「微圏経済のつくり方・もち方・描き方」レポート5
自分たちの手でインフラを整える──石川県珠洲市の災害後の時間
千葉大+吉川尚哉+菊池聡太朗(建築ダウナーズ)
珠洲市に到着した翌朝の海。変わりやすい気候はこの季節の能登半島特有のもの。時折、地元で「ぶりおこし」と呼ばれる激しい雷鳴が響き、滞在中は何度も虹を目にした。
現行の資本主義の論理や制度と並走しながらも、独自の関係性や循環から生まれる小さく自律的な圏域=微圏経済。そのヴィジョンを携え、今回は能登半島地震から約1年10ヵ月、能登半島豪雨から約1年1ヵ月が経った石川県珠洲市を訪れた。
建築ダウナーズは、2024年の11月にもボランティアのため能登を訪れていた。当時は道路の復旧も進んでおらず、倒壊したまま手付かずの家屋や、斜面が崩れた山の生々しい風景が記憶に残っている。それから約1年、再び能登を訪れ珠洲の中心部飯田町を中心にいくつかの場所に立ち寄った。生い立ちや被災状況、職業も異なる様々な人たちから聞かせてもらったお話から、災害後の時間を生きるこのまちのかたちを、経済やそれを支えるインフラ、それらの循環を軸に考えてみたい。
早朝に仙台市を車で出発し、休憩を挟みながら高速道路を走ること約8時間、能登半島の付け根にある七尾市に到着したのは15時頃。のと里山海道に入ると、次第に街灯がなく周囲を林に囲まれた山道になる。度々突発的な大雨に見舞われながら慎重に進んだ道路にはいまだ震災の跡が残るが、2024年と比べると、片側交互通行や道の一部が崩れ手付かずで三角コーンだけが置かれたような危険箇所はだいぶ減っていた。途中、能登町で夕食をとり、珠洲市飯田町に到着した頃にはすっかり暗くなっていた。この日は飯田町で現在も営業している数少ない民宿のひとつ、まつだ荘に一泊した。
一時的に仮の町民になる
震災前にコミュニティカフェ・バー「しげ寿し」が入っていた町家や「いろは書店」などがあった商店街の通り。
翌朝、海岸やまちを巡ると、地震で倒壊した建物のほとんどが片付けられ、空き地が増えていた。残っている建物の隙間から海が見え隠れし、地元の人によれば、震災前より風が強く感じられるという。
この日から滞在するゲストハウス「仮()-karikakko」にチェックインし、運営を行っている楓大海さんにお話を聞いた。
岐阜県出身で、金沢美術工芸大学を卒業した楓さんは、同級生で現在近くの銭湯、あみだ湯を運営する中心メンバーでもある新谷健太さんと共に、学生の頃から奥能登国際芸術祭のリサーチなどで度々珠洲を訪れ、土地の文化や暮らしに惹かれていったという。卒業後、珠洲市へ移住し、新谷さんとアーティストユニット「仮()」として活動を始めた。今はこのユニット名がゲストハウスの名前にもなっている。
仮()は、元々空き家だった建物を利用し、2017年に始めたゲストハウスだ。都市部では考えられない低価格で購入し、滞在期間や必要面積の制約が少ないことから、民宿ではなく簡易宿所として、内装工事や用途変更などの準備を進めた。その後ゲストハウスの整備と並行して、地元商店街の長屋の間口のひとつで、コミュニティカフェバー(寿司屋の居抜きを使っていたので通称「しげ寿し」)の運営も始め、人が集まれる場所をつくった。
ゲストハウス「仮()」の外観。珠洲市の伝統的な家屋の多くは、襖を開け放しひと続きの広間にできる間取りだが、近くの飯田高校に町外から通う生徒の下宿として建てられたこの建物には元々個室が多かった。
2024年の能登半島地震で、しげ寿しは建物の裏側が倒壊し、仮()は津波で床上50cmほど浸水した。道路などのインフラも甚大なダメージを受け、金沢からの移動は通常の3倍を超える6時間以上がかかった。地元の多くの宿も被災し、営業を停止していたため、遠方から支援や復旧工事をしに来た業者は、現地で宿泊ができず、移動にも時間がかかるため、現場で満足な作業時間を確保できなかったという。地元の大工さんや開業の際にお世話になった工務店も忙しく、何より彼ら自身も被災者だった。仮()は津波直後にボランティアに泥出しをしてもらったが、その後も豪雨や地震が続き、再開するか悩んだ。なりわい再建支援補助金の制度を使い、親戚の工務店に、津波の被害がなかった2階に泊まりながら工事をしてもらい、2025年の7月に営業を再開した。
被災した後2025年7月から営業再開した建物の内装はまだ新しかった。
現在、仮()では、なるべく長期滞在する宿泊客を受け入れるようにしている。私たちが滞在した時は、解体業者として働くアーティスト、取材のためのメディア関係者、橋の解体業者、研究者などで、なかには4ヵ月滞在している方もいた。数日限りの関係ではなく、滞在中、そしてその後もできるだけ長期的な関係性を築きたいと楓さんは話す。
震災前から過疎化が進んでおり、被災によってそれが加速している珠洲市の中心地のひとつの宿にとって、周辺の限られた同業者や飲食店やスーパーは、運命共同体のような存在だ。長期滞在の間、できるだけ周辺の店や施設を利用してもらい、経済を回す一員になってもらうことは、一時的に「仮の町民」が増えることにもなる。
また、楓さん自身も自宅が全壊し、現在は石川県白山市のみなし仮設住宅で家族と生活していることもあり、ゲストハウスにつきっきりというわけにはいかない。そんなとき、長期で滞在している分宿泊代が安く設定されている滞在者には、備品の管理や清掃の一部を担ってもらい、宿を維持していく役割を依頼している。私たちも先に来ていた滞在者に、わからないことを教えてもらったり、夜中の台所で、アーティストが数ヵ月解体作業をする中で感じた心の逡巡を聞かせてもらったりした。
まちの外から来た者が、少し前に来ていたやはり外の者から、そのまちでの振る舞いを教えてもらい、それが連鎖し、立場や役割をフラットにして互いが互いをみ合っているようだ。そうやって、仮の町民が入れ替わりながらも、ひとつの場所が維持されていくのかもしれない。
まちのインフラとしての銭湯と燃料のサイクル


まつだ荘や、仮()と同じく内浦街道沿いにあるあみだ湯。海を背後にポツンと建つ。営業時間は14時から21時まで。周囲の通りには公費解体が終わった後の空き地が点在している。
取材後に風呂に入ろうと、まちの銭湯である「あみだ湯」に到着すると、ちょうど銭湯を運営する新谷健太さんが一服しているところだった。
仮()のメンバーでもある北海道出身の新谷さんも、楓さんと同じく、金沢美術工芸大学を卒業後、珠洲市へ移住し、その後子どもの教育の地域格差の是正に取り組むNPO法人ガクソーを立ち上げた。奥能登国際芸術祭の影響もあり、美大進学を考えていても美術予備校や相談するところのないまちの高校生に、独自に美術や勉強を教える活動を行ってきた。また金沢にいた頃から銭湯でのアルバイト経験があった新谷さんは、そのうちあみだ湯の手伝いもするようになり、あみだ湯のオーナーからコロナ禍を機に本格的に事業継承の相談を受けたという。そのオーナーとは別に土地の所有者がいたため、あみだ湯の閉業を選択した場合、更地で返さなければならず、建物の解体費には約1,500万円がかかる計算だった。新谷さんたちは試算を繰り返し、事業を継続させながら土地を取得する算段をつけた。その矢先に能登半島地震が起きた。
珠洲市は断水と停電が長く続いたが、元々地下水を汲み上げ、ボイラーでお湯を沸かしていたあみだ湯は、いち早く復旧することができ、被災したたくさんの地元の方がお風呂に入りに来た。小さなまちの銭湯は、互いの無事を確かめ合う場にもなった。避難所からやって来た、あみだ湯の場所を覚えていた認知症のお年寄りを保護したこともあったそうだ。
その後は、お風呂に入ることができない地元の人たちに加え、ボランティアや事業者の利用も増え、震災前は70人程度だった1日の平均利用者数は、震災の年に600人を超えた。
あみだ湯の番台の向かいには、ソファスペースがあり、時間帯によって様々なコミュニティの溜まり場になっている。取材中はボランティアの方々が団欒していた。奥に畳の小上がりがある。
あみだ湯の駐車場の端には、柱や梁だったと思われる大量の建築廃材が置かれていた。元々は、オーナーが付き合いのある業者から解体された家屋の廃材を引き取り、燃料にし始めたそうだ。あみだ湯の運営にかかる経費は主に燃料費と人件費だ。新谷さんはこの仕組みも引き継いで、まちから出る廃材を活用し、燃料費を抑えながら銭湯を維持する試算をしていた。解体される家屋が増えてきたことで、震災前から始めた取り組みだったが、地震が起き、町中が倒壊した建物で溢れた。新谷さんは、これを震災で壊れた家を弔うアートプロジェクトとしても位置付けて継続しているが、長い時間のなかで徐々に人が減り、解体され、燃料として使われるはずだった建物が、一度に大量の廃材に変わってしまった状況に頭を悩ませる。震災後に珠洲で取り壊されている建物は、本来ならば今後約130年をかけて壊されていくはずだった量になるという。現在あみだ湯の建物の脇に置かれている木材は、およそ半年分のお湯を沸かすことができる量だが、来年、再来年もこれまでのペースで廃材が確保できるかは不透明になった。
一方、全壊判定を受けて解体された新谷さんや楓さんの自宅の木材は、家があった場所にそのままにしてあり、今後少しずつあみだ湯に運びながら燃料にするそうだ。ガクソーに通っていた生徒の親御さんなど知り合いにも相談し、解体された家の材をそのままにしてもらっている。元々は家だった材が、まちの空き地に点在し、将来お湯を沸かす燃料として循環する時を静かに待っている。これから、木材を扱う事業者や、山との関係も改めて模索していかなくてはと新谷さんは話す。


珠洲市内から集められた建築廃材が駐車場に積まれていた。チェンソーで薪にする。奥にはボイラーの建物があり、建築廃材から伐り出した薪をくべ、お湯を沸かす。
震災後、あみだ湯は、住民にとって銭湯という機能的にもコミュニティとしても重要なインフラのひとつとなった。生活との結びつきが強いからこそ、災害を経てこれまで以上に住民が減っていくことは、まちの銭湯の経営・維持にとって直接的なダメージでもある。新谷さんは、珠洲市内にある不動産を安く買い、事業者に滞在先として貸し出すことも行っている。それは、利益を生むためというよりも、銭湯を楽しみながら維持し、ガクソーで行っている地域の人材の教育へとつなげるための選択肢のひとつであるように思う。あみだ湯自体も、運営するメンバーや外部からの訪問者への雇用を生み出し、メンバーそれぞれもあみだ湯とは別の収入源をもち、時に貨幣を媒介しない農作物の生産・交換をしながら生活している。そうしてまちの銭湯や、オルタナティブな子どもの教育を維持することが、長いスパンで地域の経済や暮らしを営む土台になっていく。
自分たちの手でインフラを整える
飯田町から車で10分ほど山道を上り、隣の東山中町に入る。林業を営み、今年で85歳になる道端定吉さんを訪ねた。道端さんのお宅へ近づくにつれ、樹間が広く取られ、枝打ちされた針葉樹がまっすぐ生えた斜面が現れる。道端さんは現在でも建材にするための杉や檜、能登ヒバとも呼ばれる档を育て、注文があれば自分で伐り出し、納品している。
東山中町は、地震の後いち早く水道が復旧した地域でもある。元々は上水道が通っておらず、各戸が井戸水を利用していたが、約25年前、当時東山中町に計画されていた農業パイロット事業のボーリング調査で、たまたま地下水が出ることがわかり、交渉の末、住民と行政とで半分ずつお金を出し合い、念願の水道工事が実現した。一度ポンプで水を山の上に上げれば、重力を利用して各世帯に水が供給できる。配水管は割れにくい素材を使用したため、震災後も被害はなく、ポンプを動かす電気が復旧するとすぐに水を利用できた。
当時は費用がかかることへの懸念や、水道を通さずとも元々水が豊富に出る場所もあったことから、水道工事に消極的な世帯もあったそうだが、その時道端さんが想像したのは、自分たちが年老いた後のことや今回のような災害が起きることだったという。水道を通してからは、各戸が月1,000円で5トンの水を使うことができている。また、もし水が足りなくなった時には、行政が水を運んで供給するという約束も結んだ。
現在も集落に水道水を供給し続ける設備の向こうには、道端さんが大切に育てている杉の林が見える。材として使えるようになるまでに30〜40年がかかる樹木。そのなかには、道端さんが生きている間に伐られることのないものもあるだろう。それでも道端さんは木を育てることが自分の楽しみだし、山にもいいことだからとうれしそうに話す。所有者がわからず、人の手が入らなくなったことで荒れ、災害を引き起こしてしまう可能性のある山は、今、日本各地にある。山は、誰かの所有物である以前に、その土地に暮らす人々に広く影響を与えるものだ。道端さんが育てる木や山が生きる時間は、災害という出来事も飛び越えるタイムスパンで、未来へ手渡される財産のようでもある。いつかその木が伐られ、家を建てる材になり、解体されて燃料となり、あみだ湯の風呂のお湯を沸かす、遠い未来を想像した。
右手前に上水道の設備が設置されている。奥に見えるのは道端さんが育てている杉林。
道端さんは、中学生の頃に東山中町から飯田町へと続く県道を、親や集落の人たちが鍬や竹で編んだ手箕、荷車などを持ち寄って自分たちでつくっていた姿を記憶しているという。仮()の楓さんが、「地方は、人口が少ない分、ひとりひとりが様々な役割を担わなくてはならない」と話していたのを思い出す。今、私たちが何気なく使っているインフラやサービスも、かつては誰かが苦労して獲得してきたものだ。
この場所で自分たちが触れられる仕事を考える
その山の道路を通り、東山中町から車で峠を下って10分、再び飯田町へ戻る。周囲に空き地が広がる中、飯田町の中心部に瓦屋根の建物と「二三味珈琲」と書かれた緑色の看板を見つける。車を降りると焙煎の香ばしい香りが漂っていた。


地元で酒や食品の卸をしていた業者の倉庫を購入・改装し、焙煎とコーヒーやケーキの提供をしている。
二三味珈琲の店主である仙北屋葉子さんは珠洲市の狼煙町で生まれ育った。東京で働いた後、地元に戻り、祖父がかつて使っていた木ノ浦海岸近くの舟小屋でコーヒー豆の焙煎を始めた。能登半島の最北端という辺境の土地で、女性がひとりで始めた焙煎所は、雑誌などで取り上げられ、知名度が高まった。それから徐々に地元にも定着し、住民の方には「自分が行くかどうかに関わらず、ここでいつでも開いているお店があることがうれしい」と言われた。今では口コミだけで広がった客が全国にいる。二三味珈琲カフェは、まちなかに気軽にコーヒーを飲める場所がほしいという声も受け、2008年にオープンした。
2024年の地震は、仕事に追われる日々から立ち止まるような時間でもあった。電気が復旧しない限り、焙煎機を動かすことができず、また原料である生豆を手に入れるにも、商品を全国に届けるにも、物流システムは重要なインフラだった。電気が通ったおよそ1週間後、2月初旬に運送会社も動き出し、発送を再開することができた。
近年は、輸入品である生豆の価格も上がり続けている。遠く離れた場所から大きな流通システムを経て届く原料やその価格に対し、個人の力で状況を変えられる余地はほとんどない。それよりも、何か自分たちの手で届くところでコントロールできる利益をつくりながら、珠洲のまちのためになることも考えたいと仙北屋さんは話す。震災後、地元の人々と煮炊きを共にするなかで思い当たったのが、彼女の親世代で途絶えてしまうかもしれない、風土に根ざした暮らしの知恵、例えば発酵食品をつくる技術、野菜や植物を育てる手つき、自然との付き合い方だ。そうした知恵を彼らに学びながら、彼らの、あるいは数十年後には自分たちの職やケアにつなげることができないかと構想中だ。仙北屋さんの地元にも、震災によって仕事を失ってしまった顔見知りの年配者が多くいる。
既存のグローバルな流通システムを利用しながらも、この場所で自分たちが直接触ることのできるサイクルをもつこと。土地で日常的に培われてきた身体感覚や生活に対する勤勉さを継承しながら、これからの仕事に接続させることもその方法のひとつだ。
小さな圏域で大きな時間軸を生きる
3日間飯田町に滞在し、すべて車で10分程度の近さにある様々な場所を回ったことで体感したこのまちのスケールも印象に残った。
例えば、珠洲市に到着した夜に泊まった民宿まつだ荘の廊下で、震災後となり町の宝立町で「本町ステーション」という地域のコミュニティスペースを立ち上げ、中心となって運営している松田咲香さんを偶然見かけ声をかけると、この民宿が実家だというので驚いた。そのまま本町ステーションで翌日予定されていたコンサートに誘ってもらった。またある1日は、午前中に立ち寄った「いろは書店」の娘さんとお孫さんに、昼は近くの食堂で、夜には居酒屋でもばったり会った。震災後に営業している店の数自体が少ないこともあるが、各々がそれほど狭く、小さな圏域の中で商いと生活をしていることを改めて実感した。


震災後、宝立町で前区長が所有する建物、旧越後燃料店の1階を活用したコミュニティスペース「本町ステーション」。この日はバイオリンとアコーディオンのコンサートが開かれ地域の方が集まっていた。


「いろは書店」はゲストハウス仮()から車で2分の商店街にあった。地震で全壊し、同じ通りの元タクシー営業所の仮店舗で営業する店内にはカフェスペースやテレビコーナーもあり、様々なイベントも行われる。
人口の多い都市部では、生活や経済活動を営むうえで無意識化されているインフラやサービス。人が減っている珠洲市飯田町周辺のような小さな圏域では、それは必ずしも当然のことではない。彼らは、経済活動や生活を下支えしケアする場所や空間、時にインフラさえ、自分たちが触ることができるものとして、あるいは労働力や貨幣を伴った経済活動の一部や投資先として手をかけているように見えた。そうやって自らが主体的に役割を担わなければ、この小さなまちで暮らしを維持していくことが難しいからだ。
また、そうしたインフラの存在が前景化するのが災害時でもある。刻一刻と変わっていく災害後の状況。私たちが発つ前日の夜にお会いした、自身も被災しながら、社会福祉士として、支援が必要な方が生活を建てなおす過程に伴走してきた珠洲市出身の山形優子さんは、「災害が起こり、復旧、復興へのフェーズは変化しているけれど、震災の前から私たちはここに生きてきたし、これからもここで生きたい、それだけなんじゃないかと思います」と話してくれた。制度によって決断を迫られ、否応なく細かく切り分けられる災害後という時間を、どうひと続きのものとして互いの人生に引き寄せられるか。災害直後、緊急的に生命や安全、健康を守ることと同時に、災害前から連続する長い時間のスパンのなかで暮らしを考えていく視点もまた必要だ。遠くに何かを投じるように、土地や建物、人、自然に対して、時間や手をかけて整える。それは時を経て自分自身や未来のコミュニティに還ってくる。一方そこには、当然自律性だけでなく、公共的な、あるいは外部からの支援や資金も求められる。
災害後を生きる小さな圏域で、災害前から続いてきた土地での営みと地続きの、大きな時間への想像力をもちながら、まちの内側・外側から、関わりが広がっていってほしい。
撮影:建築ダウナーズ
サムネイル画像イラスト:荒牧悠
建築ダウナーズ
東北大学大学院都市・建築学専攻の同期、菊池聡太朗、千葉大、吉川尚哉によるデザインチーム。展示空間の什器や家具の設計・制作のほか、近年は林業と建築のつながりに関するリサーチを行う。在学中より展示デザインなどに携わり、大学院を修了した2019年に結成。
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公開日:2025年11月25日

