パブリック・トイレ×パブリック・キッチンを創造する 1

閾、個室、水まわり──そして未来のコミュニティへ

山本理顕(建築家、山本理顕設計工場)| 聞き手:浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ)

左:浅子佳英氏 右:山本理顕氏

左:浅子佳英氏 右:山本理顕氏

住宅における「閾」とはなにか

浅子佳英

本日はインタビュー・シリーズ「パブリック・トイレ×パブリック・キッチンを創造する」の第1回として、山本理顕さんにお話をうかがいたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

山本さんは活動初期から実験的な建築設計を続けてこられたわけですが、トイレ、キッチン、バスルームなどの水まわりの設計も独創的です。さらに、「パブリック」という概念についても、初期の論考から『権力の空間/空間の権力──個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』(講談社、2015)、そして新刊の『脱住宅──「小さな経済圏」を設計する』(仲俊治と共著、平凡社、2018)に至るまで、長いあいだ考察されています。これらの発言は活動の初期には建築家によるアジテーションとして受けとめられていた側面もあったと思うのですが、現在改めて読み直してみると、少子高齢化、労働人口の減少、核家族の崩壊など、山本さんの危機意識がきわめて具体的な問題として、一般の人々にも実感できる状況になってきたといえるでしょう。こうした状況のなかで山本さんの言説を読み返し、実践を振り返ることで、われわれが直面する問題とその解答をセットで見つけられるのではないか。
そのような期待があります。

本日のインタビューにあたり、あらためて山本さんが手掛けてきた住宅や集合住宅などのプランを読み直したのですが、やはり一般的なプランとはかなり違っていて驚かされます。まずはこれらのプランがどのように生まれたのか、その出自についてお聞きかせください。

山本理顕

はい、よろしくお願いします。これまでのいくつかの著書で「閾」という概念について説明してきました。「閾」とは、住宅という私的領域(private realm)の内側にあってそれでもなお公的領域(public realm)に属する空間のことです。公的領域は「都市」の側に属する空間とも言い換えられるでしょう。これまでの設計でも、それぞれの個人の個室を「閾」と捉えることで、それをパブリックな空間と呼ぶことができないだろうかと考えてきました。修士論文のときからこのようなひょうたん型のダイアグラムを描き始めました。

山本理顕『権力の空間/空間の権力──個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』(講談社、2015)

山本理顕『権力の空間/空間の権力──個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』(講談社、2015)

山本理顕『脱住宅──「小さな経済圏」を設計する』(仲俊治と共著、平凡社、2018)

山本理顕『脱住宅──「小さな経済圏」を設計する』(仲俊治と共著、平凡社、2018)

山本理顕設計工場《岡山の住宅》(1992)。平面図、断面図 図版提供=山本理顕設計工場

山本理顕設計工場《岡山の住宅》(1992)。平面図、断面図。左下がひょうたん型のダイアグラム 図版提供=山本理顕設計工場

浅子

『脱住宅』にも、私的領域と公的領域を相互に結びつけ、あるいは切り離す建築的装置が「閾」であると書かれており、そこに《岡山の住宅》(1992)がもつ「閾」の形式性の説明が続きます。建築での実践の話は後でお聞きするとして、「個室=閾」というお考えは、1970年代の原広司さんとの集落調査のときにはすでにあったのでしょうか。

山本

集落調査の前ですね。大学院で修士論文を書いている頃からそのようなことを考えていました。

浅子

私的領域と公的領域の関係を考えると、通常はリビングルームが「閾」的な空間とみなされるようにも思えるのですが、なぜ山本さんは個室のほうが「閾」だと考えられたのですか。

山本

そもそも日本の近代住宅は家族のための専用住宅で、リビングルームは外からの来客のための場所としては想定されていませんでした。だからお客さんが来たときは奥さんがリビングを一時的に片づけ、応接用の部屋に急ごしらえしましたよね。現在のnLDKの住宅にも公的な領域は設けられてはおらず、閉じています。それは戦後ずっと変わりません。僕はそれをいかにして開くかということを、建築の仕事を始めたときから考えていました。

こうした文脈のうえで、個人の場所、個室のほうがむしろ外に開きやすいのではないかと言い出したのは、建築家の黒沢隆さん(1941-2014)でした。

浅子

創刊号の『都市住宅』(1968年5月号、鹿島研究所出版会)で「個室群住居とは何か」を書かれた黒沢隆さんですね。

山本

そうです。黒沢さんはまず、子ども部屋の多目的な性質、例えばそこはベットルームだけれども友だちを気軽に招くこともできるという特徴に着目していました。さらに彼は、従来の両親の寝室は夫婦の性的な関係のための場所になっているから、これも父と母の部屋の2つに分けてしまおうと言い出した。つまり父・母・子という家族の構成員の数だけ個室をつくることが「個室群住居」の発明だったわけです。発表当時、この主張はとても新鮮でした。というのも、当時の建築家による住宅のプランはどれも同じようなものばかりだったからです。少々過激な住宅作品でも夫婦の寝室だけはあいかわらず閉じていて、子ども部屋の扱いはその子ども年齢によってさまざまでした。だから黒沢さんの提案は当時とても画期的だったのです。

当時の黒沢さんの意識は、近代の産業構造がつくった〈社会─家族─個人〉におけるひとつの単位である〈個人〉を、近代住居のなかで考えることに向いていたのだと思います。それが正解なのか間違いなのかということ以前に、建築家が夫婦や家族の関係にまで介入できるのだということを示した。それまではずっと家族の形態や家族像は外から与えられる条件だとされてきたので、そこに手をつけた黒沢さんの考えには多くの建築家が影響を受けたはずです。

浅子

いまのお話を聞くと、黒沢さんと山本さんの設計思想にはある種の連続性があるように思います。黒沢さんはリビングアクセス型プランを提案したり、オフィスとリビングを一体化させた部屋を道路に向けて開いた住宅(《SOHO型個人用居住単位 KAO》[1997])などを発表していますよね。黒沢さんからの影響はどのくらいありますか。

山本

黒沢さんは子ども部屋に注目したわけですが、子どもはあくまでも家族という集団の内側に属しており、子ども部屋を父や母の部屋から切り離したからといって独立しているわけではありません。いろいろな新しい視点を受け取りましたが、その辺りについては黒沢理論は末整理だったと思う。

それは「個室群住居とは何か」と同じ頃に発表された《中川邸同居個室群》(1971)のプランにも現われています。

1階にリビングルームをつくり、2階に父・母・子どものための4つの個室を並べた住宅です。玄関を入ってすぐの場所に階段が2つあり、考え方としては玄関からそのまま上階に上がれることを想定したつくりになっていました。1階はリビングルームだと言いましたが、最終的にはダイニングキッチンのあるピロティのような扱いになっていました。黒沢さんとしてはこの1階を、外から誰もが入ってこられる空間にすることで家族という単位を外に開こうとしたのだと思います。けれども1階が外に対して開いてしまったら、ただ個室だけが並んだ住宅になってしまう。父と母の個室が分かれている点は特徴的ですが、それはその後のワンルームマンションとほぼ同じになってしまったように見えました。

浅子

黒沢さんの考え方に新鮮な衝撃を受けつつも、山本さんとしては個室群住居に不明瞭な部分があると考えたわけですね。

山本

それで東京藝術大学の大学院生のときに、当時助手だった黒川哲郎さんと「黒沢さんのプラン、上下の階をひっくり返したらいいのにね」という話をしたことがあります。1階に個の部屋があり、2階にリビングがあれば、直接外から個の部屋に入れるようになるという考えです。

「個室」の意味をひっくり返す

浅子

そこに「個室群住居」からの大きな読み替えがありますね。考え方としては黒沢さんのプランのほうが一般的な住宅に近いように見えます。もしもいま、住宅のなかに「閾」のようなパブリックな空間をつくるとしたら、リビングの脇にオフィスをつくろうとする建築家は多いでしょうし、そういう住宅は実際にあります。

それに対して、一般的には最もプライベートな部屋だとみなされがちな個室のほうを「閾」とする山本さんの発想には、かなり大きなジャンプがある。以前からなぜそうなっているのか、ずっと気になっていたのです。

そもそも「個室」の意味をひっくり返すという発想はあくまでも図式的なアイデアですよね。『地域社会圏主義』(LIXIL出版、2013)や『権力の空間/空間の権力』などの著作を通して、いわば家族や社会を考える契機としてこの図式がつくられたのだと思っていました。しかしお聞きしていると、山本さんは初期の頃から、家族や社会の問題と建築の問題を一緒に考えられていたということなのでしょうか。

山本理顕ほか『地域社会圏主義』(LIXIL出版、2013)

山本理顕ほか『地域社会圏主義』(LIXIL出版、2013)

山本

はい。もともと、住宅を外に開くためのものとして「閾」という空間の可能性について考えていて、それを図式化したものがひょうたん型のダイアグラムでした。

近代以前の住宅には必ず客間が「閾」として存在していました。『権力の空間/空間の権力』でハンナ・アレントによる古代ギリシャの都市(ポリス)に関する記述を参照したのですが、アレント流にいえば「閾」とは公的領域と私的領域のあいだの「no man’s land(どちらにも属する曖昧な空間)」を指します。

古代ギリシャの家(オイコス)で特徴的なのは、男たちが集まって響宴(シュンポシオン)をするためのアンドロンと呼ばれる空間が設けられていることです。これが「閾」です。アンドロンはアンドロニティス(男の領域)に属している部屋です。この空間はポリスに対して開かれており、そこからギュナイコニティス(女と奴隷の領域)と呼ばれるプライベートな空間を隔離することができたわけです。

こうした空間構成の住宅は19世紀までずっと続いていました。ところが近代住宅になると客を招くためのアンドロニティスのような空間がなくなり、プライベートの空間しかなくなる。

浅子

では、古代ギリシャの家には個室があったということでしょうか。

山本

いえ、男の領域と女の領域が完全に分かれていたものの、個室という概念はありませんでした。ギュナイコニティスにはギュナイコンと呼ばれる室がありますが、そこは女性が奴隷と一緒になって子育てや機織りをしたり、男が寝に行ったりする場所です。アンドロニティスには家父長のためのアンドロンがあり、これは個室というよりも「家父長を象徴する部屋」といったほうが正しいと思います。というのも、当時は家父長だけがポリスの正式な市民とみなされていたわけですから。

浅子

そして、その「閾」を手がかりにして、山本さんは現代の住宅をどうやって外部に開くかを考えた。そうやって出てきたのが、個室が外に向いている図式だということなのですね。いまのお話を聞いていると、個室こそが外に開いている、外部とつながっているという構図はインターネットによって個人が世界と直接つながるという図式を想起させるので、大変興味深いです。

例えば《岡山の住宅》もこの図式からプランが決定された住宅のひとつだと思いますが、実際に設計してみてどうでしたか。

山本

《岡山の住宅》では父・母・子のための各部屋を「個室」と呼びました。具体的に個室でなにをすべきなのかというと、実際にはよくわからないところがあり、基本的には寝るための部屋になってしまった。つまり「個室とは何か」という問題を当時は解決できていなかったのです。

浅子

外側の道路からドアを介してそれぞれの個室に直接アクセスするほうが図式としては純粋だったと思うのですが、実際には個室の手前に前庭を設けています。これには意図があったのでしょうか。

山本

本当は個室を道路側に対して完全に開いたほうがよかったでしょうね。ただしそのためには個室がたんなるベッドルームでは無理ですよね。外に対して開かれるような用途がなければ、それはできないと思います。

浅子

もしもいま、同じ条件で《岡山の住宅》をつくるとすれば、どうすべきだとお考えですか。

山本

専用住宅として考えるのではなく、子どもの部屋をアトリエとして使えるようにしたり、家業と呼べるような生業をもっていたり、お店を開いたりすることで、外の人が入ってくる契機をつくれたらよいですね。そうすればより外に開かれた場所にできるのではないかと思います。

韓国の《ソンナム板橋ハウジング》(2010)や《ソウル江南ハウジング》(2014)では前庭でハーブを育てたり、屋上で野菜をつくったりして住人同士が交換しています。そのようなある種の経済活動をつくりだすことができれば、新しい住み方も考えられると思います。

山本理顕設計工場《ソンナム板橋ハウジング》(2010) 写真=佐武浩一

山本理顕設計工場《ソンナム板橋ハウジング》(2010) 写真=佐武浩一

山本理顕設計工場《ソウル江南ハウジング》(2014) 写真=Sun Namgoong

山本理顕設計工場《ソウル江南ハウジング》(2014) 写真=Sun Namgoong

浅子

なるほど、『地域社会圏主義』につながるわけですね。

《岡山の住宅》《鎌倉の住宅》における水まわり

浅子

水まわりのプランについてもお聞きしたいと思います。《岡山の住宅》では水まわりを完全に切り離し、トイレ+浴室・個室・キッチンを3棟に分けて配置しています。この配置はどのように発想されたのでしょうか。

山本

水まわりを分けるかどうかは場合によりけりで、プライベートな空間のそばにトイレ+浴室を設けることもあります。《岡山の住宅》は3棟に分割することに強い意識があったというよりも、庭を快適に使うことを意識していたので、トイレ+浴室は分けたほうがよいだろうと考えました。

浅子

それは意外ですね。僕にとってこの3棟分離型プランはかなり衝撃的でした。リビングルームをもたないかわりにキッチンを大きなテラスに面して配置することで、とても開けた住宅になっています。ある意味で、この後にできる西沢立衛さんの《森山邸》(2005)にもつながっている。

山本

リビングルームはいらないというのが施主の意見でした。キッチンも最低限のスペースがあればよいということで、一緒にご飯を食べる場所としての役割をテラスが担えるようにしました。

浅子

なるほど、トイレ+浴室とキッチンを異なる棟に分けたことには大きな意味はなく、あくまでも庭との関係性を重視していたということですね。たしかに同時期に発表されている住宅のなかには水まわりを1カ所にまとめているものもあり、《鎌倉の住宅》(1995)もそのひとつですよね。個人的なことで恐縮ですが、山本さんの住宅作品のなかでは《鎌倉の住宅》が一番好きなんです。というのも、雑誌発表時の写真を見ると、《岡山の住宅》は家具などがない無人の状態で撮影されていたのに対し、《鎌倉の住宅》では大量の物や人が写り込んでいて、そこでの生活がありありと想像できたからです。そしてなにより楽しそうだった。両作の見せ方の違いにはなにか意図があったのでしょうか。

山本

《鎌倉の住宅》の施主はたいへんおもしろい方でした。骨董屋さんなので古道具をたくさん所有しており、ガラクタと一緒に住むような暮らしがいいと言っていました。もともと同じ敷地にプレハブを建てて住んでいた頃から、彼の家の中は物でいっぱいだったのです。そこで住宅の中心部は壁を取り払い、物品を自由に置けるような中庭にしました。竣工直後もやっぱり物で溢れかえっていましたね(笑)。それで、写真撮影のときもそのままにしたほうが考え方がよく伝わるということで、物を片づけずに撮影したというわけです。

浅子

道路と個室のあいだに前庭があった《岡山の住宅》に比べて、個室のドアが外と直接つながっている構図をもつ《鎌倉の住宅》のほうが、より「閾」の図式に近いかたちの建築といえそうですね。

もう一点、《岡山の住宅》との違いで重要なのは、《鎌倉の住宅》にはトイレが2つあることだと思います。客人を招いたとき、《岡山の住宅》だとプライベートなゾーンにあたるトイレにまで外部の人を入れなくてはならなくなる。一方、《鎌倉の住宅》ではプライベートな領域まで足を運ばなくとも、個室側のトイレのほうに行けばよい。その意味で半ばパブリック・トイレのようだなと思ったんです。

山本

そうですね。とはいえ誰もが自由に外からやってきて使えるわけではありません。重要なのは、家族という集団をいかに考えるかということです。

浅子

たしかにその辺のさじ加減は難しいですね。先ほど《岡山の住宅》の話で、これからは個室をお店として用いることができればとおっしゃられていましたが、トイレについてはどのように扱えばよいと思いますか。

山本

未来を想像すると、家族的な住み方もあるでしょうし、血縁関係のない人々がある人数で集まって住む状況も考えられます。そうなると、その共同体のみんなが使えるトイレが必要となるはずです。『地域社会圏主義』の提案では、トイレやキッチンを数世帯で共有できるよう、いろいろな場所にそれらを配置しました。

浅子

いまでいうシェアハウスにも近い考え方でしょうか。

山本

そこは違います。「地域社会圏」がシェアハウスと異なるのは、それぞれの部屋が街と直接つながって、そこで経済活動をしていることです。それを前提としたうえで、複数のさまざまな人たちによる住み方が可能な提案になっています。どのキッチンを使うかは状況や人数によるでしょうから、場合に応じて近くにある複数のキッチンのうちから任意のものを自由に使えるようにしました。

浅子

ただそれだと、共同体の外からきた人もトイレやキッチンを使いますよね。

山本

カードキーなどでアクセスしないと使用できないようにするのでしょうね。

浅子

昨年秋にニューヨークに行き「海外トイレ取材 2|消えたパブリック・トイレのゆくえ」というレポートを書いたのですが、ニューヨークのスターバックスのトイレは、レシートに書いてある番号キーを打ち込むと使える仕組みになっていました。テクノロジ―によって昔は実現が難しかったことが可能になっていきますね。

山本

ただし、どこまでセキュリティを厳重にするかは考えどころです。コミュニティのなかで周囲との信頼関係が成立していれば、ある程度セキュリティシステムに頼らなくてもよい部分があるはずです。

反転したプラン、反転した水まわり

浅子

ここまで見てきた事例には2つのタイプの水まわりがあることがわかります。ひとつは、家という囲いの中の部屋というかたちでトイレやバスルームを収める《岡山の住宅》や《鎌倉の住宅》などのタイプ。そしてもうひとつが、水まわりを外に対してかなり開いた状態で点在させていく「地域社会圏」タイプです。

この両者のいずれとも異なるのが新潟のワンルームマンション《バンビル》(2001)です。普通のワンルームマンションでは玄関側に水まわりがあり、廊下を通った奥にベッドルームがありますが、《バンビル》ではその関係を完全にひっくり返し、トイレをいちばん奥の窓側に設けることである種の「反転した水まわり」をつくっています。これはきわめて合理的なプランで、よくできているがゆえに後から見るとそれほど不思議ではないように受け取ってしまいがちですが、逆に言えばこれが出てくるまでは誰もこの配置を想像できなかった。前例がない段階でこれを実現するのは至難の技ではないかと思います。

山本理顕設計工場《バンビル》(2001) 写真=新建築社写真部

山本理顕設計工場《バンビル》(2001) 写真=新建築社写真部

山本

居室の中にさまざまな仕事ができる場所をつくることを考え、玄関のすぐ近くに自由に使えるフレキシブルな部屋があるプランにしたのです。すると水まわりは玄関の反対側の窓側につくるほうが合理的です。お風呂は明るいし、見晴らしもよいし、乾燥室にも使えるのでけっして不自然ではないはずだと考えたわけです。

浅子

《バンビル》はとても合理的なプランですが、集合住宅ということは入居者が集まらないと成立しませんよね。最初からこれでいけるという確信はおありでしたか。

山本

利用者層の想定が学生や若いサラリーマンなど、若者向けだったからということもあります。自分で仕事をしている人や自宅に友だちを呼んで一緒に作業をするような学生たちにとっては、このプランのほうが圧倒的によいだろうという考えは当初からありました。

浅子

これまでのトイレのリサーチでわかったことなのですが、住宅のプランにおいて、リビングや個室は大きさやつなげ方、つまりたんにレイアウトの問題になってしまい、あまり革新的なものにならないんですね。それに対して水まわりだけはインフラとつながっていることもあり、すごく束縛されているがゆえに、戸建住宅にしろ集合住宅にしろ、そこが新しくなると住宅のプランそのものも大きく変わる。その意味で《バンビル》はとても示唆的な作品で、新しい解決方法がまだあったのかと、はっとさせられました。2000年代以降のデザイナーズマンションではこれと似た事例も出てくるようになり、いまではより一般性のある図式になっていると思います。

山本

都市基盤整備公団(現UR都市機構)の人たちがみんなで《バンビル》を見学しにきて、「これだったらできるな」ということで《東雲キャナルコート1街区》(2003)でも同じようなつくり方にしました。

山本理顕設計工場《東雲キャナルコート1街区》(2003)。外観 写真=山本理顕設計工場

山本理顕設計工場《東雲キャナルコート1街区》(2003)。外観 写真=山本理顕設計工場

同、玄関 写真=山本理顕設計工場

同、玄関 写真=山本理顕設計工場

同、水回り 写真=Nacasa & Partners Inc.

同、水回り 写真=Nacasa & Partners Inc.

浅子

なるほど、たしかに《東雲キャナルコート1街区》もリビングと水まわりの関係を反転させ、水まわりを窓側に収めていますね。逆に《バンビル》との違いとしては、玄関のほうもガラス張りになっていることが挙げられます。

山本

《東雲キャナルコート1街区》は面積が広いので、《バンビル》とは違う使い方がありうると考えました。ただこのときは、実際に住宅を外に開くのはかなり大変でした。

浅子

スプリンクラーの問題など、困難があったとお聞きました。でもそこを変えないと、現状の集合住宅を変えられないという想いがあったということですよね。

山本

そうです。《東雲キャナルコート1街区》で考えていたのは、リビングルームではなく、仕事や来客者とのやりとりができる場所を中心とする集合住宅をつくれないかということでした。やはりこれもずっと考えてきている問題です。

浅子

実際に住人の方々は山本さんの狙い通りに使っていらっしゃいますか。

山本

階によりますね。オープンに使ってくれているフロアもありますが、あまり使われていないフロアもある。事務所やアトリエのように使えない原因は明らかで、公団の内規の問題です。公団が住宅以外の用途に使うことを禁止しているのです。内職的に使うのはよいのですが、看板を掲げたり、お店を営業したり、外の人を呼んで打ち合わせをするのはダメという運用ルールがありました。ですが今後状況が変われば、新しい使われ方も出てくるとは思います。

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公開日:2018年08月31日