連載「よりマシな世界のためのデザイン──Architecture for a better world」第4回
想像力が風景をつくる
連勇太朗(建築家、 CHAr)
今、私たちの暮らしはどこか窮屈で、退屈さや息苦しさを帯びているように感じられる。地球温暖化や格差の拡大、過剰な消費や情報の氾濫、紛争や災害……。世界に目を向ければ、日々の暮らしから遠く離れた、あまりにも複雑で手に負えないような問題が次々と浮かび上がってくる。現在の社会システムが、資本主義の論理だけでこのまま駆動し続けていくとは到底思えない。いずれ大きく揺らぎ、崩れる状況に直面するかもしれない。実際リーマンショックやパンデミックを通して私たちはそれを経験してきた。だからこそ、資本主義が提供する巨大で無機質な仕組みとは別に、大小様々な別の社会を用意しておくことが、現代を生き抜いていくために必要になるのではないだろうか。
そのような試みを、「社会の複層化」と呼んでみたい。多様な価値観や関係性を内包した小さなシステムを重ねていくことで、社会の厚みを増し、しなやかにしていく。そうすることで、今の資本主義システムそのものも、少しずつ変えていけるのかもしれない。
本連載では、建築という営みが社会の複層化にどのように寄与できるのか、具体的な事例を織り交ぜながら考えていく。荒れた世界を少しでもやわらかく、生きやすい場所へと近づけるために。
あるかもしれない別の可能性
住まい、仕事、教育、老後について……、私たちは損をしないように、失敗をしないように、合理性や効率性を重視して選択を積み重ねてきた。その結果、別の可能性を想像する力を手放してきた気がする。結局は「想像力」の問題に行き着く。別の世界、別の社会、別の暮らしを手繰り寄せ、あるかもしれない別の未来や可能性を想像できるか。
社会学者の大澤真幸は、資本主義はお金や市場を中心に語られる経済現象ではなく、制度、科学、文学まで含めた文化・社会現象として考える必要があると言っている(★1)。つまりそれは、資本主義という仕組みそれ自体に私たちの思考が大きく影響を受けているということだ。一見、経済に関係のない領域においてさえ、私たちは何かを判断し、他者と会話し、意思決定をする際に、資本主義的な価値観をもとに行動している。もちろん、それ自体は悪いことではない。問題は「別の選択肢」を想像する力を失うことだ。選択肢がなくなっていくことにより、多様な価値観が失われたり、暮らしがつまらなくなったり、生きづらさを感じるのであれば、このままでいいのだろうか、と立ち止まって考えたくなる。
マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』(堀之内出版、2018年)で広く知られるようになった「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」という一文は、1990年代以降を生きる私たちの世代にはよく理解できる感覚だ。資本主義の「外側」なんて考えたこともない。資本主義リアリズムやフィッシャーの暗さや苦しさは、この一元化しようとする力に対抗できない無力感からくるものなのかもしれない。
さて、実際にはこの一文には続きがある。引用元のフレデリック・ジェイムソンの元の文章には、セミコロンで別の文章が添えられているのだ。
「perhaps that is due to some weakness in our imaginations.(それは私たちの想像力の欠如の問題である)」
平和も、変革も、そして何気ない日常でさえ、その背後にはいつも私たちの想像力が介在している。ジョン・レノンも歌っている──「Imagine all the people」と。正直に言えば、このフレーズはあまり好きではなかった。あまりにも理念的で、ユートピア的で、「それ、できたら苦労しないよね」とツッコミを入れたくなる感じがある。けれど最近、少し考えが変わった。目の前の現実に対して、新たな想像力を重ねていかない限り、私たちの選択肢は気づかないうちに狭まっていくばかりだ。
2026年、首都圏郊外の駅前
想像力は具体的な風景となって私たちの前に現れる。先日、郊外にある実家へ向かう途中、駅で弟を待っているときのこと。その駅の改札上部には、大きな広告スペースがあって、ふと目をやると、掲載されていたのは左から順に「塾」「塾」「薬局」「ヨガ」「クリニック」「お墓」「塾」「マンション」「クリニック」「大学」……。教育、医療、住まい、死。郊外の駅の風景をつくっているのはやはりそこに住む人々の求めていることだろう。あまりにもわかりやすい対応関係に、思わず苦笑いしてしまった。
建築家の小嶋一浩さんが「フィクション」という言葉をしきりに使っていたことがずっと頭に残っている。私たちの社会は常に様々な可能性があって、今ある現実は、その可能性のひとつにしか過ぎないと。建築はそうした恣意的に選び取られた社会をもとにつくられているから、建築家は建築の創作を通して、別の社会や現実の可能性を提示することができるのだという、そんなメッセージが含まれている言葉だと私は理解している。
後から、このフィクションという考え方に、原広司さんの影響があることを知った。原さんが1970年代から20年かけて行った集落調査は、近代建築が前提とする空間や社会とは異なる、あるかもしれない別の現実、そしてそれをもとに組み立てられる空間を探し出す旅だったと言える。『集落の教え100』(彰国社、1998年)には、「共同幻想」という教えが紹介されている。私たちが集団的に共有するイメージや夢がその社会の輪郭をつくり、建築や都市をかたちづくっている。現代の社会や都市はあまりにも巨大で複雑であるため、そうしたことを忘れてしまいがちであるが、やはり自分たちひとりひとりの想像力が、そのまち、その社会をつくっているのだろう。
けれど現代の社会では、こうした複数あり得るはずのフィクションのうち、測りやすい価値を優先したひとつだけが、あたかも唯一の現実であるかのように扱われている。今の資本主義が優先する価値は、多くの場合、短期的な利潤の最大化へと傾きやすい。そして原則に沿って、様々なプレイヤーが意思決定をし、まちや空間ができている。どこでも同じようなチェーン店が増え、土地は細分化されていき、駐車場が増え、私有地を主張するフェンスがまちを張り巡らすようになってしまった。今一度、別の想像力を携えて、例えば協働することや連携すること、中長期的な価値を生み出していくことを目指して、まちの風景をつくっていくことができないだろうか。
2019年、ベルリン
ベルリンの中心地であるアレグザンダー広場の目の前に、ガラスが割られ、赤い文字で外壁に大きく「STOP WARS」と書かれた巨大なモダニズム建築の姿を、いまもはっきりと思い浮かべることができる。地元の建築家に案内してもらった「Haus der Statistik」と呼ばれるこのプロジェクトは、旧東ドイツの統計局として使われていた空きビルを再生しようとする試みだ。再開発によって均質で磨き上げられた風景が増えていく東京に慣れ親しんでいると、この建築はどこか異様な存在として立ち現れる。


ベルリン中心地・アレグザンダー広場に面する「Haus der Statistik」。
延べ床面積約5万平米のこの建物群は、10年以上空いたまま使われず放置されていたが、2015年に建物を複数のイニシアティブや市民団体が、難民支援住宅や文化拠点として再生する提案をしたことからプロジェクトが動き出す。私が訪れたときは、中庭や空いているスペースがDIY的に改造され、屋台、ベンチ、ステージ、畑などを使ってイベントが行われているところだった。そのなかに、アートのインスタレーションや、仮設パビリオンが点在し、みんな楽しそうにお酒を飲んだり、踊ったり、おしゃべりをしている。この時点では、今後どのように建物を活用していくのか、公式にはまだ模索中の段階であったはずだが、今では、行政や市民がイニシアティブをとってプロジェクトが進んでいるらしい。
グローバルなスタートアップが外部資本と共に乗り込み、イノベーションという合言葉の裏で、地価が高騰しジェントリフィケーションが加速する2010年代後半のベルリンで(数年で家賃が5倍になったところも!)、他者といかに共存することができるのかを主体的に問い、考え、実践する場所が一時的にでも生み出されているHaus
der Statistikに私は衝撃を受けた。それは手触りのある、アドホックで、泥臭い風景であった。洗練とは程遠いが、他者と共に生きるための想像力が、ここでは失われていないといことに勇気づけられた。
実はこのプロジェクトの中心には、ラウムラボア・ベルリン(Raumrabor Berlin)という建築コレクティブの存在がある。彼らは「urban
prototypes」というテーマを掲げ、ボトムアップや対話による空間的介入を続けてきた集団だ。2021年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展では、金獅子賞を受賞している。この年のキュレーターはハシム・サルキスで、掲げたテーマは「HOW
WILL WE LIVE TOGETHER?」であった。ビエンナーレでHaus der Statistikと合わせて出展したプロジェクトのひとつに、彼らの代名詞にもなっている「Floating
University」がある。これは使われなくなったテンペルホーフ空港の広大な敷地の一角にある雨水貯留地に、水上に浮かぶ仮設的かつフィクショナルな学校をつくるというプロジェクトだ。20を超えるヨーロッパ圏の大学、アーティスト、専門家など、多くの協働者によって実現され、公共空間に関する現代的実践を議論するための場所として運営されている。ラウムラボア・ベルリンの実践は、仮設的で一時的な形を通して、あり得たかもしれない別の可能性や現実を風景として立ち上げ、人々の目の前に出現させることこそが、建築の重要な力であることを示している。一時的にではあれ、実体を伴った場として立ち現れることで、「もっとこうしたい」「こんな使い方ができる」「こんな居場所がほしかった」など、人々がどこかに仕舞っていた空間や場を想像する力を回復させることができる、それがラウムラボ・ベルリンから学んだことだ。
ちなみに、旧テンペルホーフ空港のような広大な敷地がそのまま残されていることにも驚きだ。地元の建築家に聞いたところ、再開発の話も度々出るものの、市民の反対運動によって今でも広大なオープンスペースとして残されているということだ。実際、訪れたときも様々な場所で市民農園が行われていたり、ピクニックをしていたり、人々が自由気ままに使っていた。ベルリナー(ベルリン在住者)が場所をアレンジし居場所を作り出す能力の高さには驚かされる。同じような場所が東京にあったとき、果たしてこうした自由気ままな使い方ができるのだろうか……。
2019年、東京
まさにその同じ頃、私自身も、東京でひとつのチャレンジに踏み出していた。
京急線の高架下を活用した「KOCA」という創業支援のスペースだ。大田区は都内でも町工場の数が最も多い地域であり、そうした文脈を踏まえ、新たなものづくりのあり方を探求するインキュベーション(創業支援)施設として運営している。
元々この場所は、2012年に京急線の高架化が完了して以降、長らくフェンスに囲まれ、空き地のまま残されていた。調べてみると、京急電鉄の計画では、駐輪場・駐車場になる予定であった。高架のような巨大な構築物はまちを空間的に分断してしまう。しかもその下が駐輪場・駐車場となればなおさらである。地域で暮らし、そこで仕事をしていた私たちは、勝手に企画書をつくり、様々な地域の関係性を創造していくための場所として、新たなものづくりの複合拠点をつくることを京浜急行電鉄に提案した。紆余曲折あったが、最終的にそのプランは実現し、現在の「KOCA」、そして大森町駅から梅屋敷駅間の一帯開発へとつながっている。気がつけば開業から6年が経った。今ではここは、多くのコラボレーションやプロジェクトが生まれる場所へと育っている。


左:活用前の空き地だった状態の京急線高架下。
右:2019年に高架下にオープンしたインキュベーション施設「KOCA」。個人の想像力、そして地元に関わる人たちの協働と提案から生まれた。撮影:山内紀人
実は、この高架下活用の出発点にあったのは、@カマタの代表である茨田禎之さんの想像力である。茨田さんはこの地域の地主であり、この場所で長い時間を生きてきた人だ。季節の移ろいや人の行き交いを、日常の風景として見つめ続けてきたその人が、慣れ親しんだまちの景色の延長線上に、「駐車場ではない、もっと別の何か」を思い描こうとしたことが、すべての始まりになった。そのアイディアに共感した私たちが、一緒に形を与えていき実現していった。茨田さんの最初のイマジネーションがなければ、ここは今頃駐車場になっていたはずだ。
翌年、パンデミックが世界を覆い、私たちが当たり前だと思っていた日常は、大きく揺さぶられることになった。固定化していた仕組みや制度が一時的にほころび、その隙間から、これまでとは違う暮らし方や価値観が、試行錯誤のかたちで立ち上がっていくのを目にした人も多かったはずだ。コロナ禍を通して、私たちは普段忘れていた想像力を、ほんの一時的にせよ、取り戻していたのかもしれない。こうした想像力の回復は、必ずしもパンデミックに限った話ではない。震災や戦争、金融恐慌といった外在的な出来事が起こるたびに、私たちは社会の別のあり方を考えてきた。
では、こうした外からの衝撃に頼らなければ、想像力は立ち上がらないのだろうか。一時的にではなく、日常のなかで、目の前の現実に対して、常に別の可能性を重ねてみることはできないのだろうか。
そう考えていくと、私たちが日々身を置いている空間や風景そのものが、想像力を呼び起こすための手がかりになり得ることに気づく。
建築は、そうした想像力を日常のなかから物理的・空間的に立ち上げ、呼び起こし、人々に新たな視点を手渡すための、ひとつの媒介として貢献できる。
日常のなかでこそ、建築が別の風景を提示し続けること──そこに、ものの見方を更新していくための手がかりがあるのではないだろうか。
注
★1──大澤真幸『資本主義の〈その先〉へ』(筑摩書房、2024年)
サムネイルデザイン:太田知也
連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)
1987年生まれ。建築家、博士(学術)。明治大学専任講師、NPO法人CHAr(旧モクチン企画)代表理事、株式会社@カマタ取締役。
主なプロジェクト=《モクチンレシピ》(CHAr、2012)、《梅森プラットフォーム》(@カマタ、2019)など。主な作品=《2020/はねとくも》(CHAr、2020)、《KOCA》(@カマタ、2019)など。主な著書=『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版社、2017年)。
http://studiochar.jp
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公開日:2026年01月27日

