パブリック・スペースを創造する 1

プライベートな料理、オープンなキッチン

樋口直哉(小説家、料理家) 聞き手:浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ)

日本食は手法ではなく精神性?

浅子

コンセプトを理解せず、絶対的に美しいものを求めるという日本人の美術の需要とも重なっている気がします。それにしても、日本食はなぜ流行っているんでしょう。というのも、海外でレストランに行くと、日本食を取り入れたようなメニューが1品か2品はありますよね。

樋口

正確には流行っているのは日本食というよりも日本の「食材」といえるかもしれないですけどね。出汁は世界中のレストランで使われていますが、食べても日本料理とは思わないでしょう。でも、逆に日本料理ってどういうものかっていうと、なかなか難しい。それは日本料理にメソッドや構造がないからです。

フランス料理が世界的なスタンダードになりえた理由を考えてみるとよくわかります。フランス料理が世界のスタンダードになりえたのは、その本質が「素材全体を食べる」という思想だからです。例えばチキンを焼くと、骨が余る。その骨でソースをつくってかければ素材全部を食べつくしたことになる。明確な構造があるので、トレースしやすい。食材が変わっても、構造というか考え方は変わらないので、フランス料理は世界中でつくることができる。

しかし日本料理にはそのような構造がない。むしろ、日本料理を規定しているのは食材で、例えば出汁に使えるような天然の昆布は北海道近海でしかとれません。そういった日本特有の食材が入手できない海外では同じものはつくれない、ということになる。日本食で比較的構造が明快なものと言えば、シャリの上に具材がのる、と定義できる寿司、揚げ衣が食材を包む天ぷら、そして串焼きの焼鳥くらいでしょうか。

浅子

日本建築のあり方にも通底する視点ですね。日本建築にオリジナルの構造やメソッドはあるのかどうか。もしくは、庇や暖簾をつければ、はたまた、国産の木や畳・障子を使えば、それははたして日本建築になるのか。

あまり勝手なことをいうと怒られそうなので、料理に話を戻すと、日本料理には出汁という大きな特徴がありますよね。あれは日本ならではのものではないのですか?

樋口

フランス料理でもスープのベースとなるブイヨンがありますから、日本固有というわけではないですね。ちなみに出汁は旨味成分、すなわち動物性タンパク質で、それは脳に心地よい刺激をもたらすんですよ。かつての日本は動物性の食材が乏しかったので、それ以外のものから旨味を抽出し、例えばそれを大根などに染み込ませてバーチャルな「肉」として味わっていた、という説もあります。

浅子

なるほど、それは面白い視点ですね。

樋口

これからのキッチンを考えるには特異性に注目してもしょうがなくて、普遍的な部分を捉えたほうがいいと思うんです。これは歌川豊国(三代)の《十二月の内卯月初時鳥》(1854)という三枚続の錦絵で、ご馳走の初鰹をいただこう、というシーンを描いたものです。左が店の女主人、中央では鰹を捌いています。この豊国の絵は、本来男性のところを女性に置き換えていますが、右の女性は使用人で、酒樽から片口に酒を注いでおり、お櫃も見えますね。日本ってあんまり使用人が料理しているイメージがないかもしれないですが、富裕層は西洋諸国と同じように使用人に料理をつくらせていた。じゃあ、使用人を雇えない庶民はどうしているかっていうと、あくまで江戸や大坂といった都市部の話ですが、外食が中心で、朝ごはんは米に漬物を用意するくらい。湯で溶いた味噌に納豆売りが持ってきた薬味入り納豆を加えた納豆汁を食す、といった具合だったわけです。

歌川豊国(三代)《十二月の内卯月初時鳥》

歌川豊国(三代)《十二月の内卯月初時鳥》

古代ローマ時代の美食料理本『アピシウス』では、使用人の数を競うようなレシピを紹介していますが、これって僕らが生存のための食ではなく、文化的な料理とみなしているものは、使用人の存在なしにはつくりえなかったという証明ではないか。日本は明治時代に入っても主人が使用人に料理をさせていますが、そうして確立し、発展してきた料理を近代になって急に主婦だけに担当させたわけですから、無理が出るのは当然ですよね。

浅子

そうだとすると、家庭内で主婦がまさに専業主婦として料理をするようになったのは、ごくごく最近、近代以降に起こった現象なのですね。

樋口

『キッチンの歴史──料理道具が変えた人類の食文化』(ビー・ウィルソン著、真田由美子訳、河出書房新社、2014/原著=2012)によると、イギリスでは家庭で料理をするようになったのは18世紀半ばから19世紀にかけて、つまり産業革命の時代です。近代化とともに〈主人─使用人〉という階級差が薄まり、誰もが料理を楽しめるようになった「民主化」とも言えますけど、一方では母親の負担が大きくなった。

浅子

そうですね。僕は、いまだに残る、家庭のなかで母親が家族全員分の料理をつくるという構図には疑問があるんです。うちもそうですが、いまは共働きの家庭が多いですよね。家庭内で役割分担を固定するのはどうなんだろう、と。自分自身に照らし合わせると頭が痛い部分ではあるのですが、それでもその構図を変えないと、先に進めない気がしています。

癒し、エンターテインメントとしての料理

樋口

そうですね、キッチンにおけるジェンダー問題はとても大きな議題です。一方で、これからの「パブリック・キッチン」や「未来のキッチン」を考えるうえで特徴として挙げられるのが、料理ならではの癒しやエンターテインメント性です。数年前、シリコンバレーで料理がブームになったことがありました。Appleの元エンジニアがIoTを活用してつくった「The June Oven」はGPUやカメラを搭載し、スマホとも連動させることができます。また、マイクロソフトの元CTOネイサン・マイアーボールドは『Modernist Cuisine at Home 現代料理のすべて』(山田文ほか訳、KADOKAWA、2018/原著=2012)という、調理科学を駆使して家庭で高級レストランの料理をつくるためのレシピ本を2012年に出版しました。

ネイサン・マイアーボールド+マキシム・ビレット『Modernist Cuisine at Home 現代料理のすべて』

ネイサン・マイアーボールド+マキシム・ビレット
『Modernist Cuisine at Home 現代料理のすべて』

The June Oven

浅子

ともにIT関係者ですね。どうしてIT関係者は料理に興味を持つのでしょうか?

樋口

下地としてはシリコンバレーの「Maker」ムーブメントもあったと思いますけれど、料理が精神的な癒しになるからだと思います。持論ですが、人間の悩みは過去と未来にあるのに対して、料理には「いま」しかない。淡々とキャベツを刻んでいると無心になれますよね。バーチャルなものばかりを扱っている現在で、手近にリアルなものを感じられる行為と言える。

浅子

たしかにそうですね。僕も夜中に原稿執筆に行き詰まると、料理を始めます。お腹も満たされるし気分転換になるし、一石二鳥なんですよね。つくってすぐに美味しいとか美味しくないとか、結果が出るのもいい。

樋口

もうひとつは繰り返しているようにエンターテインメント性ですね。これはInstagramに上がっていた車をピザ窯に改造した例ですが、ここまでやるものかと笑ってしまいますよね。料理は生存のためだけではなく、気軽にクリエイティビティを発揮できるフィールドでもあることを物語っていると思います。

浅子

ここまで馬鹿馬鹿しいものを本気でやってしまうのがかっこいいですね(笑)。料理を題材にしたウェブの配信も多いですよね。最近ではアメリカで「Instant Pot」という電気調理器が人気を博していて、Amazonのカスタマーレビューに自作のレシピを投稿することが流行っているそうです。料理を介して、国を超えて趣味を共有する人同士がつながっていく。そのようなコミュニケーション・ツールとしてのキッチンのあり方もとても面白いですし、考えなければならないのでしょうね。

Instant Pot

樋口

これからの「パブリック・キッチン」や「未来のキッチン」を考えるうえで、もうひとつ指摘できることは、冒頭でご紹介したコンセプト・ムービーも、アメリカ産業博覧会にしても、描かれるキッチンの未来像は、過去がリセットされた、新しい時間軸の上に成り立っているんです。しかし、現実のキッチンには、親が使っていた古い鍋もあれば、自分で買った最新の恒温調理器もあるというように、さまざまな時間軸が絡み合って存在している。歴史は時間が地層のように積み上がってできているものですから、過去と現在が混在した先に未来のキッチンがあるのではないでしょうか。

浅子

その通りだと思います。コンセプトとリアルの相克、ということでしょう。

他方で悩ましいのは、「食」が環境汚染をはじめとする社会問題と表裏一体としてある、ということです。最近、ヨーロッパ在住の日本人の友人が来京したのですが、パートナーがベジタリアンだったのでレストラン選びに非常に苦労しました。日本食は出汁に鰹のような動物性タンパク質が含まれているので、じつは日本食はベジタリアンにはNGなんですね。

彼女がなぜ菜食主義を貫いているかというと、油・飽和脂肪酸・砂糖が健康を害するのはさることながら、牛一頭がげっぷや放屁によって放出するメタンガスが一日300リットル近くにものぼり、地球温暖化を加速させているというのもその理由だと言っていました。

世界人口は21世紀末に110億人に達すると予測され、環境問題や食糧難が危惧されているなかで、先進国の住民が生活を見直すだけで劇的に改善すると言われています。菜食はある意味、環境問題を解決するものでもあるけれども、一方で貧困層は菜食とはかけ離れたジャンク・フードにしかありつけないという格差構造も浮き彫りにします。食とキッチンを考えていると、こうしたジレンマについて否応なく考えさせられます。

さて、悩んでいるばかりでは前に進まないので(笑)、このへんで会場の皆さんからもご意見やご質問を募りたいと思います。

まちに拡張されるパブリック・キッチン

会場

会場1

キッチンの民主化や、レシピがオープンリソース化されるという話が印象的でした。食を通して時代が移り変わっていることを実感しましたが、もうすこしミクロに考えるとどうでしょうか。私はイタリア、マレーシアを経て、いまは中国で暮らしているのですが、たとえば同じパスタ・メニューを食べても場所によって味が違うのが不思議です。調理器具の進化で精密なコントロールも可能ということでした。またすこしお話に挙がりましたが、今後、食にローカルな風土の固有性はどのように残っていくのでしょうか?

樋口

それは建築にも共通の問題じゃないですか? 歴史的に土地に根ざしたバナキュラー建築がこれからどう残っていくのか、その文化のかたちはどう継承されていくのかという問題にも近いと思います。

食について言えば、積極的な方策を打たずに手をこまねいていればフラットな方向性に進んでしまうと思います。たとえばアフリカの郷土料理の極小パスタであるクスクスですが、原料となるデュラム小麦はもともとフランスが持ち込んだ食材で、アフリカのような暑い土地では育ちません。あの食文化は植民地支配の産物です。つまり、自然に混ざっていって、形を変えていくのが自然なんですね。それが悪いことではなく、時間が経てば必ずいくつかの食文化は消えてしまう。なので、僕は意識して残していく、あるいは記録していく必要がある、と思っています。

会場1

意識して残す、というのは具体的にどのような方法によってでしょうか?

樋口

日本食で言えば、われわれが日本食に対して抱いている共同幻想を残す、そのための物語性が必要だと思います。僕は日本料理は残していくべきだと思っています。なぜならば日本食はコンテンツとして非常に強く、諸外国と文化的に競争するうえで有利だからです。これだけ均質化が進んだ世界では固有性は大きな武器になる。加えるならば、牛丼の吉野家でも松屋でも、どこでも安くて美味しいものが食べられるというのは日本という国の魅力じゃないですか。

会場2

先ほど、日本食は構造的には弱いというお話でしたが、コンテンツとして強いとはどのような意味なのでしょうか?

樋口

「柔よく剛を制す」ではないですが、構造的な弱さゆえの、柔軟さ・強さとでも言えるものでしょうか。日本は他国の文化を取り入れて、自国の文化へと昇華させるのは得意ですよね。料理で言えば、トンカツやオムライスなど。折衷主義的、二次創作的な強みを持っている、と思います。

会場3

最近は味覚のバーチャル・リアリティ研究が話題になっていて、電気的に味覚を操作するデバイスが発表されたりしています。樋口さんは料理家として、電子味覚システムについてはどのようにお考えですか?

樋口

方向性としては先ほど話に挙がった「エル・ブジ」の人参のエアーが近いのでしょうね。カロリーを減らし、最終的には香りだけを味わい、空気を食べる。これを突き詰めたものが電子味覚と捉えられるでしょう。ただ電子の味覚はいつでもどこでも完全に均一です。人参のエアーは1本1本の素材の微妙な味の違いを残しますが、電子味覚はその差異が楽しめないんですね。

ニンジンの泡の料理

ニンジンの泡の料理
撮影=樋口直哉

さらに言えば、ものを食べる際に感じる味は周囲の環境に大きく左右されます。とある実験で、愛について語りながら水を飲んだら甘く感じたという結果がありました。嫉妬について話した時は無味、敵愾心の場合は苦味を強く感じるそうです。ダイニング・キッチンという空間が住宅からなくならないのは、皆でテーブルを囲んでものを食べることに幸せを感じるからではないでしょうか。

会場4

私は大学で団地の世帯調査をしているのですが、近年調理をしない家庭が半数近くあるという結果が出ました。冒頭で樋口さんは、料理は非常にプライベートなものとおっしゃいましたが、キッチンはオープン化、パブリック化していく印象を持っています。さらに言えば、キッチンが住まいに必要ではなくなる可能性もあるのではないでしょうか?

樋口

キッチンのオープン化あるいは消滅については1970年代から議論されているのですが、僕はこれから〈素晴らしく充実したキッチンを持つ人〉と〈キッチンを必要としない人〉の二極化はさらに進んでいくと思います。ただ、キッチンは使わない時間が長いので、充実したキッチンを個人で所有するメリットは薄く、サブスプリクションのように定額で使えるリッチなキッチン付きのスペースも生まれてくるのではないでしょうか。

浅子

僕はいまのご質問で、昨年アメリカの無人コンビニ「Amazon GO」に行ったことを思い出しました(「西海岸とパブリック・スペース(前編)」)。ランチタイムに大混雑するようなオフィス街に出店していて、昼時になるとどっとサンドイッチやサラダを買いに来る。客は、入店時にアプリを起動してゲートを通過、好きなミールキットを棚から取ってそのまま店を出ていきます。レジはなく、後からカード決済されるという仕組みなのですが、レジがないために買い物をしたというより、自分の家の冷蔵庫や棚から食べものを持っていく感覚なんですよ。頭では知っていたのですが、実際に体験すると衝撃を受けました。「Amazon GO」を見ていると、特に単身者は、必ずしも自宅にキッチンがなくてもいいんじゃないかと思ってしまいました。

Amazon GO

Amazon GO
撮影=浅子佳英

樋口

「Amazon GO」は本当に冷蔵庫の拡張版ですよね。

浅子

まさにそう思います。そして、あまりに話が拡がってしまったのでどうやってまとめようかと悩んでいたのですが、思いつきました。冒頭で樋口さんは料理の歴史を振り返るなかで、鍋が内臓を外部化したというお話をされましたね。これって、「Amazon GO」での体験とオーバーラップしませんか? つまり、キッチンの外部化です。キッチンを半外部化させ、街全体で暮らしを成り立たせていく。いま社会にはそういう方向性があるのではないでしょうか。各家庭で誰かに調理や片付けの負担が偏ることなく、データを集積していけば、タイミングよくできたての料理を提供することができる。こう考えると、家の中からなくなり、街に溶け込んでいくキッチンの姿も想像できそうです。ここにはネガティブな意味合いだけではなく、肯定的な未来を見据えることもできる。外部化という「パブリック・キッチン」のひとつの方向性が見えてきたような気がします。今日はありがとうございました。

樋口直哉(ひぐち・なおや)

1981年生まれ。小説家、料理家。安部公房『箱男』へのオマージュ作品『さよなら アメリカ』(講談社、2005)で第48回群像新人文学賞受賞(第133回芥川賞候補)。主な著書=小説『大人ドロップ』(小学館、2014)、小説『スープの国のお姫様』(小学館、2014)、ノンフィクション『おいしいものには理由がある』(KADOKAWA、2017)、料理本『新しい料理の教科書』(マガジンハウス、2019)などがある。


浅子佳英(あさこ・よしひで)

1972年生まれ。建築家、デザイナー。2010年東浩紀とともにコンテクスチュアズ設立、2012年退社。作品=《gray》(2015)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=西澤徹夫)ほか。共著=『TOKYOインテリアツアー』(LIXIL出版、2016)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(鹿島出版会、2016)ほか。

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公開日:2019年10月30日