政治の舞台になった近衛文麿の旧邸宅
伊東忠太設計の「荻外荘(てきがいそう)」が復原

移築・分離されていた建物を合体する

客間
<客間>
古写真から内装が復原された<客間>。「荻窪会談」(冒頭のモノクロ写真)が行われたときの室内、家具調度、テーブルの上の小物まで復原している。主要な部屋の当初の木材は目の詰んだ台湾檜。

古写真から、会談が行われた当時をよみがえらせる

近衞文麿の活動期時点の荻外荘に復原

戦後、近衞文麿が亡くなったのち、1960(昭和35)年に荻外荘は、居住エリアはそのままに、接客スペースを含む東側部分が豊島区内に移築された。「2016(平成28)年に荻外荘が国の史跡に指定された後、杉並区は移築された建物の東側部分をもとに戻すことを計画しました。荻外荘のメインスペースをつなぎ、ありし日の姿に返すことが今回の復原プロジェクトです」と星野剛志さん。文化財の有識者との協議などを経て、「荻窪会談」「荻外荘会談」が行われた1940(昭和15)〜41(昭和16)年を復原の時点とした。

豊島区内で玄関棟、客間棟の屋根を解体している様子
豊島区内で玄関、客間を解体している様子。移築されたときに屋根形状が寄棟から入母屋に変更されていた。解体後、寄棟に復原された。写真:日暮雄一

部材を繕い、架構を仮組みして本工事をスムーズに


竹中工務店 現場代理人 望月智さん

復原整備工事は2022(令和4)年から2年半をかけて行われた。竹中工務店(現場代理人)の望月智さんは、「いったん切り離し、時間の経った建物をつなぐのは簡単ではないこと」だと言う。移築されていた東側の部分を解体(移築棟解体工事は前工事として2018(平成30)年に実施)。「時代ごとに改変があったり、腐朽している部分もあります。解体後は、木工事を手掛けてもらった福井県永平寺町の藤田社寺建設さんの広い敷地へ部材を運び、大工さんたちが柱、土台、梁などを繕いながら、架構(骨組)を仮組みしました」。

転用材の本来の位置をさぐりあてる

部材が本来とは違う位置に使われていた転用材もある。復原設計の柳澤礼子さんが立会い、部材の痕跡を頼りにもとに戻す作業も根気強く行われた。そうすることで、荻窪で滞りなく建物をつなぎ、組み上げることができた。「98年前に創建したときの施工も竹中工務店でしたから、社内からの注目も非常にあり、工期内の竣工はもちろんですが、木造の建物でしたので火災防止の管理は気が抜けない日々でした。無事にお引渡ししたときはまず、ほっとしました」。望月さんは肩の荷を降ろしたときを思い出す。

荻外荘1階平面図
<荻外荘フロアマップ>(提供:杉並区)

あざやかに復原された室内。空間の魅力が立ち上がる

荻外荘の客間の空間は、移築されていたときは間仕切で二分されていた。天井も低く覆われていたが、取り外すと当初の意匠が現れた。3.6mの高い天井、鴨居の上に欄間、額縁を回した格子などを積み重ねた壁面構成は独創的で、誰もが衝撃を受けるだろう。そこから食堂へとつながるガラス障子のデザインにも目を引かれる。壁紙や絨毯の文様は古写真から分析して復原。柳澤さんは「ほんとうに復原できてよかった」と胸をなでおろす。

食堂
<食堂>
食堂は時代とともに改修されていたので、創建時の古写真から復原。ダイニングテーブルや椅子も復原した。
書斎
<書斎>
書斎は創建時は洋間だったが、1943(昭和18)年に近衞文麿の意向で数寄屋造りの和室に改修された。設計は長谷部鋭吉。近衞は1945(昭和20)年12月6日にGHQから戦犯容疑者として逮捕命令を受け、出頭期限の同年12月16日、この部屋で服毒自殺した。以降、そのままの状態で保存されている。
復原のディテール
復原のディテール
<復原のディテール>
左/客間の壁紙は古写真をもとに復原。上段は動物文、実在しない動物と象形文字のような部分で構成されている。下段は唐草文。
右/伊東忠太がデザインした照明器具(レプリカ)。レプリカの製作にはティファニーグラスの製法を復原しているヤケガニー社製を使った。

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公開日:2025年03月25日