格式と優美の館「旧渋沢邸」が移築・復原
多くの職人の技術が結集

「日本近代資本主義の父」と称される渋沢栄一と子、孫、曽孫が4代にわたり暮らした邸宅を、渋沢家と深い縁をもつ清水建設が移築・復原。江東区の指定有形文化財として、2023年に復原工事を完了しました。工事に当たり、LIXIL やきもの工房は洋館に設置されている3つの暖炉内部と外装のタイルの復原を担当しました。

147年前、渋沢栄一の邸宅として、
表座敷が東京・深川に誕生

復原された旧渋沢邸(旧渋沢家住宅)
東京・江東区潮見に設けられた清水建設のイノベーション拠点、「温故創新の森 NOVARE」の敷地内に2023年に移築・復原された旧渋沢邸(旧渋沢家住宅)。1930(昭和5)年に和洋館並列型住宅に大改造された姿に基づき、復原された。木造の中央の棟が表座敷。延べ床面積は約1200m2
渋沢栄一
渋沢栄一 1840(天保11)〜1931(昭和6)年。
現在の埼玉県深谷市に生まれる。江戸末期に幕臣。渡欧を経験し、明治維新後は新政府の官僚となって、日本の近代化に貢献した。後に第一国立銀行の頭取を務め、日本の株式会社の創設・育成に力を注いだ。清水建設の4代店主が年少だったため、1887(明治20)〜1916(大正5)年まで、清水建設の相談役に就いた。
写真:埼玉県深谷市所蔵

清水建設 定久岳大 設計長

二代清水喜助が設計施工し、唯一現存する建築を保存

深川の渋沢本邸として表座敷が竣工

今から147年前、1878(明治11)年、東京・深川福住町(江東区永代)の現在の澁澤倉庫本社の敷地に、2階建ての「表座敷」が竣工。これが旧渋沢邸の始まりだった。旧渋沢邸の移築・復原を担当した清水建設の定久岳大設計長に解説していただいた。
「当時、渋沢栄一は38歳。設計施工は当時63歳の二代清水喜助(1815(文化12)〜1881(明治14)年)です。二代喜助は初代とともに清水建設の礎を築いた人物でした」。
喜助は優れた技術を持つ大工棟梁であると同時に、幕末に洋風建築を学び、和洋折衷建築の仕事で名を馳せた。日本初の銀行として渋沢栄一が創立に携わった第一国立銀行の建物(1872(明治5)年)は二代喜助が設計施工したもの。以降、渋沢の信頼を得て、事業に関わる多くの建築を清水建設が手掛けている。

表座敷1階・居間
<表座敷1階・居間>
二代清水喜助の設計施工。天井が高く、意匠はシンプルで、清々しさを感じさせる。造作材は創建時のもの。襖表は上張り下層の金箔張り襖紙に基づき、今回復原された。

深川から三田綱町へ移築

表座敷は1908(明治41)年に芝区三田綱町(港区三田)に移築された。定久さんは「当時、表座敷の居間に、栄一さんから曾孫さんまで揃って撮影した家族写真が残っています」と話す。栄一が亡くなる頃、1930(昭和5)年に孫の渋沢敬三(1896(明治29)〜1963(昭和38)年)が、和洋館並列型住宅へと大改造を行った。表座敷につなげて建てられた洋館には広間、食堂、客間、書斎などが設けられた。洋館の設計は西村好時(1886(明治19)〜1961(昭和36)年)。
「西村は清水建設の設計部技師でしたが、渋沢邸を設計したときは第一銀行(※)に移り、建築課長になっていました。代表作の第一銀行本店は渋沢邸と同年に施工されています」と定久さん。
「東京都北区の渋沢史料館で公開されている晩香廬(ばんこうろ)と、青淵(せいえん)文庫を設計した田辺淳吉も、清水建設の技師長の時代があり、西村の上司でした」。洋館の外観デザインなどにも共通性があるようだ。

<洋館の客間>
<洋館の客間>
全体にチューダー様式を取り入れた英国調のインテリア。失われていた寄木床、壁紙、天井が復原された。

三田共用会議所として活用後、青森へ移築

戦後、1947(昭和22)年、渋沢邸は大蔵大臣だった渋沢敬三が制定した財産税として、国に物納された。「その後は大蔵大臣公邸になり、次に省庁が利用する三田共用会議所として活用されていました。その期間は40年以上です」。建て替えが計画され、1990(平成2)年に渋沢家の元秘書の杉本行雄氏が建物の払い下げを受け、翌年、青森県六戸町に移築。古牧温泉公園内で公開されていた。

3度目の移築・復原で江東区の有形文化財に指定

「旧渋沢邸は清水建設とは創業期から縁の深かった渋沢家の貴重な邸宅です。二代清水喜助が手掛けた唯一現存する建物ということも大きく、以前から自社で保存したいという意向がありました」。それが動いたのは2019(平成31)年。所有者から譲り受け、解体して江東区への移築・復原が行われた。
じつに3度目の移築には、伝統的な大工技術で部材を修繕し、構造補強などを施し、内装にも近年、継承が難しくなっている職人技術が生かされている。今回、愛知県常滑のLIXILやきもの工房は、洋館の暖炉内と外装タイルのオリジナルに合わせ、復原タイルを製作した。

※第一国立銀行は1896(明治29)年国立銀行営業満期により(株)第一銀行と改称。栄一は1916(大正5)年まで頭取を務めた。

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公開日:2025年03月25日