鼎談 2

今、空間・建築にできること/できないこと

連勇太朗(建築家、CHAr)+金野千恵(建築家、t e c o)+上野有里紗(建築家、ULTRA STUDIO)

ネットワーク的世界観における作品性

さて、明確にスケジュールと予算が最初の段階から決まった目的型ではない活動のあり方、さまざまな関係性のなかからプロジェクトそのものを紡ぎ出していくような建築のあり方を考えたとき、何を成果とするのか、何をアウトプットとするのか、それを議論する必要があると思います。プロジェクトをさまざまな関係性の束として認識することを仮に「ネットワーク的世界観」と表現してみたいと思います。そうしたネットワーク的世界観において、必ずしも建築物や建物が「プロジェクトの成果」とイコールになるわけではないということです。金野さんの《春日台センターセンター》は、幸運にもひとつの建築物として結実しましたが、そうじゃない可能性もあったはずです。そのとき、プロジェクトはどう語りうるのか、ということにも興味があります。私自身は建築家のアウトプットは必ずしも建築物に縛られる必要はないと考えています。いろいろなバリエーションがあったほうが文化的にも豊かなんじゃないでしょうか。金野さんにとって《春日台センターセンター》で最も重要だったことは何なのか、またこれからネットワーク的世界観を探求していく上でアウトプットをどのように位置付けているのか、お話いただけますか。

金野

そうですね、塚本研では実践と研究をつねにパラレルにやっていく土壌があったので、私は探求に時間をかけることを無駄とは思いません。むしろアクセルを踏んで両輪を動かしてきたような意識で、ロッジアの研究もライフワークとして位置付けて、本にまとめようと10年くらいかけています。そろそろ出せたらいいのですが(笑)。事務所に余裕があるときはスタッフと一緒に海外に行ってリサーチをして蓄える、ということもやっています。

《春日台センターセンター》以降は基本計画を請け負うことも増えています。必ずしも設計まで手がけるかはわからないけれども、まずは調査をして本当に必要なことは何か、また、そもそもつくるべきなのか否かということから議論したい、という要望をいただくのですね。こんなふうにプロジェクトの構造をつくるところにも建築家が介入できて、さまざまなフィールドで能力を発揮できる可能性があることを、実感するようになりました。

《春日台センターセンター》は竣工というかたちでひと区切りつきましたが、私のなかではまだ終わっていないプロジェクトです。活動している人たちがさらに深く入り込んでいくことで新たな課題が出てくるでしょうし、そこに伴走していきたい。

ただやはり竣工して、そこで自分が想像していた以上に人々が活動してくれている情景を見たときは、建築家として本当に幸せだな、と感動しました。建物をつくらない可能性もあったので、だからこそここまで来れた、そして見ることができた風景がある。もちろんプロセスのどのフェーズで切断しても、ある種の充実を感じられたというのも事実なのですが、ここまでの感動は、建築がなければ味わわなかったと思います。

ネットワーク的世界観で生まれたプロジェクトの作品性の高さをどのように測るかという意味で、非常に貴重なお話をうかがいました。従前の建築物単体の作品の評価ではなく、見えない関係性のなかからプロジェクトの骨格や構造を立ち上げそれを空間化したり建築物として具現化するという一貫性の高さやその質が、ネットワーク的世界観において建築の作品性を評価するうえで重要な気がしています。そうした意味においても、《春日台センターセンター》の作品性は非常に高いと思っています。

金野

ありがとうございます。臨床心理士の東畑開人さんに《春日台センターセンター》をご案内したときに、事業主がこの建築のことを一連のプロセスが集大成的に表現されたアート作品であるかのように語っていた、と東畑さんは感じられたそうで、非常に嬉しく思いました。

上野さんはアウトプットの多様性をどのようにお考えですか。

上野

イギリスでは建築物ありきではない建築教育を受けていたので、アウトプットがパフォーマンスや音楽、映像ということに違和感はありません。ただそれは、イギリスでは若手が新築を建てにくい、という背景も関係しているのかもしれません。フォレンジック・アーキテクチャーなど建築的思考を使うリサーチャーや、コンサルタントの道を選ぶ同級生が多かったのも事実です。だからこそ私は、思考を建築に翻訳しやすい日本で、アトリエ事務所を構えたいと思い、帰国しました。

ULTRA STUDIOは立ち上がって3年という若い会社で、企画が通らないことも多々あるので、金野さんがおっしゃるような骨格から依頼者といっしょにつくっていくことが今後できたら、と思っています。
TŌGEでは今のところ建築的なアウトプットがないのですが、例えば、ドリンクというかたちでプロダクトをつくれたのは貴重な経験でした。コンセプチュアルにチームで考えたものを、誰もがワンクリックで購入して食卓に置くことができる。誰でもがアクセスできるという意味でユニバーサル、同時に、商品の消費における場所性のなさが特徴的でした。TŌGEはイベントも行っていて、それはサイトスペシフィックであると同時に、テンポラリーな性格を持っています。場所の固有性を持ちながらも、多くの人が触れることができるアウトプットを考えたときに、自然や山に対する建築的な介入を改めて視野に入れて考え始めています。

ULTRA STUDIOとTŌGEはどのような関係なのでしょう?

上野

2つの活動のわかりやすい共通項は「私」ですが、私のなかでは、美術から出発して思想を学び、建築に流れ着いて都市について考えるなかで、アウトプットのひとつとして建築や空間があるという位置付けです。他方、TŌGEはソフト面から現代都市のオルタナティブをつくるものと考えています。当初はULTRA STUDIOとTŌGEの活動を意識的に切り分けるようにしていたのですが、やはり互いにない物ねだりのようなものがあって。今後、建築をTŌGEに介入させていくように、ULTRA STUDIO側で都市の中にオルタナティブなものをつくっていく活動なんかも出てくるかもしれません。

金野

「共通項は私です」というのは、とてもユニークですね。アートや環境にも携わりつつ、実際にコンストラクションをする自分もいる。新たなネットワークをつくるに必要不可欠な媒体のような。だからこそ引いた視点でご自分の作品を見ることができるのでしょうね。複数の役割だったり、その距離感を自分のなかで維持するのは、とても現代的だと思います。先ほど連さんから、「まちに開く」というお話がありましたが、それも建築に没入している自分と、少し離れたところから見ている自分、両方をもっていたいということかもしれません。従前の建築家像から距離を置いて、自分を構築していく……それを魅力的なフィールドで実践されていらっしゃる印象を受けています。

学習者としての建築家が見出す批評の可能性

今の時代、批評の有効性について上野さんはどのようにお考えですか。なぜ今、活動の軸のひとつに批評性を掲げていらっしゃるのでしょうか。私も批評や言語を大切にしたいと思っているのですが、今は言葉が重みを失っている時代でもありますよね。上野さんたちが参照元としている1970年代のラディカリズムの建築家たちとは異なる批評や言葉の回路をつくりだしていく必要があると思うのですが。

上野

建築は社会的にある種の批評の目をもって活動する領域、と認識しています。ただ、長期間暮らしていたイギリスは新築を建てにくいという背景もあるためか理論批評がより強く、そこにネガティブな一面も感じていました。きわめてアクティブな国際都市にもかかわらず、言葉だけの投げ合いをしていて発展性がなかなか見えないことも多いと感じました。

自分のキーテーマのひとつに言語があるのですが、言語の強度について考えると、英語はユニバーサルに使える分、強度が弱い言葉であるとも言えます。イギリスで働いていた会社も国際的である反面、言語の理解の齟齬が生まれやすく、それは建築をやっていく過程で物事の厳密性が失われる懸念もありました。それもあってかイギリスでは批評は盛んだけれどファジーな印象なんですね。

一方で日本の建築メディアはどうなっているのだろうと読み始めると、言説の構築が極めて精密になされていると思いました。また日本では連さんのように実践をされている方が批評活動も行っていることにも刺激を受けています。

もちろん70年代のラディカルズたちが生きた社会情勢とかなり違う現在において、同じ視点で批評・設計をしていくことは不可能です。現実的にスタッフをかかえ事務所を運営しつつ、アンビルトの提案を出していく余裕を持つことが難しい日本の建築界において、今は実現していくプロジェクトのなかでの提案に批評性を織り交ぜていくことが必須になっています。最近は批評を設計に翻訳する手法のひとつとして、都市表象で多様性が失われていく状況に対して、異質性を持った象徴性のあるフォルムを提案していくこと、が我々にとっての一種の批評性の表出だと考えてはいます。展覧会の「エクササイズ」の成果ですね。

言語的な側面でいうと、ULTRA STUDIOでは社内で月に何度か、言語的すり合わせをする会議をスタッフとともに開いています。設計手法に関して議論することもあるし、より広範囲の建築や都市へのアプローチを話し合うこともあります。このような時間をとることが、実務に追われつつも言語との距離感を近くに保つことへの努力となっています。

ありがとうございます。
私は「建築家=学習者」として考えることで、批評を再び生きたものとして取り戻せるのではないかと思っているのですが、今日のお二人のお話をうかがってその思いをより強くしました。建築家は学ぶ能力がとても高いので、学習者としてプロジェクトに入っていくことで、そこで発見・観察される状況をかたちにしたり言葉にしたり、さまざまなアウトプットに転化していくことができますよね。そういう意味で、今は建築家がトップダウン的な全能者・創造者から徐々に学習者になりつつある過渡期にあるんじゃないかと思います。

建築家が学習者として、先人たちの取り組みやリサーチ、批評のテキストといったものをどのように捉え直すかは、ネットワーク的世界観における批評の方向性にとって、重要な意味をはらんでいると思います。例えば、ロバート・ベンチューリの『ラスベガス』(鹿島出版会、1978)の原題は「Learning from Las Vegas(ラスベガスから学ぶ)」で、このタイトルは批評におけるきわめて重要な認識論的転換を示していると思います。我々が現実から学んだことがきちんと言葉になっていく回路があると、批評が単純な現状体制批判とは異なる回路をもつようになる。守られた立場で批判することに重みは見出せず、今は、我々自身が現実から学んだことで形づくられる言葉が逆説的に批評的な意味をもつ時代です。上野さんがおっしゃった「エクササイズ」は、身体的な感覚や直感を鍛える一方で、あるリアリティのなかから確信をもって発信できる言葉を紡ぐ作業でもあるのかなと思いました。

上野

我々は「形態は機能に従う(Form Follows Function)」というテーゼに対し、機能主義的な要件をかなえる答えではないものをいかにつくるか、「Form Follows Symbol」ということを考えています。例えばULTRA STUDIOの勉強会では、建築的定義上では柱は建物の構造的支えだけれども、そうではない柱は何を意味しうるのか、機能性よりも象徴性の強い柱の存在意味は何なのか、などという議論も交わしているのですが、その答えのひとつが「LANDSCAPE GOES DOMESTIC」における、根津という特異なコンテクストに介入していくストーリーと、それを写真に収めたうえでシンボリックなフォルムを取り出していくエクササイズでもありました。

こんな機能が欲しいと言われたところに、それ以上のものを提示できなければ意味がないと思っているのですが、それもある種の批評性だと考えています。

デュレーションをデザインする

最後にデュレーション(時間の持続性)について議論させてください。デュレーションはある対象と継続的にコミットしていくということで、ネットワーク的世界観において作品やプロジェクトをつくっていくために必要な概念として私が最近個人的に使っている言葉です。デュレーション自体がデザインの対象になり得るし、逆にそれがないとクライアントからボールを投げられて打ち返すだけの存在に建築家がなってしまう。キャッチボールするためには、ある一定の時間が必要ですよね。最初の時点ですべて「計画」しておくことが難しいのであれば、デュレーションを構築しておけばいい、そうすればさまざまな可能性に対してプロジェクトを開くことができるし、リスクにも対応することができる。

手前味噌で恐縮ですが、「モクチンレシピ」を始めて10年になりますが、レシピというツールによってユーザーと中長期の関係を築くことで、さまざまなプロジェクトが生まれるようになっています。また、先ほどの話で言えばユーザーや状況から我々自身も深く学ぶことができる。

建築家がある対象に対して持続的に関わり続けることに関してお二人がどう思うか聞いてみたいです。

金野

《春日台センターセンター》でも、できたこととやらなかったことがあって、課題は見えているけれども選別するプロセスを経て、今でなくてもよい、あるいは自分たちでなくてもよいかもしれない、と先送りにしたものもあります。予算もプログラムも確定していると、こうした選別を考える余地がありません。枠組みから一緒に考えると、計画を数期にわけてロングスパンで地域の課題に介入することができます。まちを一緒に探求していき、選別のプロセスを重ねると、おのずと時間が経ってゆくものだと感じています。

ほかのプロジェクトでも、今はこんなことを構想しているけれど、まず地域を見に来てください、と言われることが多く、そのときに何に気づけるか、どんな問題を共有できるか。時にはやめたほうがいい部分をご提案することもありますが、長い時間軸のなかで真摯に付き合っていくと、また何かあったときに相談したいと思ってもらえるようになります。建築家がそのような役を担っていくことも今後は重要だと思います。根本的には連さんが木賃アパートで実践されている活動と似ているのではないでしょうか。

また私は、上野さんのTŌGEの活動が羨ましいです! 人間の都合だけで解決できない自然の持つリズムや年月に対して、みんなが引いた視点を持ち次世代のことを考えるような時間の尺度をもつことは、すごく批評性があるし、宝物のような時間軸だと思います。

上野

ありがとうございます。我々はまだ持続的なことを行うフェーズに至っておらず、今まさに始めたいというタイミングなので、デュレーションの構築の方法など今日はいろいろ学ばせていただきました。TŌGEの活動場所である離山は古い歴史をもつ側火山で、足元に落ちている、浅間山の噴火で飛んできた黒い浅間石は一体いつの時代のものなんだろう、というようなことをつねに体感しながら自然に向き合っています。動物は動物、植物は植物それぞれのサイクルを持っていて、そこに偶然、人間である自分が入ってしまったような感覚ですね。今TŌGEの一環で小学生以下向けの自然ワークショップなどもやっていて、子どもたちがたくさん来るのですが、やはりこの世代のことを考えなくてはいけないな、と痛感しています。

今、空間・建築にできること/できないこと

今回のテーマである「空間・建築にできること/できないこと」に関して、さまざまなキーワードを散りばめたお話をしていただきました。最後にあらためてこのテーマに対する思いをストレートに語っていただけますでしょうか。

上野

「できること/できないこと」で言えば、私の場合はプロダクトやイベントといった比較的スパンが短くポータブルなものを扱うので、そこに「できること/できないこと」の隙間を埋める可能性があるように思いました。また「場」を他人と共有することは空間という形態にしかできません。その細部まで設計するのが、建築家の役割だと思います。

金野

一番最初に連さんがおっしゃっていた話も掘り起こすと、空間決定論だけでつくられる環境は、大切に持続されていく環境にはなり得ないと感じています。なにか、息苦しいのです。エクササイズや実験を重ねるなかで見えてくる、制度的な目的や機能でない、本質的に欲されている環境を立ち上げること。それを、持続する風景として定着するよう伴走することに、可能性を感じています。

「できること/できないこと」から浮き彫りになった空間のあり方も、学習者としての建築家のあり方も、目的的でなく、近代の合理的、機能主義的な効率性を求める認識論と位相がだいぶ異なりますよね。このような位相においてどう居場所をつくっていけるかは、力を合わせて皆で取り組むべきことかと思いました。
金野さんの事務所はすぐ目の前が道で、人が行き交う様子を見ながらこうした話をするのも面白い体験でした。今日はありがとうございました。





[2022年7月4日、BASE(t e c o+畝森泰行建築設計事務所シェアオフィス)にて/構成=植林麻衣]



連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)

1987年生まれ。明治大学専任講師、NPO法人CHAr(旧モクチン企画)代表理事、株式会社@カマタ取締役。主なプロジェクト=《モクチンレシピ》(CHAr、2012?)、《梅森プラットフォーム》(@カマタ、2019)など。主な作品=《2020/はねとくも》(CHAr、2020)、《KOCA》(@カマタ、2019)など。主な著書=『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版、2017)など。
http://studiochar.jp

金野千恵(こんの・ちえ)

1981年生まれ。建築家。t e c o主宰。京都工芸繊維大学特任准教授。主な作品=《向陽ロッジアハウス》(2011)、《地域ケア よしかわ》(2014)、《ミノワ座ガーデン》(2016)、《春日台センターセンター》(2022)など。2016年、第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館会場デザインを担当。
https://teco.studio

上野有里紗(うえの・ありさ)

1986年生まれ。建築家。AAスクール、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートにて建築を修了した後、2019年よりULTRA STUDIO共同主宰。主な作品=《RETREAT IN KARUIZAWA》(2015)、《2LDK IN OKUBO》(2021)など。2021年よりTŌGE | 一般社団法人芸術文化離山(通称:TŌGE | トウゲ)代表理事(共同)。
http://ultrastudio.jp/
https://www.toge.art/

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公開日:2022年08月24日