政治の舞台になった近衛文麿の旧邸宅
伊東忠太設計の「荻外荘(てきがいそう)」が復原
昭和前期に3度、内閣総理大臣を務めた近衞文麿の東京・杉並区の旧邸宅が、日本の政治史上、重要な会議が行われた場所として国の史跡に指定され、建物の復原を完了して2024年12月から一般公開されています。伊東忠太が設計した貴重な住宅の床を飾る、龍の文様の敷瓦などをLIXILやきもの工房が復原製作しました。
歴史の舞台となった伊東忠太設計の住宅

1940(昭和15)年7月19日、近衞文麿の邸宅「荻外荘(てきがいそう)」の客間で行われた「荻窪会談」。左から近衞、松岡洋右、吉田善伍、東條英機。3日後に発足する第二次近衞内閣で、右3人はそれぞれ外務大臣、海軍大臣、陸軍大臣に就任予定だった。提供:朝日新聞社

東京杉並区荻窪に復原された荻外荘。西側(左手)に、1960年豊島区内に移築されていた東側部分を、再びつなぎ合わせ、もとの姿に戻した。景観のすばらしい高台に建てられており、昔は南側の庭園に大きな池と、その外側に水路、田園が広がっていた。現在の敷地面積は6,000m2あまり。
「思うがままに設計した」快心の住宅作品を残す
荻窪の閑静な住宅環境を残したい

杉並区都市整備部 星野剛志さん
「荻外荘」が杉並区に譲渡されたのは、2014(平成26)年。「きっかけは近衞文麿さんの次男で、ご当主の通隆さんが亡くなったことでした」と杉並区都市整備部の星野剛志さん。「古くからの落ち着いた環境を守りたいと、地域の町会長さんたちが連名で要望書を出されました」。それを受けて、杉並区が復原と保存活用に動き出し、2016(平成28)年には邸宅の場所が国の史跡に指定された。
伊東忠太と施主との交友を背景に
荻外荘の創建は1927(昭和2)年。建築家・伊東忠太(1867-1954年)が設計し、大正天皇の侍医頭を務めた内科医・入澤達吉(1865-1938年)の別邸として建てられた。創建時は「楓荻荘」と名付けられた。二人は東京帝国大学の教授仲間で、入澤は伊東の義兄にあたる近しい仲でもあり、参考文献(※)に紹介されている当時の新聞記事に、伊東は〈「自分の思う通りの家を建てさせてくれ」と希望し〉設計と普請に打ち込んだことが記されている。「この文献には入澤の息子さんの回想も取り上げられており、〈小さいながら伊東博士の快心の作となったようだ〉とありますね」と話すのは、架構(骨組)から意匠まで、調査、復原に携わった文化財保存計画協会主任研究員の柳澤礼子さん。伊東忠太ならではの、和、中国風などオリエンタルな意匠が融け合った異空間の復原を手掛けた。「伊東忠太先生の復原を、満足してもらえるようにきちんとできるだろうかと、プレッシャーでいっぱいでした」と今回の仕事を振り返る。
同文献には、伊東にとっての「自分が思う通りの家づくり」とは、「将来の日本建築を代表する」邸宅づくりへの挑戦であったとみることもできる、と記されている。
近衞文麿が住宅も、環境も気に入り、譲り受ける
1937(昭和12)年、第一次近衞内閣を率いていた近衞文麿(1891-1945年)は荻窪の入澤邸を譲り受けた。入澤の患者でもあり、交流のあった近衞は入澤家を訪問し、邸宅の特殊な趣きや自然豊かな環境を気に入ったことを、自ら回想録に記している。1945(昭和20)年に逝去するまで荻外荘で暮らした。
※『文化財シリーズ46 国指定史跡 荻外荘(近衞文麿旧宅)』編集発行 杉並区教育委員会 平成29年3月


右/入口を入ると突き当りに<応接室>がある。



上/中国風と思われる室内。床は敷瓦が敷き詰められて、建具のデザインも独特だ。今回、創建時の唐木家具に近いかたちで、摺(す)り漆仕上げの螺鈿(らでん)のテーブルと椅子を製作。
下左/格天井の四方に、入澤達吉と交流のあった書画家・王一亭が描いた龍の絵が配されている。
下右/敷瓦は龍のレリーフと無地の平瓦の2種が割り付けられている。応接室は近衞が住んだ時代には記者会見にも使われていた。
施主、入澤達吉の好みに応えた「龍」の間
中国趣味を楽しむ入澤達吉のために

文化財保存計画協会 主任研究員 柳澤礼子さん
玄関を入り、最初の部屋が応接室だ。いかにも中国風に思えるが、柳澤さんは、かつて伊東忠太が中国を旅し、滞在した武漢の南にある民居の雰囲気にも通じるものがあると話す。空間を特徴づけているのは、天井と床で共演する龍の姿である。高さ約3.6mの格天井に4頭の龍が天から降りてくるような画が描かれ、床は龍の文様を浮き彫りにした敷瓦が敷かれている。施主の入澤達吉は中国趣味の人で漢詩を好み、交流のあった上海の書画家・王一亭に天井画の製作を依頼した。伊東は施主の入澤の好みに応えてこの部屋を設計した。「天井に龍が居る場所は、寺院などの中心的なところに多いです。ここは祖先を祀るお堂のような空間として考えられるのかもしれません」と柳澤さん。
敷瓦の龍も伊東忠太のデザインか?
敷瓦の龍文まで伊東がデザインしたという証はないそうだが、柳澤さんはその可能性もあるのではないかと考える。「当時の新聞記事に〈洋風の部屋も壁には奉書を用ひ、正倉院の模様を採り入れたり、伊東博士自ら描いたり、ガラス窓も全く障子と同じ感じを出すやうなものを選び、さらに応接室は支那風に造られている〉(昭和12年11月27日付 朝日新聞東京版)とあります。客間の壁紙の動物モチーフを復原するため模写しているとき、敷瓦の龍の脚の筋肉の表現などとの共通性があるような気がしました」。伊東の所蔵品写真に北京・紫禁城の瓦当(軒丸瓦)があり、その龍から伊東の感性が生み出したと考えることもできると言う。豊島区内に移築されていた時期に、敷瓦は外部の玄関まわりに転用され、失われていたものも多かったため、LIXILやきもの工房で総数の約8割を復原した。

<玄関土間>
玄関土間に入ると左手(写真正面)に玄関と廊下が伸び、客間、居住エリアへ向かう。玄関の扁額は、近衞文麿の後見役だった西園寺公望が90歳のときに「荻外荘」と名付けて揮毫。それを彫って扁額とした。写真右手が応接室。玄関土間は推定により復原。テラゾーとし、周囲の雷文はモザイクタイル3色で構成。タイルはLIXILやきもの工房が製作した。
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公開日:2025年03月25日