海外トイレ取材 7

西海岸とパブリック・スペース(後編)──
ハリボテの世界

浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ)

Disney California Adventure(ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー)

ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー夜景

ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー夜景。平日にもかかわらず多くの客で溢れている。大人の客が多いのが印象的だった

ディズニーランドはロサンゼルスから公共交通機関(バス)を使うと約2時間、車で約1時間の郊外の都市アナハイムにある。日本と違い電車はなく、歩いて行けるような場所でもないので、基本的に誰もが巨大な駐車場からアクセスする。ロサンゼルスからあまりに離れていること(千葉どころではない)、入場料が日本に比べはるかに高価なこと(ピーク時は135ドル)にも驚いたのだが、なにより驚いたのが、その駐車場から夢の国であるはずのディズニーランドの裏側が完全に見えてしまっていたことだ。もちろん、子どもにだってそれがセットであることはバレてはいるだろう。ただ入館する直前の気持ちが最も高ぶるであろう瞬間にセットであることを見せてしまっていることには、日本のディズニーランドの完璧な見せ方を知っているがゆえに驚いてしまった。そしてその驚きはパークの内部でも再び繰り返されることになった。今回訪れたのはDisney California Adventureだが、そのなかにハリウッド・ランドという1930年代のハリウッドをテーマにしたエリアがある。エントランスから入ってすぐの場所にある1920年代のロサンゼルスを再現したブエナビスタ・ストリートに繋がるメインの通りのひとつであり、両サイドは古い街並が再現されている。驚いたのは、一直線に続くその通りの突き当たりの(パースの焦点に当たるので最も目立つ)場所が書き割りになっており、しかも書き割りだとわかるようにわざわざその背後を見せてしまっていたことだ。ファンタジーの世界であるにもかかわらず、その裏を隠すことなく見せてしまっている。

駐車場から見たディズニーランド

駐車場から見たディズニーランド。多くの建物の中が空洞になっているのが見える

ハリウッド・ランド夜景

ハリウッド・ランド夜景。1930年代のハリウッドをイメージした建物が軒を連ねる。内部はショップやレストランになっている。どこまでも通りが続いているかのように見えるが正面奥は建物も空も書き割り

裏側
裏側

正面の書き割り部分。騙し絵的に立体と平面を組み合わせており、セットであることを強調することで撮影スポットになっている

裏側

裏側には無骨な鉄骨が見える。ファサードと裏側の鉄骨の二面性はフランク・ゲーリーを思わせる

考えてみれば、これは上で述べたAppleとはまったく逆の思想である。完璧な世界をつくりあげること。そして、本物であろうとすること。考えてみれば、Appleには巨大なガラス、巨大な石、巨大なアルミニウムなどの素材がふんだんに使用されていた。それらは表面材ではなく、中までその素材でできた無垢の本物の素材である。本物であることは真正であることを担保するだろう。そして真正性は必然的に唯一の答えを求めてしまう。それは結果的にそれ以外をすべて間違っていると定義することとなる。結果、正しさを求めることは排他的になる。自らの世界からほかの世界と隔離し、さらにそれ以外の世界を間違っていると定義する排他的な世界。たしかにApple Parkは美しい。だが同時にまさにフィルターバブルの最も悪い状態が引き起こされていないだろうか。

かつてのITは、ある意味でこの世界を変えるものだと信じられていた。そして、実際に世界をある部分までは変えた。しかしながら、その技術が世界中の隅々にまで浸透したとき、結果的にその技術は古い価値観を変えるためでなく、延命させ増幅させるためにも使われることになった。すべての人に平等に新しい力を与えれば、そもそも力をもっていたものが勝つに決まっている。スマートシティなど、現在実空間に浸食しつつあるその技術は世界を変えるためではなく、世界をより強固に閉ざすためにも使われるだろう。現実の空間にもし可能性があるのならば、カオスやノイズを受け入れることだ。それこそが多様性を担保し、繋がるはずがなかった物同士を繋ぐ。そして偽物であることを受け入れることだ。

書き割りであること、そしてハリボテであることを受け入れること。書き割りやハリボテは中身がどうなっているかが見えてしまっている状態である。それでも許せる世界をデザインすること。言ってみれば、ファンタジーや夢の世界はある種のビジョンである。ビジョンは目の前に拡がる世界=現実世界とは違うので、どうしても矛盾が起こる。完璧な世界を目指せばそのファンタジーは閉ざされ、真正であろうとすれば排他的になる。完璧な世界ではなく、開かれた世界を目指すこと。さらにそれでもなおビジョンを描くこと。じつは今回フランク・ゲーリーの《自邸》(1978)や《チャット/デイ・オフィス》(1992)などの初期作品にも訪れたのだが、それらはまさにこの条件を満たしていた。しばしばハリボテだと批判されるゲーリーだが、批判者はある意味で正しく、ある意味で完全に間違っている。ハリボテであることを受け入れ、それでもなお新たな形をデザインしているからこそ素晴らしいのだ。なぜならそれこそが現在の世界を開き、変えることができるからである。

フランク・ゲーリー《チャット/デイ・オフィス》
フランク・ゲーリー《チャット/デイ・オフィス》

フランク・ゲーリー《チャット/デイ・オフィス》(左)。有名な双眼鏡部分はハリボテではなく、円形の会議室となっている。その証拠に窓がある。逆に隣接する煉瓦積みの部分こそがハリボテ

フランク・ゲーリー《自邸》

フランク・ゲーリー《自邸》

ハリボテとして世界をデザインすること。それは現在のわれわれに残された数少ない論理であり倫理である。

浅子佳英(あさこ・よしひで)

1972年生まれ。建築家、デザイナー。2010年東浩紀とともにコンテクスチュアズ設立、2012年退社。作品=《gray》(2015)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=西澤徹夫)ほか。共著=『TOKYOインテリアツアー』(LIXIL出版、2016)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(鹿島出版会、2016)ほか。

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公開日:2019年01月30日