鼎談 3

生成的コミュニケーションから考える、これからの計画論

連勇太朗(建築家、CHAr)+伊藤亜紗(東京工業大学未来の人類研究センター)+安藤勝信(株式会社アンディート)

ある対象物に対する持続的な関わり

伊藤さんは『手の倫理』のなかで、道徳と倫理という2つの概念についても説明されています。画一的な正しさや善を指向し、定まった価値をなぞるという概念の「道徳」に対して、「倫理」は個別のすべきことや生き方全般を問題にし、答えが定まっていない不安定な状況下で価値を考え抜くことが含まれています。また、「ふれる」ことによって発生する倫理には、時間の持続が大事だというお話もされていたことがとくに印象的でした。前回の鼎談でも持続性(デュレーション)が話題に挙がりました。 建築設計で言うと、多くの仕事はクライアントワークとして仕事を依頼され、さまざまな時間的スパンがあるものの、ある目的の達成のためにプロジェクトの始まりと終わりが決まった単発型のモデルが一般的です。これからの計画論を考えるうえでは、やはり建築家やまちづくりの担い手が、単発モデルではなくデュレーションをどのようにデザインしていくかが大事だと考えています。ある対象物への持続的なコミットメントをいかにつくるかということですね。そうすることで課題の変化にも対応することができるし、大袈裟に言うと伊藤さんの言う倫理をプロジェクトの過程を通して育むこともできるようになる。 街の課題に対して何か拠点をつくって解決しようとする手法は多く見られますが、実際街の課題ってそんなに単純ではありません。例えばシャッター街の背景には、オーナーの個々の状況、地域の産業のモデルの変化などいろいろ出てくるものです。さらに問題を追っていけばいくほど、問題自体がずれていき、さまざまな気づきを経て自分自身が変容していくこともあります。やはり時間をかけないと、問題の捉え方や認識のモデルを変えることは難しい。クライアントワークの受動的な関わり方には限界があり、能動的な姿勢で対象物とどうやって持続的にコミットできるのか、これを考える必要があるのだと思います。

伊藤

そうですね、同じところにずっと接触していると持続が生まれ、やがて役割が入れ替わることがあります。例えばケアの現場で、ずっと一緒にいるとケアされるお年寄りのほうがケアする側になるような、双方向的な瞬間が生まれる。これは、自分の主張にはない視点が自分の中に入ってくるという、人間にとって自然な出来事です。けれども持続にはしょうがなくやる感覚も含まれています。この人と一緒に住まねばならない、だとしたら一緒にやっていくしかない。じりじりとお互いの妥協できるポイントを探してくような感覚で、まさに「倫理」という言葉で語ろうとしたことです。

安藤さんの柱のゴムテープの話も、1年の間でお互いが最初とは違うパースペクティブを持って、諦めとも違うのですが、だんだんと「そういうものだ」と折り合いをつけるようなプロセスがあったと言えるような気もしています。

なるほど。一方で専門家であれば譲ってはいけないところがあると思うんですが、その辺ってどう考えればいいのでしょうか。ケアにおいても、ケアすることは諦めてはいけない場面がありますよね。

伊藤

もちろんそういう場面はあります。ただ極端な例ですが、以前ここまで人は専門性を放り投げるんだという体験をしました。山形県で、すごく雰囲気の良い赤提灯のある居酒屋があったのですが、そこは店主が一切料理をしないお店でした。昔テレビ番組で特集されて以来お客さんが激増して、店主はもう料理をするのが嫌になってしまった。今ではお客さんが厨房からビールを出して、食べ物は近くのコンビニで買ってきてお店で食べるという状況なんですが、すごく楽しい場所になっているんです。専門家が究極まで引き算したという感じですが、介護施設でまったく介護をしないなんてこともひとつの理想ではないかと考えたりします。

3歩進んで2歩下がる設計を共有する

面白い事例ですね。そこに伊藤さんがある種の究極的な専門家の形態を見出していることも興味深く思いました。私自身がまだまだ専門性の檻の中に閉じ込められているからなのかもしれませんが、小さな店の中では成立するモデルだとしても、よりスケールアップした複雑な状況においても、山形の店主のようにハンドルを手放せるのかどうか、そして手放した世界で人々はいきいきと振る舞うことができるのか、まだ想像力が追いつかない部分もあるというのが正直なところです。

ところで、デザインの世界にはメタデザインという領域があります。デザイナーが直接何かをデザインするのではなく、人々が自分で課題解決をしたりデザインしたりするための環境そのものをデザインの対象とする考え方です。そこで想定されている人間像は、自分たちが欲しいものを自分たちでつくるというものであって、近代的な消費者ではないんです。オープンソースなどの考え方が広まったことによってメタデザイン的な考え方も普及し始めましたが、実際の現実は多くの人々がまだまだ消費者的で、そういう意味で、専門家のモデルを変えるためにも、人々の認識の変化も同時に重要なのではないかと思いました。安藤さんは賃貸を運営するなかでこうしたことに関してどう思われますか?

安藤

大前提として、その場を良くしたいという気持ちはどんな人にもありますよね。しかしそれを、自分の思うように良くしたいと考えている節があるので、衝突が多くの場面で起こっているのではないでしょうか。本当はその場所に関係するみんなにとって良いものにしたいのに、僕もそういう矛盾を抱えてしまうことがあります。

以前、僕と同じような運営や管理の立場の人たちと、自分の取るべき立場をサッカーに例えて、背番号10番をつけるべきか、ボランチになるべきか、あるいは監督やチームオーナーになるべきかといった話をしたことがあります。そのとき僕自身はサッカー場になりたいと言いました。僕は選手がどんなプレーをするかには積極的に関与しません。選手が良いプレーをできるサッカー場があれば良いチーム、ひいては良いサッカー業界が、つくれるかどうかはわかりませんが生まれることはあるかもしれない。僕の役割はサッカー場の整備をどう考えるかに尽きますね。伊藤さんの「しょうがなくやる」という話に繋がりますが、お金を使ってより良い選手を集めてチームをつくる手段もあるけれど、よかったらサッカーやりませんか? と声をかけたら集まってしまったチームでやるしかない。だからこそ、このチームの選手にサッカー場である僕が指示を出しても、誰も僕の言うことを聞いてくれないわけです(笑)。

なるほど。サッカー場自体が生成モードを発生するための場なんですね。先ほどの柱のぶつかり防止カバーの事例のほかに、安藤さんが生成モードを下敷きにして物事が変化した事例があればぜひ教えてください。

安藤

最初に話した、祖父の家の跡地に計画している小屋の設計の過程はまさに生成モードです。設計事務所の若手が最初に提案してきた間取りを見たときに、「この間取りは、狭い面積に対してパズルのように収めたものではないですか?」と質問をしたら、「そうです」と。ならば、過去の建築家、例えば《カップ・マルタン》のル・コルビュジエや《ヒヤシンスハウス》の立原道造はどういう思想で小屋を設計したのか調べてみましょうと提案しました。また、台所やリビング、お風呂の寸法、床は畳なのか木なのか。この小屋には僕の義母が借り手として住む予定なのですが本人のもとへ行って、これまでの人生のなかでの暮らし方を物語のように聞いたりもしました。ヒアリングを進めていくと、結局小屋のサイズ感に間取りがびしっと収まったんです。これはおそらく、一般的な建築設計のプロセスにも似たことはあると思うのですが、暮らす人が建物に合わせていくというよりも、その人の暮らしあって家の形が決まっていく。構造的なことも違和感を解消できるように繰り返し話し合っていく。3歩進んで2歩下がるようなプロセスです。

設計者の見ているもの、運営者である僕が見ているもの、住まい手が見ているものがある。それぞれの見ている景色や正しさ、理想があって、自分のつくりたいものが顔を出したときに、僕はそれをぐっと戻して、また進めていく。他者の立場からは見えていないことを、どうやってともに見て進めていくのかは、一種のエンジニアリングではないかと思います。

建築のクレジットをめぐる問題と、生成モードがつくる風土・価値

生成モードにおけるものづくりの話をしていて、プロジェクトや作品のクレジットをどう記載するかという問題を思い出しました。今までの建築物の作品としての評価は、今に比べて変数が少ないので建築物の価値の評価は比較的建築家や設計チームの固有名と結びつけやすかったと言えます。<建築物の評価=設計者の評価>という図式が、そこまで不自然ではなかった。ただ、最近のプロジェクトは事業計画、企画、運営までを含めて建築や場所の価値を考えないと評価できないものがたくさん増えています。そうしたプロジェクトでは当然プロジェクトのステークホルダーやプレーヤーも多様で、そうすると専門的な建築雑誌の設計者名に設計者がクレジットされるのは当然のことだとしても、プロジェクト全体を包括的にメディアで表現する場合には、われわれ建築家はクレジットの方法に対してもっと慎重になるべきだし、試行錯誤しながら新しい方法を考える必要があると感じています。生成モードの世界でつくられたものをどのように伝達モードの世界に伝えるのかという話です。

伊藤

クレジットの問題から民藝を連想しました。民藝の提唱者である柳宗悦は、言語化するスキルを持った強力なアクターですよね。けれども民藝は無名の職人たちが築き上げたことに意義があるので、署名がないからこそ民藝の良さがあるとも言えます。その意味で柳宗悦の存在には矛盾があるけれど、もしかすると柳本人も自分のことをサッカー場だと思っているかもしれない。つまり生成モードの世界は、価値や風土がものを言う世界なんだろうと思うんですね。

私が日々ふれている研究という行為も計画主義になりやすいものです。つまり、研究計画書を書いて予算を獲得し、計画書通りに実行する、というものになりやすい。でも未来の人類研究センターでは研究の手法も利他的、生成モード的にしようとしています。その一環として科研費ではなく学術指導など企業からお金を集めることで、なるべく計画に縛られることなく自由に研究を進められる環境をつくっています。

そのなかで、目指しているものが明確に言語化されているわけではないのに、研究会でのメンバーの発言もどこか足並みが揃ってくる。おそらくその場に理念が生まれているのでしょう。この理念をもう少し柔らかく言うと、風土や価値ですね。生成モードの世界でクレジットを残すとすると、風土や価値といったものではないかと思いました。

複数人で何かを進めるときは、それぞれの立場が離れてることが重要で、そのときわれわれはどんな風土や価値を共有しているのか。たまたま集まってしまったメンバーだとしても、一緒に時間を過ごすなかで育つ価値があり、その価値を介して意思決定をしているのではないでしょうか。

安藤

僕は小屋のプロジェクトのタイトルを「三年鳴かず飛ばず」にしてみました。日常的には「活躍できない」という意味で使われることがある言葉ですが、本来の意味は少し異なっていて、来たるべきタイミングを急がずに待ち、大きく飛ぶことの大切さを示しています。メンバーが何かに違和感を持った瞬間やコロナ禍など、あらゆる要因によってプロジェクトが動かないことが多々あるんです。その状況を強引に収めるのではなく「三年鳴かず飛ばず」という雰囲気を置いておくことで止まることができます。それはいつしか場の風土になるだろうと思います。

立場の違いがあるから風土が生まれ、風土を言語化すると理念になるのでしょうね。理念は伝達的なもので、風土を直接理解していなくても伝わるものなのだと思います。生成モードを生成モードのまま理解させることは少し暴力的というか。社会は物事をスケールさせることで回っているので、生成モードで生まれたものを伝達の世界に還流させることも必要なのではないかと思いました。そのための技術としてひとつは言語化すること、翻訳することがあるのかもしれません。

伊藤

生成モードはその場所の固有の人によって育まれるものなので、そのままほかの場所に移植することができないんですよ。でも、さまざまな生成の現場は繋がることができるはずです。例えば安藤さんの「三年鳴かず飛ばず」に触発された人が賃貸の大家さんになったとして、そこでは安藤さんの実践とは違うものが生まれるでしょうけど、本質は繋がっていると思います。理念は、伝達可能な生成性を持ったもの、と言えそうですね。

クレジット問題は極端な事例ではありますが、語り方のバランスが大事だと思っています。伝達と生成を概念として理解していても、例えば今のような鼎談の場は生成モードも重要になるわけですが、生成的に話しているつもりがまったく伝達モードになっているようなことはよく起こると思います。

そもそもプロジェクトを進めている段階で、各個人が生成的な実践をできているのか、それをさらに公の場で生成的に語る風土が社会でどれだけ形成されているか。やはり建築設計の領域ではまだまだできていないと、私自身自己反省も含めて思います。伊藤さんは、本での書き方やイベントでの話し方の作法として意識されていることはあるでしょうか?

伊藤

そうですね、例えば文章を書くときに「ですます」調を使うことです。じつは「ですます」で語るのってすごく難しいんですよ。逆に「である」で書くのはすごく楽で、容易に言い切ることができるんです。けれども美学、とくに私の研究領域は、「である」調で言い切って論理的に話せば伝わる世界ではありません。その人の経験や見えている風景などとリンクさせながら話を進めないと納得してもらえない。そこで「ですます」調を用いると、他人の声が入ってきてしまうんです。難しいのですが、自分のハードル上げるために意識的に「ですます」調で書いています。

生成モードを練習し、伝達のモードの世界に翻訳していく

最後に、生成モードのコミュニケーションをどのように伝達モードの世界に還流させるか、フィードバックさせるか、ということに関してもう少しだけお話をお聞きできればと思います。伊藤さんはランニングをはじめ、スポーツを介した生成モードのコミュニケーションについても書かれていますよね。スポーツは観戦者とプレーヤーがいて、生成と伝達が交差する世界ではないかと、今までの話を聞いて感じました。

伊藤

スポーツについては「見えないスポーツ図鑑」というプロジェクトを続けています。どうすれば視覚障害者と一緒にスポーツを楽しめるか、というのがプロジェクトの発端でした。スポーツの観戦はまさに視覚的な行為なんです。選手たちの行為は生成モードだとしても、観戦者であるわれわれは距離をとって観察する立場にあります。そうなると視覚障害者がアクセスするのは難しく、状況を言葉で説明されても、認識するスピードが遅れたり、一体感を持てなかったりする。そこで別の観戦の仕方をつくろうとしたのが「見えないスポーツ図鑑」です。

例えば柔道を手ぬぐいで翻訳すること。これは、柔道選手2人がひとつの手ぬぐいの端を持って、普段の柔道での技をかける仕草を手ぬぐいの動きで表現し、その手ぬぐいの真ん中を視覚障害者に持ってもらう。すると、実際に柔道の選手がやっている動きが臨場感を持って生成モードで手ぬぐいから伝わってくるのです。実際選手は試合の場で、触覚などの情報を巧みに使って動いているわけですよね。そうした動きを、視覚に偏りすぎた観戦者は認識できなくなります。選手の実際の動きを生成モードで翻訳すると、視覚障害者だけではなく晴眼者にとっても新しい見方ができるようになるんです。

なるほど、とても面白いですね。スポーツという枠組みを使って生成モードを伝達モードに翻訳することが可能なのだと感じました。

さて、今日はこれからの新しい計画論を構想するうえでとても大切な議論ができた気がしています。そこでは2つの重要な視点が出てきたのではないかと思います。ひとつは、建築やまちづくりなどを担う専門家は、まずは生成モードのコミュニケーションを練習し、他者への理解を深めること。専門家は伝達モードに偏りやすいことを認識し、生成モードでコミュニケーションができているのか、つねに自己反省を心がける必要もあるでしょう。専門家という言葉を軽く使ってしまいましたが、今日議論したように専門性や専門家という概念自体にはさまざまな注釈がつくものだと思います。

そしてもうひとつの視点は、社会制度や社会変革といったスケールで考えると生成モードのコミュニケーションの限界は当然あるということで、生成モードの世界で生まれた風土や価値を、言葉や建築などを通して伝達モードの世界に翻訳していくこともまた必要であり、その方法を考えなければいけないということでしょう。これが専門家のひとつの役割となるのではないでしょうか。そのうえで生成モードと伝達モードの世界を行き来することが新しい計画論のひとつのありかたになりそうです。

安藤

計画を考えるにしても、大事なのは、どうすれば異なる者同士がお互いをわかりあえないなりにわかることができるのかを考えることかもしれません。認知症は大変だね、目が見えないのは大変だね、といった一方向的な自分の視点からの理解だけではなく、この人はどういう日々を生きているんだろうとメガネをかけてみるような体験をすることで世界は違って見えてくるのだと、伊藤さんのお話を聞いて考えました。

伊藤

少し付け加えると、建築やまちづくりの場では、メンバーシップが固定されているのか、もしくは流動的なのかも重要だと思います。山形の居酒屋で起こっていたことは、顔の見える商店街にあってある程度決まった人たちが集う場所だから成立しているはずです。安藤さんのような大家さんという立場も固定的だと思いますが、そのことがもたらす信頼や風土がある。逆に流動的な立場で構成されるメンバーシップもありますよね。古くは二宮金次郎がさまざまな農村の立て直しをしたように、あちこち場所を変えてまちづくりの活動をする人もいて、来ては去っていく。この去るという行為がもたらす、生成モードへのインパクトもあると思うのです。

生成的な持続によって風土や価値、または倫理性が生まれてくる。一方で、切断したり、一回止めて距離を置くことも大事なのでしょうね。安藤さんが実践している3歩進んだところで2歩下がるのもそうですし、去ることもまたひとつの「切断」ですね。その行為は個人のメンタルにとっても、また状況を俯瞰的に見るためにも重要だと思いました。抽象的な議論も深まり、楽しい議論でした。ありがとうございました。





[2022年10月4日、KOCAにて]



連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)

1987年生まれ。明治大学専任講師、NPO法人CHAr(旧モクチン企画)代表理事、株式会社@カマタ取締役。主なプロジェクト=《モクチンレシピ》(CHAr、2012〜)、《梅森プラットフォーム》(@カマタ、2019)など。主な作品=《2020/はねとくも》(CHAr、2020)、《KOCA》(@カマタ、2019)など。主な著書=『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版、2017)など。
http://studiochar.jp

伊藤亜紗(いとう・あさ)

専門は、美学、現代アート。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授、東京工業大学環境・社会理工学院社会・間科学コース教授。主な著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社、2013)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版、2016)、『どもる体』(医学書院、2018)、『記憶する体』(春秋社、2019)、『手の倫理』(講談社、2020)など。

安藤勝信(あんどう・かつのぶ)

株式会社アンディート代表取締役。街の大家さん。東京都世田谷区で古い建物に新しい価値を付けて再生し、住まい手の愛着や地域との繋がりを育む賃貸事業を展開。築30年の木造アパートを福祉とリノベーションで再生した「タガヤセ大蔵プロジェクト」が世田谷区空き家等地域貢献活用モデル事業に選定。

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公開日:2022年11月28日