対談 2

パブリック・トイレからはじまるまちづくり ──
「希望の営繕」へ向けて

内田祥士(建築家)× 藤村龍至(建築家)| 司会:浅子佳英

「希望の営繕」という理想を描く

内田:

さきほど、「希望の建設」の時代があったと言いましたよね。1960-80年代、たしかに建物の品質は向上しましたが、行政や建築家が示した通りにすべて実現できたわけではないですよね。メタボリズムをはじめ、ユニットや部品だけを交換するようなスケルトン・インフィルのような議論もありましたが、希望の糧となるコンセプトが本当に現実的普遍性をもって実現されてきたかと言えば、そうではないですよね。こうした歴史を踏まえて、修繕に重きを置いた営繕のコンセプトでも、可能性を示すことは必要だと思っています。希望の営繕の「希望」も、単なる現実論では希望たりえないわけで、理想が必要なのだと思います。人口減少は現実ですが、「こうなれば人がやってくるかもしれない」、いや、むしろ「人口が増えるかもしれない」という希望は必要でしょう。

言葉にできるか否かは別にして、楽観的な部分はないといけない。ここまでいけばきっと明るい将来が開けるという見通しは持っていたい。希望はリアリズムだけでは語れない。現状を克服していくためには魅力的なコンセプトも必要だと思います。建設の時代を知っているわれわれはそのプラスの面もきちんと知っているわけで、現在の修繕に取り組むにあたって、マイナスのビジョンだけを全面に押し出す必要はない。例えば、まわりに緑が増え、買った当初は庭なしマンションだったのに、周囲の除却が進んで公園付きマンションになると考えるくらいの意欲は必要です。それを虚構ではなく取り組むに値する目標にする必要がある。

嘘をついてよいというわけでなくて、悲観論こそがリアリズムではないという意味です。積極的な可能性としての希望は語っていいと思います。ここまでの議論と比べたら、むしろ集合住宅を建て替えることのほうがよほど悲観的かもしれない。修繕がもつビジョンを強く押し出すということに、あまり否定的にならないでいただきたい。たしかに、一時期、建物が減り、人口が減っていくことになっても、その結果、魅力的な街になれば、必ず人はもどってくると考えたい。

藤村:

「希望の修繕」を語る、ということですね。

内田:

そうです。それがこれまで語れなかったのは、間違いなく建設のほうが優れていると見なされていたからです。建設が希望であった時代は一区切りついた。建設に無理に希望を託したために虚構の時代になってしまった、そう考えてみてはどうかという意見です。虚構であるということをきちんと認識できれば、修繕を希望をもって語れるはずです。それが、タワーマンションにどんどん人が流れていってしまう状況を見直す契機になればと思うんですね。

浅子:

それを深刻化させている原因のひとつに、都心のオフィスに通勤しなければいけないという交通の問題があります。現在も埼玉県から通勤する人は毎朝200%を超える乗車率に耐えていたりする。通勤地獄からの脱出のために都心部のタワーマンションに人が流れていく。これまで何度も議論には上がりつつも、なかなか実現しないテレワークのシステムが今後確立されて、本当に分散型で働けるような社会になっていけば、空いている団地やマンションの部屋がオフィスに変わる可能性も出てくるはずです。そのような未来を希望として語っていかなければならないということですね。

藤村:

政府は「まち・ひと・しごと創生」と言っていますが、人口の移動には仕事の創出が不可避ですね。現在、埼玉県鳩山町の鳩山ニュータウンで「鳩山町コミュニティ・マルシェ」という公共施設の指定管理を私の設計事務所が受注し、現地に定期的に通って役所や住民の方々とまちの将来像を議論しているのですが、実際に街に入っていろいろな人に会っていると、手に職がある若いクリエーター層が意外と多く入っていて驚いています。東京藝術大学卒業の方だけでも4月からの3カ月間で3人お会いしたのですが、例えば東京藝大で鋳金を学び、インドネシアに留学経験のある工芸作家の方は、帰国後の住む場所として、北海道など全国を候補にして探した結果、自然が豊かで保育園の待機児童がゼロと子育て環境が整っており、東京から2時間圏内にあって、神奈川や千葉に比べて住居コストが安いという理由から鳩山を選んだのだそうです。鳩山町の行政資料を読んでいるだけでは高齢化のイメージが強すぎて、郊外の住宅地にそうした萌芽的な状況があることはわからないのですが、実際に現地に通っているとそのような若い世代の動きが潜在的にありそうだということがわかってきました。

そうした動きをピックアップして、クラフト系の若手が住む街としてのロールモデルを示すことは、エリアとしての「希望の修繕」にもつながるはずです。さきほどタワーマンションの広告の話がありましたが、鳩山ニュータウンのように開発が終わってデベロッパーが撤退した場所では、「住宅地」としてプロモーションする主体がいないんです。行政にも今のところそういう住宅地の価値を伝えていこうという発想はなく、住民にもノウハウがない。だから私たちの事務所が施設の指定管理者として率先してニュータウンのプロモーションを行ないます、と行政に提案しました。これはニュータウンの販売時に虚構のニュータウン像を提示するタイプの広告とは逆の、現在その場所にある実像を使ってアピールしていくような、現実的な取り組みであると言えます。郊外居住にも一定のニーズはあるので、そうやってニュータウンのような優良なストックに人が集まるようにすることには意味があります。

鳩山ニュータウン「鳩山町コミュニティ・マルシェ」

鳩山ニュータウン「鳩山町コミュニティ・マルシェ」(写真=RFA)

内田:

もちろんそう思います。浅子さんがおっしゃったとおり、人口が減るという現実もある時点まではきっと続くでしょう。そうなると、計画学的な言い方をすれば「コミュニティの終焉」のようなことも研究対象になるだろうし、その影響は間違いなくいくつかの団地や地域に及ぶはずです。そのような現実はたしかに予想されるわけですが、その現実だけを見ていてもしょうがない。やはりその現実を前に、住環境をよくするためのビジョンを描いていかなければなりません。そのビジョン通りに本当に人口が増えるのかという議論ではなくて、人口が減少するのを受けとめながら耐える時間が必要なのだということです。ただしそのビジョンは、例えば超高層マンションだけ建てて、その周りをぜんぶ森にするといったような、「希望の建設」を糧としたビジョンではあってはならない。それでは虚構にしかならない。そう思うんです。

浅子:

最後は水まわりにとどまらない大きな話になりましたが、時間軸を含めた建築のマネジメントや営繕の仕方を考え、後ろ向きではなく、ビジョンを生み出していくことが大切だというのは、まさにその通りだと思います。今日はどうもありがとうございました。

2017年7月28日、LIXILにて

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公開日:2017年08月31日