトがある。このプロジェクトは、スラムの住民を郊外へ移転させるような再開発的なアプローチではなく、山肌に広がるスラム全体を既存の都市構造として尊重し、その上に移動インフラを加えるという方法がとられた。ゴンドラリフトは「メトロカブレ・デ・カラカス(Metrocable
de Caracas)」として2010年1月に開通し、スラム地区とまちの中心部を結ぶ公共交通の一部として統合された。1時間に1,200人程度を輸送可能で、住民の暮らしを支えるインフラとなっている。
一般的に、スラムは改善するべき対象として見なされているが、アーバン・シンクタンクを主宰するふたりの建築家アルフレド・ブライレンブルグとフバート・クランプナーは、エリアを丁寧に調査し、地域住民とワークショップを繰り返すなかで、人と人が出会い、コミュニティが育まれ、生き生きと人々が生活する密集市街地の魅力を発見していく。一方で、医療を含めた公共サービスへのアクセスが課題であることも明らかになる。彼らは、既存の都市構造を保存し、最小限の介入によってこれらの課題を解決するゴンドラリフトの設置を提案し、それが地域に受け入れられ実現した。
ここで既存として扱われたのは、物理的なストックや建物だけではなく、複雑な地形と、そのなかで編まれてきた居住の知恵、インフォーマルな経済、そしてコミュニティの社会構造そのものである。アーバン・シンクタンクは、まさにそうした既にある社会関係を壊さず、最小限の手数(しかし大胆な方法)で課題を解決した。(★3)
資源としての既存
「既存」は人々にとって、サバイブするための資源のひとつだ。ゆえに先述したふたつのプロジェクトの社会的インパクトは計り知れない。既存は、お金とは別のセーフティネットを私たちに用意してくれる。人と人、記憶、文化、過去とのつながり、場への愛着、安心感と安らぎ、知識や知恵。既存を破壊するということはこうした資源を一度リセットする行為に他ならない(★4)。
そもそも、私たちの生きる社会は複層的だ。大小様々な社会的レイヤーの重なりのなかで私たちは日々を生き、また、時間の蓄積によって様々な要素が掛け合わされ、新しい社会的レイヤーが生み出されていく。問題なのは、グローバル資本主義が、こうした複層性を一元化し、単層化していく力をもっているということだ。金融商品として不動産事業や再開発事業を扱う力は凄まじく、それらは既存の社会的レイヤーを壊し、一掃していく。全国の駅前商店街が小規模個人店からチェーン店へと置き換わり、世界中の都市で同じようなオフィスビルが林立する風景は、こうした一元化する力が空間的に反映された結果である。歴史的街並みが西欧圏に比べ少なく、戦後、スクラップ・アンド・ビルドによってまちの風景が刷新されてきた日本という場において、この傾向はより顕著である。過去とのつながりをまちを通して感じることが難しいのだ。
これは建築や風景だけに限らず、社会における労働、暮らし、教育などで語られる「生きづらさ」の問題にも関わる。仕組みが一元化していくことで、多様な生き方や価値観は社会から排除されていく。現代は、複層性を奪い単層化しようとする力と、社会の層を編み直し、厚みを取り戻そうとする力が拮抗する時代なのかもしれない。
関係性を建築する
建築を、目の前にある事物をより良い状態へと更新していく営みとして捉えてみよう。そうすることで、建築という知・技術を、社会を複層的にしていくための力にすることができる。それは建築を、様々な事物、人、情報が組み合わされ、それが物理的・空間的に反映されたものとして認識することを意味する。空間を変えていくという行為は、背後にある事物の関係を結び直したり切ったりすることなのだ。そういう想像力をもつことは社会にとって無駄なことではないだろう。
おもしろいのは、それは誰もができるということだ。そしてそのためにも、常に何かが先行して存在することが担保されなければならない。タブラ・ラサ(白紙)からこの集合的行為を達成することは難しい。
建築は長らく、網膜に直接訴えかける形態、フォルム、造形、物理的構成に焦点を当てて語られてきた。そして今それが様々なかたちで悪さをしている。こうした傾向は、SNSをはじめとする情報環境の爆発的な普及によって一層強まっている。整形や美容の広告が電車、画面、外壁から発信され続ける現代のこの状況を考えれば、建築に限らず、これは視覚文化全体の問題だ。人々は視覚的刺激や身体的快楽を求め彷徨っている。それに応えるかのように生産されるヴィジュアル重視の建築は、利潤の最大化を目的とする資本主義の様々な営為と相性が良いため、そこに飲み込まれていく。
関係性は目には見えない。ゆえに事物のつながりや関係を大切に育んでいくことは容易なことではない。しかし、そうした知識や技術は確実に存在し、発展させていくことができる。建築の長い歴史と蓄積されてきた知恵から私たちは多くのことを学ぶことができるはずだ。建築を「社会を複層化するための技術」として見つめ直すことで、資本主義の一元化する力に抗うことができる。そのかたちはウィンターバルコニーやゴンドラリフトのようなものかもしれないし、日常のなかの細やかな修繕やメンテナンスのようなものかもしれない。多様なかたちで編まれていくその営みは、やがて見えない関係性の地層として社会を厚くしていく。
注
★1──別の視点から考えると2000年代を通して、小さなことから始めて大きく育てるという思想はひとつの基調をなしている。ソフトウェア開発の領域では「アジャイル」が、ビジネスの領域では「リーンスタートアップ」が、都市デザインの領域では「タクティカル・アーバニズム」が注目された。どれも不確実な社会や環境において、いかに小さな実践を素早く展開し、大きな社会的インパクトを達成するのかという点で共通している。
★2──建築史家・市川紘司も、ラカトン&ヴァッサルが「ファインアート」の文脈からも「ソーシャル・エンゲージメント」の文脈からも評価されていることを指摘している。 市川紘司「建築の展開2014」、「artscape」2014年02月15日号、URL: https://artscape.jp/dictionary/newword2014/contents/10096454_18765.html
★3──『Small Scale, Big Change: New Architectures of Social Engagement』(Museum of Modern Art、2010)参照。
★4─阪神・淡路大震災では、ピーク時には50,000戸近くの応急仮設住宅が建設されたが、本来の居住地と関係なく入居場所が割り振られたため、高齢者の孤独死の増加など、コミュニティの分断や消滅が問題となった。これは、専門家や計画者が背後にある人間関係の存在を空間的な課題として正しく認識していなかったことによって引き起こされた。
サムネイルデザイン:太田知也
連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)
1987年生まれ。建築家、博士(学術)。明治大学専任講師、NPO法人CHAr(旧モクチン企画)代表理事、株式会社@カマタ取締役。
主なプロジェクト=《モクチンレシピ》(CHAr、2012)、《梅森プラットフォーム》(@カマタ、2019)など。主な作品=《2020/はねとくも》(CHAr、2020)、《KOCA》(@カマタ、2019)など。主な著書=『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版社、2017年)。
http://studiochar.jp
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公開日:2025年08月26日

