パブリック・トイレ×パブリックキッチンを創造する 3

作品づくりとネットワークを連動する「工作的建築」──未来のパブリック空間を模索する

馬場正尊(建築家、Open A)| 聞き手:浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ)

左:馬場正尊氏 右:浅子佳英氏

左:馬場正尊氏 右:浅子佳英氏

リノベーションの保守化とカウンター性

浅子

さて、馬場さんが仕掛けたメディアが発端となり、リノベーションが社会に広く普及していくわけですが、一方で危惧していることがあります。リノベーションが社会的な善として広く認識されてしまうと、古い建物の保存が目的になる、またはリノベーションの手法が制度化されるなど、ある種の保守化が進行してしまうのではないでしょうか。ここでひとつ事例として取り上げたいのは、アメリカのIT企業です。先日サンフランシスコへ取材に行き、Facebook、Apple、Twitterの本社を見て回りました(「西海岸とパブリック・スペース(後編)──ハリボテの世界」参照)。Facebookの本社はサンフランシスコの中心市街地から車で40分ほど離れたシリコンバレーの広大な敷地に建っており、アポなしだったので中に入ることができず、外でも警備員に強く警戒されて、撮った写真をすべて消去させられました。Appleの本社も同様にシリコンバレーの広大な敷地にあり、巨大なドーナッツ型の社屋が建っていました。元来Facebookは学生が交流を図るためのツールとして開発されたのに、いまでは過剰なセキュリティ態勢がとられており、理念とかけ離れているのではないか。そしてAppleは社屋があまりにもハイクオリティであるがゆえに、ブルジョアジーだけがApple製品を買うことができる状況を写しとってしまっている。この両者を見ていて思うのは、組織運営を重視するあまり、新たな社会のために新たなツールをデザインするという本義から離れてしまったのではないかということです。

馬場

まさにそういう状況になりつつありますね。最近リノベーション案件のクライアントに大企業が増えてきています。リノベーションの概念が広まったのは喜ばしいですが、どうしても制限が多くなり、できることも限られてくる。おっしゃる通りで、概念や組織は成熟して巨大になるとルールや制度が必要になり、保守的になってしまうのです。ところで僕もアメリカで複数の企業の本社を見て回ったのですが、Pinterestは工場をリノベーションした社屋をサンフランシスコに構えていて、社員たちがGoogleやAppleに対して「あの老舗企業は郊外にオフィスを構えて社員は高級車で通勤しているけど、俺たちのオフィスはダウンタウンの中心にあって自転車で通勤しているんだ」と言っていて(笑)。もうこれはカウンターカルチャーですよね。かつてカウンターカルチャーの場は郊外にありましたが、いまはダウンタウンに移り、ダウンタウンのPinterestが、郊外のAppleやGoogleを批判的に捉えている様はすごく健全だなと思います。

浅子

Twitterも同様にサンフランシスコ、それもテンダーロインというかなり混沌としたダウンタウンに本社屋を構えていますよね。社屋は1階がスーパーマーケットで、2階から上がオフィスになっているのですが、近年サンフランシスコから撤退する企業が増え、テンダーロインでは空洞化や治安悪化などが問題になっていました。そのようななかで市は、テンダーロインに移転する企業に対する税制優遇などの措置をとり、Twitterは空洞化したテンダーロインを活性化させようと積極的に社屋を移転したそうです。僕はSNSのなかでは、悪い面もあることは知りつつもカオスであるという理由でTwitterが好きなのですが、彼らの姿勢は、郊外に移転する企業へのカウンター性もあって素直にTwitterかっこいいなと改めて思いました。

テンダーロインの街なかに建つTwitter本社屋 撮影=浅子佳英

テンダーロインの街なかに建つTwitter本社屋 撮影=浅子佳英

馬場

アメリカのおもしろいところは、巨大化、保守化していく企業があるなかで、それらへのカウンターカルチャーが登場し続けることです。僕もつねにカウンターでありたいと思っています。リノベーションは建築基準法などに強く縛られるようになると、用途を限定しない余白を残すことなどが難しくなります。つまりリノベーションの醍醐味であるさまざまなデザイン手法が適用できるという側面も制限されていく。これは保守化と言えるでしょう。社会で広く認識されると保守化してしまうのは宿命です。そういう状況を突破するためか、最近は作家性の強いリノベーションを展開する若手の建築家も台頭してきて、リノベーションも新たなフェイズを迎えつつあるなと感じています。それはそれでおもしろいのですが、同時に新しい荒野を開拓する必要があると思っています。

パブリック空間の模索

浅子

2013年に上梓された『RePUBLIC──公共空間のリノベーション』は次なる企画書であり、「パブリック」こそが新しい荒野だということですよね。いつごろから「パブリック」について考えるようになったのでしょうか?

馬場

「パブリック」をはっきりと意識したのは東日本大震災の後ですね。『都市をリノベーション』(NTT出版、2011)では、リノベーションを都市レベルで展開することを提案しているのですが、この本を書き終わったときに「パブリック」の概念を模索し始めていました。しかしそれ以前に大きなきっかけとなったのは2008年9月に起きたリーマン・ショックです。それまで主流だった資本主義や新自由主義経済のほころびが見え始め、資本主義の根幹である「所有」によって本当に人は幸せになるのか?という疑問が生じたのです。

浅子

住宅バブルで不動産価格が高騰し、サブプライムローンによって住宅を売買しつづけた先にバブルが崩壊したわけですが、これは「所有」欲が招いた出来事でもあります。

馬場

そうですね。それと対照的な話ですが、震災後の石巻(宮城県)でとある感動的な風景に出会いました。津波で被災した場所では「所有」によってつくられた区画がなくなっているのですが、そういう場所に残された壊れかけの建物の外に大人も子どもも集まっていました。子どもたちは建物の壁面に投影された『となりのトトロ』(宮崎駿監督、1988)を見て、その横で大人たちはビールを持ち寄って飲んでいたのです。津波で流された悲惨な風景ではあるけれども、所有の概念が一掃された瞬間に、人はこんなに「パブリック」を楽しむのかと感動しました。そしてこの「所有とパブリックのあいだ」ともいえる概念に可能性を感じ、僕にとって新しい荒野となったのです。

浅子

リーマン・ショックや震災で浮き彫りになった大きな社会システムへの疑問が、「パブリック」を考えていくことにつながったのですね。

馬場

ええ。現在僕らが生きている資本主義社会は、現時点では人類が考えた最高のシステムであると言っても過言ではありません。しかし資本主義が暴走した結果としてのリーマン・ショックを経験した僕らには、はたしてそのシステムは最高のままでありえるのか?という疑問が生じます。それゆえ現在、資本主義社会から脱出しようとしているさまざまな動きが見えつつあります。「パブリック」は所有を重視する資本主義と、共有を重視する社会主義や共産主義の中間にある概念で、これこそが資本主義に代わる新しい社会を拓くキーワードだと感じました。そして新しい社会が形成されると、そこでは新しい建築や空間が生み出されていくと思います。

浅子

新しい建築や空間が生まれるのは望ましいことですし、そのための新しい社会システムを期待したいとは思いますが、僕には資本主義の次のシステムが見えず、いまは資本主義のシステムのなかでよりよい方法を模索していくほかないと考えています。とはいえ、いわゆる近代的な価値観の社会が終わりかけているという認識には完全に同意です。

トイレは「パブリック」のリトマス試験紙である

浅子

馬場さんはいくつかの本のなかで、欧米諸国と日本の事例を並べて取り上げられています。このインタビュー・シリーズのテーマは「パブリック・トイレ×パブリック・キッチンを創造する」ですが、「パブリック・トイレ」は欧米諸国と日本とで異なる点が多いかと思います。これまで取材をされてきたなかで、パブリック・トイレについてお考えになったことがあればお聞かせください。

馬場

トイレは「パブリック」を考えるときのリトマス試験紙だと思います。日本はパブリック・トイレが本当に多く、コンビニにまでパブリック・トイレが設置されています。たしかに日本人は清潔好きな国民性ではあるのですが、それにしても過剰にトイレをつくりたがる傾向がある。逆に欧米諸国、例えばイギリスはパブリック・トイレが非常に少ないです。パブで飲んだ帰り、地下鉄に乗る前に駅でトイレを探してもないので、またパブに戻るということもよくあります。またイギリスのパブリック・トイレは有料です。一方で美術館は基本的に無料なのです。要するに、イギリスでは美術館でアート作品を見ることは「パブリック」であるけれど、トイレは「パブリック」ではない。他方日本ではトイレは「パブリック」であるけれど、美術館に入るには少なくないお金を払わないといけない。このように両者の「パブリック」の概念は全然違うのです。社会の成り立ちやベースとなる価値観が異なっているのが原因だとは思いますが、そうしたことに気がついたときに、「パブリック」の概念はトイレに象徴的に表われると思うようになりました。

浅子

なるほどおもしろい指摘ですね。「パブリック」の概念として、日本はトイレを重視していて欧米諸国は文化的なものを重視しているということですよね。おっしゃる通り、社会の基礎となる価値観が違うからでしょうが、僕自身はむしろ日本のほうが健全なのではないかとも思うんですよ。なぜならトイレのほうが生きるために必要なものだからです。美術などの文化は生活を豊かにする教養として必要ですが、美術館の多くは、元来ブルジョアジーのために生まれたものですよね。それが無料で、生きるために必要なトイレが有料である社会は本当に正しいのでしょうか?

馬場

たしかにそうかもしれない。日本は行政の管理が広く行き届いた、ある意味で社会民主主義的な国家として歩んだ歴史があるので、トイレのような身体に準じた施設をパブリックにする概念が昔からあったのかもしれないですね。

浅子

欧米諸国では不動産王のような巨大な資本家が美術館を建て、無料で開放していたりしますよね。ある意味でたしかに彼らは社会的な役割を果たしている。ただ、富める者が美術品を収集し「パブリック」に開いていくという構図は、国や行政の力が民間に比べ相対的に弱くなりつつあるいま、重要な取り組みだと思う反面、かつての階級社会を助長しかねない諸刃の剣でもあるんじゃないかなと。

馬場

やはり欧米諸国は完全に資本主義国家なので、ものや空間の所有概念が強く、階級社会が露呈してしまうのでしょう。その点日本は社会民主主義的風土を残しつつ資本主義国家として成長してきたので、所有概念が強すぎず「パブリック」に対して柔軟であると思います。さまざまなパブリック空間を実験的につくりながら「おだやかな資本主義」を模索するには、いい条件を備えている国ではないでしょうか。

食の空間からオフィスを考える

浅子

Open Aのリノベーション作品は、建物をスケルトンに近い状態にし、使い手のクリエイティビティに委ねる平面計画や素材の選び方をされていますが、キッチンなどの水まわりはとてもていねいにデザインされている印象があります。建築基準法や建物の管理規約によるものかもしれませんが、なぜそのようにしているのでしょうか。

《rosso azuro bakuro》(Open A、2007)スケルトンに近い内装とキッチン

《rosso azuro bakuro》(Open A、2007)スケルトンに近い内装とキッチン 提供=OpenA

馬場

ご指摘の通り、リノベーションで最もお金をかけるのは水まわりなどの設備です。一方で住宅の平面計画におけるキッチンの位置が、空間全体を規定していると考えています。かつての住宅ではキッチンは一番北側に配置され、住宅の裏側という位置づけでした。しかしいまは住宅を設計する際にキッチンの話から始まることが多い。キッチンはかつてのような裏側ではなく、家族のコミュニケーションがとられる家の中心的存在になってきています。そうなると、自然と最も力を入れるのがキッチンになってくるのです。

《観月橋団地再生計画》(Open A、2012)

《観月橋団地再生計画》(Open A、2012) 提供=OpenA

浅子

キッチンが中心となる平面計画が住宅では普及しているとなると、オフィスのような空間でも食堂やキッチンが中心になることが考えられそうですね。馬場さんはオフィスの食空間についてどうお考えでしょうか?

馬場

オフィスの食空間にはとても興味があります。アメリカで企業の本社を見て回ったとき、食堂の様子がすごく印象的だったんですね。つねに人が集まって話していたり、カンファレンスルームを兼ねていたりと、オフィスの中でもかなり充実した場所だと感じました。そもそも食は生活の一部であるし、食堂特有の自由に使える開放された空間は、オフィスにおいて重要な場所ではないかと考えるようになりました。住宅のように、今後はオフィスでもキッチンを中心にプランニングしていく時代がくると思いますし、積極的に実践しようと思っています。
Open Aのオフィスでは、一番人通りが多い場所に幅4メートルの対面カウンター式のキッチンを設えているのですが、それにより所員同士のコミュニケーションが活発になったり、そこで新しい発想やプロジェクトが生まれたりして、会社としてのメリットもとても大きいです。

Open Aオフィス「Un.C」

Open Aオフィス「Un.C」 提供=OpenA

Open Aオフィス「Un.C」キッチン周辺

Open Aオフィス「Un.C」キッチン周辺 提供=OpenA

浅子

この《社食堂》もそうですが、オフィスにおけるキッチンを考えることは次の時代の新たな建築や空間を創造することにつながりそうですね。

馬場

そもそもオフィス空間自体が、100年前にミース・ファン・デル・ローエが提唱した均質空間の形式から進化していない。僕がリノベーションについて考え始めたときと同様に、オフィス空間は現在はまだ未知の領域だと思っています。未知の領域に挑めば、新しい現象を生みだせるでしょう。

Open Aオフィス「Un.C」

 

Open Aオフィス「Un.C」

Open Aオフィス「Un.C」 提供=OpenA

ルールを破りつつ社会を変えるアメリカ

浅子

話は変わりますが、アメリカではBird(バード)という電動型のキックスケーターがすごく流行っています。取材に行った際に街でよく見かけたのですが、非常にアメリカらしい自由を感じました(「西海岸とパブリック・スペース(後編)──ハリボテの世界」参照)。

馬場

ありますね。あれはどういう法制度のもとで許可されているのか、すごく疑問なんですよ。

浅子

そう思いますよね。もともとロサンゼルスのベンチャー企業の役員が立ち上げたサービスで、いってみれば法整備は後回しにして民間が勝手にはじめたサービスなのです。すぐに社会問題に発展し、罰せられる対象になりましたが、Bird側が行政に罰金を払うかたちで継続しています。このようなBirdの姿勢は、社会のルールのあり方に対する重要な問題提起になっている。アメリカ西海岸の起業家は基本的にルール無用のごとくふるまっていて、それゆえに西海岸でイノベーティブな世界企業が多く生まれたとも言えるんじゃないか。

電動型キックスケーターに乗る人々 撮影=浅子佳英

電動型キックスケーターに乗る人々 撮影=浅子佳英

馬場

日本はあらゆる条件が整わないと事業を始めることができない側面がありますし、一回失敗すると人生終わりぐらいの窮地に立たされますよね。リノベーションでは用途変更など際どいフェイズを扱う場面が多いのですが、万が一行政から指摘されたら逮捕されるんじゃないかなどと考えてしまって、踏み込みきれないことが多い。アメリカはそうではなく、ダメだったら次に進もうとか、ダメと言われてもお金を払えばどうにかなるという思考があり、物事を進める推進力が強いのです。日本とアメリカとでは正義の種類が違うのでしょうが、日本のトライアル・アンド・エラーを許さない風土はすごく息苦しいですね。

浅子

ルールは変えられるものであるという認識が日本では希薄ですよね。Birdがおもしろいのは充電システムです。路肩に駐輪場兼充電ステーションを設置し、ユーザーがつねにステーションに戻さなければならなかった従来型のシェア電動自転車と違い、少額の賞金を与えるというかたちでユーザーに充電させている。Birdは充電に必要なアプリや充電機だけを用意するだけ。つまり人間が充電とメンテナンスのエージェントなのです。このようなゲーミフィケーションによる運用方法は目から鱗が落ちました。ベーシックインカムとの相性もいいだろうし、給与もすべてアプリを通して支払えるようになれば小額での支払いも可能だし、今後増えていくだろうなと感じました。

停車中のLime Bike 撮影=浅子佳英

停車中のLime Bike 撮影=浅子佳英

馬場

ゲームをしたくなる不特定多数の欲望を利用して実経済を動かしているのですね。強いコミュニティだけがコミットするのではなく、不特定多数の利用を促すあり方は「パブリック」を考えるヒントになっていると思います。また「東京R不動産」もオープンソースの概念で展開していきたいのですが、まだある種の強いコミュニティによって支えられている状態です。Birdのようなゲーミフィケーションを用いるなどして、もう少し展開力を備えることが必要だと思います。

ネットワークと作品づくりをかけ合わせた作家性

浅子

最後に、きょう馬場さんのお話を伺ってみて、馬場さんはいままでにあまり存在しなかった現代的な作家なんだなと改めて感じました。
社会が成熟してくると、既存ストックのメンテナンスをする必要が出てきますよね。いままではマンパワーだけで解決しようとしていましたが、労働力の漸減によりそれも限界を迎えつつあります。そこで重要になってくるのは「ITと人間の掛け合わせ」です。Birdのようなゲーミフィケーションの運用はメンテナンスシステムのひとつの方法だと思います。そして馬場さんは「ITと人間の掛け合わせ」を実践していますよね。「東京R不動産」でおもしろい空き物件を社会に広めるネットワークを生み出し、Open Aで建築作品をつくっている。この「ITによるネットワーク」と「作品づくり」を連動させていることこそが馬場さんの作家性なのではないかと。

馬場

ありがとうございます。オープン・アーキテクチャと言っているぐらいなので、誰もが真似しやすい汎用性のあるデザインを展開して、自分の作家性を強く意識してこなかったのですが、方法論で作家性を定義するのはおもしろいですね。

強い作家性が社会を動かすことは現在でも主流だと思います。例えばSANAAによる《金沢21世紀美術館》(2004)はあの丸いフォルムを描いたことで、金沢の芸術活動や地域経済、そして日本全体の公立美術館にも大きく影響を与えました。一方で社会における作家性の認識も多様化してきています。例えば2016年にチリの建築家アレハンドロ・アラヴェナがプリツカー賞を受賞しました。アラヴェナの作家性は「住宅は半分建築家が設計して、もう半分は住んでいる人がつくればいい」という、作品性を積極的に放棄した姿勢に表われています。そのような建築家が、建築界でもっとも権威のあるプリツカー賞を受賞したのは非常に興味深いことですよね。またその前年の2015年にはロンドンの建築家集団アッセンブルがターナー賞を受賞しました。アッセンブルはコミュニティアーキテクトとして、リノベーションやワークショップによる創作活動をしています。アラヴェナと同様に、建築をひとつの作品として完結させるのではなく、住民を巻き込んだ一連の創作プロセスとしている。それが現代アートの権威であるターナー賞からも認められているわけです。

浅子

作品単体だけではなく、つくるプロセスや作品のもつ社会性も評価される時代になっているということですね。馬場さん自身も作品単体よりは、社会的な現象を引き起こすことに重きを置いているのではないでしょうか。

馬場

そうですね。アラヴェナやアッセンブルもそうですが、僕が実践してきたのは、建築家だけでなく利用者の手によっても建築がつくられていき、それによって都市全体を変えていく手法です。これを「工作的建築」と呼んでいるのですが、浅子さんのおっしゃる「ITによるネットワーク」を運用して、誰もが「工作的建築」を実践できるものにドライブさせているのだと改めて考えました。


この工作的建築はパブリック・スペースの創造につながっているんです。かつては行政がパブリック・スペースの提供を担っていましたが、コンビニに設置されたトイレのように、現在すごいスピードで民間によるパブリック・スペースの提供が進んでいますよね。民間のスペースをパブリックに開いていくと、やがて民間とパブリックの境界が溶け合い、新しい風景を生むでしょう。この民間化のスピードには驚きつつも、それをポジティブに捉えています。ゲリラ的にパブリック・スペースを仕掛けていくようなトライアル・アンド・エラーを、これから数年は実践していきたいと考えています。本日は楽しいお話をありがとうございました。

馬場正尊(ばば・まさたか)

1968年生まれ。建築家、Open A代表。東北芸術工科大学准教授。都市の空地を発見するサイト「東京R不動産」を運営。 著書=『R the Transformers──都市をリサイクル』(R-book 制作委員会、2003)、『都市をリノベーション』(NTT出版、2011)、『RePUBLIC──公共空間のリノベーション』(学芸出版社、2013)ほか。

浅子佳英(あさこ・よしひで)

1972年生まれ。建築家、デザイナー。2010年東浩紀とともにコンテクスチュアズ設立、2012年退社。作品=《gray》(2015)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=西澤徹夫)ほか。共著=『TOKYOインテリアツアー』(LIXIL出版、2016)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(鹿島出版会、2016)ほか。

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公開日:2019年02月27日