対談 4

福祉の現場から考える ──多様性を包摂する空間

乾久美子(建築家)× 家成俊勝(建築家)| 司会:浅子佳英

「アトム化」された空間としてのトイレと福祉現場におけるトイレ

浅子

ただし、福祉施設ではスタッフが24時間常駐していることが求められるため、プログラムや管理の観点からすると、オフィスもオープンにして逃げ場的な場所をつくらないほうが設計としては「正しい」とみなされそうですよね。けれども家成さんがおっしゃった「逃げ場」の現象は福祉施設以外でも実際に起きていて、近年のオフィスでもオープン・オフィス化やフリー・アドレスの導入にともない、社員がひとりになれる場所がトイレしかなく、そこでメールの返信や食事をする人もいるという話はよく聞きます。

いわゆる「アトム化」された個人の場所、その行き着く先がトイレであるというのはなかなか寒々しい話ですね。私としてはぶつ切りではなく、もう少し緩やかなつながりをもつ場所をつくれたらと思います。このことを踏まえて福祉の話に戻すと、重度障がい者施設のトイレはみんなでケアを行なうという意味で、共同の場としての役割を担っているように思います。もちろんトラブルの絶えない大変な現場ではあるのですが、少なくとも「アトム化」とは逆ベクトルの可能性をもった場所になっています。
このようにみんなの協力を必要とする場面は、福祉施設にかぎらず高齢者や乳児のいる世帯では起こりうることだとも思います。

浅子

パーキンソン病で亡くなったうちの義父も、生前は居間にベッドと椅子型トイレを置き、ひとりで用を足すのが困難なときは家族が手伝っていました。このように介護のためにトイレと寝室とリビングが一緒になってしまうような状況はどこの家庭でもありうるわけですが、そこに配慮した個人住宅のプランニングはあまり見ないですよね。

家成

僕の祖父も脳溢血で倒れて意識がないまま生きていた時期があり、お見舞いの際には排泄ケアも含めてみんなで介護していたのですが、社会的にはある時期からそのような場面に立ち会うことが忌避されるようになっていった印象があります。そのような経験を日常から遠ざけて、なかったことにするのではなく、当たり前のものとして見なせるようになったほうが、おおらかな包摂的な社会をつくるうえでは、むしろ豊かなのではないかと僕は思います。

マインドセット、排泄への抵抗

おおらかさという意味では、男子トイレの小便器は仕切りなく並んでいて、利用者同士のある種の連帯感のなかでアトム化しないトイレ空間が成立しているとみることができると思います。女子トイレが完全に個室化しているのとは対照的です。私もそれが当たり前だと思っていたのですが、中学生の頃の担任教師が中国好きの方だったのですが、その方から聞いた話によれば、当時の中国では女子トイレにもパーティションがないとのことでした。長い排水溝を共有して、並んで用を足すのです。びっくりしたのと同時に、それはそれで寛容というか、意外に窮屈ではないよい世界なのかもしれないと思春期の頃ながら思ったことがあります。

家成

そうですね、近代以前の日本では若い女性も家の前で裸で行水していたといいますし、江戸時代には銭湯での混浴も当たり前でした。そういった歴史を踏まえるならば、現代とはまったく違うおおらかな仕組みがあり、小さな共同体のなかで人々が経験を共有していたはずなので、おそらくは福祉のあり方も現代とは違っていたはずです。いまのように個々人が分断された状況のなかで福祉をつくっていくためには、人々をどう束ねるかというのではなく、かつてのようにあらかじめ束になっている状態について、もう一度捉え直すことが必要かもしれません。とはいえ、実際に開かれたトイレができた場合にどのように気持ちを切り替えたらいいのかは正直想像ができません。

乾久美子氏

乾久美子氏

浅子

それは気分の問題であって、物理的な問題ではないですよね。トイレで用を足すのが恥ずかしいという感覚はそのように教育されたから生まれる事後的なものです。ですからじつはたいした問題ではない。

そうですね。たいした問題ではない。

浅子

トイレとはこうあるものだとか、トイレではこうふるまうべきだというのは、社会的、教育的な観点からみて、「そうしたほうが正しいのだ」と、われわれが人工的につくっているものです。自分たちがつくったものなのだから乗り超えることができるはずです。ですが、われわれはいまある日本のトイレにまつわる状況を絶対的なものだと感じてしまっている。

マインドセットですね。

浅子

ええ。たとえ物理的には簡単に変えることができても、マインドセットを変えるのは難しい。というより、人々からの抵抗があるぶん、こちらのほうが難しかったりする。だから、どちらから手をつけていけばいいのかは、悩ましいところです。

逃げ場的に使われている現状を前にすると、トイレを見えない隠れたものとして扱うことをスムーズに受け入れてしまいがちです。ですが、コンビニのトイレなどは、数時間ごとに掃除をしている人が存在しているわけです。つまり、「隠すこと」に従事する人たちがいるからこそ逃げる場所をつくれているという事実がある。江戸時代の話につなげると、現代は制度的には身分がなくなった一方で、どこかにそういう階層化するようなものが隠れていることには、意識的でありたいと思うんです。

なるほど。

浅子

家成さんのお話をうかがって、同じ健常者として、僕らは無償の愛に支えられて働く人々のことをフックにして考えることしかできないのかもしれないと思いました。意思の疎通を図れない人たちをリサーチすることは難しいので、むしろ働く人たちの環境を改善していくことなどから、僕らがやれることが見つけられるかもしれません。

福祉施設で働く職員さんもそうですし、一般のトイレを掃除している人たちを、ハード的に支えることは考えられますよね。

浅子

自分たちが設計する際には、どうしても目に見える表の部分に力を入れてしまいがちですが、むしろ裏の空間を快適で使いやすくつくることのほうが、長い目で見るとその施設のよさにつながるのかもしれません。

掃除している人がすごいという話を聞いて思い出すのが、東海道新幹線の清掃スタッフの方たちです。東京駅のホームの待合時間に彼らの動きを観察できますが、ほとんどサイボーグかというぐらいに人間離れしたメカニカルな動きであっという間に掃除をしていく。海外でも報道されたほか、そのノウハウを取材したものが本にもなったくらいなんです(矢部輝夫『奇跡の職場──新幹線清掃チームの働く誇り』[あさ出版、2013]ほか)。こうした公に広くリスペクトされるような新幹線の例とは異なり、トイレの清掃に関しては嫌なものとして認識されていると思います。その嫌な仕事をだれに押し付けているのかを考えるべきです。ではどうするのかというと、掃除そのものをおもしろくしていくしかないのもしれませんね。

浅子

まさにその通りだと思います。「パブリック・トイレのゆくえ」の第1回目の対談(「清潔なトイレ、パブリックなトイレ」)で触れた、中山英之さん設計の《石の島の石》(2016)などは、トイレ掃除をエンターテインメント化しようとした事例であり、掃除の問題に正面から答えようとして好感をもちました。

矢部輝夫『奇跡の職場──新幹線清掃チームの働く誇り』

矢部輝夫『奇跡の職場──新幹線清掃チームの働く誇り』

中山英之《石の島の石》(提供=中山英之建築設計事務所)

中山英之《石の島の石》(提供=中山英之建築設計事務所)

たしかにそうかもしれません。

家成

僕の事務所スペースは7チームでシェアをしているんです。ものをつくる人たちの集まりなのですが、男が多くジェンダー・バランスが悪い。そういう状況のなか、男子トイレの手入れが行き届いていない感じで、いまひとつ汚ない時期があったんです(笑)。そこで、事務所内で、これではまずいので気がついたら掃除をしようと話し合い、それ以後実践しています。やっぱり掃除をすると気持ちがいいんですよね。東海道新幹線の清掃スタッフの方たちはプライドをもって仕事をされていると思います。たとえば、宗派によっては禅寺の一番の高僧がトイレの掃除をするらしいんです。これ自体もマインドセットなのかもしれませんが、われわれの感覚とは逆転している。

このあいだ女子高生が公衆トイレに持ち込んだゴミを捨てようとしていたので、「トイレはゴミ箱じゃないよ!」と叱ってみました。ついに私も、おばさん力を発揮した行動パターンが身についてきてしまったわけですが……(笑)。

家成

それは大切なことですよ。

すると、そんなことを言われたのは初めてだというように、すごくびっくりした顔をしていたんです。その反応を見てトイレに対する誤解が広がっているんだなと思いました。

浅子

少なくとも自分でなんとかしなければならない場所だとは思っていないでしょうね。

だれかがいつのまにか掃除をしてくれているから、捨ててしまえということなんでしょうね。想像力の欠如だといえます。

浅子

なかなか怖いですよね。そこまでいくとマインドセットを変えるのは簡単ではなさそうです。

家成

それにプラスして、排泄行為そのものが……。

不浄なものというか……。

家成

ゴミと一緒というか、生きることと切り離されている感じがしますね。

浅子

現在の社会は、両者がさまざまなかたちで意識の上にあがってこない仕組みになっていると思います。先日、家成さんとイタリアにおけるバザリア法(1978)という精神科病院を廃絶しなくす法律について話しましたよね。

家成

ええ。地域の精神保健センターが中心になって精神医療サービスを進め、精神科病院をなくそうという運動が起きたときにできたスローガンが、「近づいてみれば、だれひとりまともな人はいない」というものでした。だれもがどこか変わっているのだという考え方です。つまり、同じ人間などこの世にはおらず、われわれ全員がなにかしら変わり者なのだから、精神病の患者さんたちを施設の中に閉じ込めてしまうのではなくて、地域で包摂的にバックアップし支えていくことで、街の中で暮らしていける状況をつくっていくべきだという考え方です。

浅子

これまで、福祉施設で働く人やトイレ掃除をする人たちの存在は見えなかった/見えにくかったので、なかったことになっていた。だから乾さんが叱った高校生は、そのゴミがだれかが捨てていることを露にも想像もできなかったわけです。このままだと分断は激しくなっていくばかりなので、高校生への教育も含めて、どう対応していくのかを考えなければいけないですね。バザリオ法の根本にある、だれもが変わりものだという考え方を僕もとても気に入っています。というのも、自分たちにもいろいろな性の可能性があるというLGBTsはなんとか想像できたとしても、体の自由が効かず車椅子がないと移動できないとか、自分の意思をうまく伝えられないということに対しては、なかなか想像が及びません。だからその近道は、彼らが街にもっと出てこれるようになることなのだと思います。障がいも含めて多様性のひとつであり、個性のある人間のひとりなのだと捉えられるかどうかは、難しいけれど大事なことです。ひるがえって、自分自身が想像できるのかどうかというと、やはり難しいところがありますが。

そう簡単でないと思いますが、努力したいですね。

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公開日:2017年11月29日