海外トイレ事情 26
白いタイルと土埃 ── 中国のトイレ革命10年目を目前にして
永岡武人(建築家、LIU + NAGAOKA / Atelier56)
概要
中国に関心を持つ読者はトイレ革命という言葉を聞いたことがあるかもしれない。これまでも「海外トイレ事情」で触れられてきた。現在言われる中国におけるトイレ革命は2015年に習近平が号令をかけ、国家旅遊局が主導し観光地のパブリックトイレの品質改善を目的とする政策を発端としている。2017年には農村地域へと政策適応範囲が拡大された国家プロジェクトである。政策では一つにはパブリックトイレの設置や品質改善を目的としたハコの側面、そしてインフラの仕組みや公衆衛生についての教育等のソフト面での推進が行われている。あくまでも筆者の推察だが、最初に観光地が対象として選ばれたのは、外国人旅行者へのメンツ的意味合いと共に、農村地域からやってくる旅行者の、彼らの生活地にはない近代生活における衛生的なトイレを体験する機会を設け、伝播するためなのではないかと考えられる。
大号令がかかってから10年目を目前にし、都市部のパブリックトイレに限らず、農村のトイレ事情にも触れ、中国のトイレ革命がどのように推進され、どのような課題や展望があるのかを整理していきたい。トイレや政策の専門家ではない筆者の経験を通して見えてくる状況に限られることはご了承いただきたい。
都市観光地のパブリックトイレ
都市部の観光地の代表格である北京故宮の側にあるパブリックトイレの外壁は赤く塗られ景観への配慮が見られる一方で、人通りの多い外部からトイレ内を
景観保護地区ではないが、四川省成都市のショッピングエリア近くに設けられたスマートトイレでは個室の空き具合や室温、湿度を表示するディスプレイが入り口に設置されていたり、上海の中心地にあるパブリックトイレでは入り口付近に植栽があったりと工夫が行われている。これら新設のパブリックトイレはコンペで選ばれる場合もあり、若手建築家の機会にもなっている。
北京の生活エリアのパブリックトイレ
観光地のパブリックトイレの設置が推進される一方で、北京の下町的エリアである胡同で日常的に利用するパブリックトイレはトイレ革命以前から多数存在し、全てに管理責任者と清掃担当者が存在する。各トイレには「何か問題があればすぐにご連絡を」の旨の張り紙が貼られ、管理者のケータイ電話番号まで記載されていることから品質改善のための努力が窺える。
清掃担当者は北京以外の地域からやってきた高齢者が多く、例えば蝿は2匹まで等の管理上の衛生基準は設けられているものの、各担当者の衛生観念には少なくない差異があり、外国人の私から見ても綺麗に保たれているトイレもあれば、無数の蝿が飛び回っているものもある。トイレ内に清掃担当者の居住スペースがあり、住み込みで管理されているトイレは綺麗な場合が多い。住み込みで働く清掃担当者に話を聞く機会があったのだが、利用者が用を足しトイレを離れる毎に掃除をしていると教えてくれた。事実とても綺麗に保たれており、彼ら彼女らの北京の家でもあるわけだから当然と言えば当然の結果だ。一定期間評価を得続けると、星付きになり管理者の給与にも影響があり、モチベーションになっているのではないかと推察できる。副産物としてケータイやカバンなどの忘れ物を管理し、返却すると様々な形でのお礼をもらう場合もあるらしい。彼女の言っていた「こんなにトイレの多い街はないよ。私の村でも家にトイレはあるんだから」と誇らしげに、あるいは不思議がった様子で話してくれたのが印象に残っている。
2万箇所余りと言われるほど首都北京のパブリックトイレが多いのは、観光客が多いからといった理由ではなく、人口流入で北京の人口が爆発的に増加した時代に、元々は一つの家族が住む大住宅(四合院)に複数の家族が住むように政府主導で家を細分化した結果、各家庭の使用面積が小さくなり家の中にトイレを設ける面積が不十分であることや、負担コストの問題然り、細分化の過程で所有権が複雑化した結果、未だ下水管の整備が進んでおらず、トイレのない家が多くあるため、胡同に設けられたパブリックトイレを利用せざるを得ないためである。居住者の中には高齢者も多く、また中心部で便利が良いため田舎から出稼ぎでやってきた賃貸居住者も多かったりと、パブリックトイレの利用者は多様であり利用習慣も様々であることから、管理努力だけでは衛生を保つのは限界があるだろう。近年では高齢者の利用を考慮し洋式便器の設置が進められているが、肌が触れる洋式便器はあまり利用したくはないのが現状だ。そのため、胡同で生活する高齢者は家から写真のような和式便器をハック(それぞれが使いやすくするための工夫)する穴の空いた椅子を持参して利用している。
農村地域のトイレ
トイレの利用習慣が多様である一因の田舎のトイレ事情についても見てみたい。今から10年以上前に訪れた四川省の村で家畜小屋に隣接したトイレを利用させてもらった際には、いつ豚が柵を越えてくるかもしれないという緊張感があった。同じく10年以上前に訪れた陝西省の農村では、家の外塀の外の道路沿いにトイレが並んでいたが、近年再訪した際には道路沿いからトイレは無くなり家庭菜園の畑へと変わっていた。かつてトイレは簡素な壁と屋根で囲われ、地面に穴が開けられただけのものだったが、トイレ革命の影響でインフラが整備され、各家も補助金を利用し室内水洗トイレの設置が増加した結果だ。
かつてトイレの穴の横に置かれたゴミ箱を見て不思議に思ったが、肥料として利用するために紙を混ぜないように分けていたのだと後から納得がいった。今では水洗で処理されるようになり衛生面は向上し、土壌汚染も軽減しただろうが、広大な国土の中国農村地域でこの政策を完遂するためには多くの資源が使われていることも忘れてはならない。
私が前職で勤めていた台湾の建築家謝英俊率いる常民建築ではチベットでのパブリックトイレ建設の機会を得て、尿と便が分離するトイレを設置した。使用後に大鋸屑(おがくず)をかけることで便の乾燥を促し、肥料として畑に蒔くことができる仕組みだ。実際に利用した際、通風が十分で乾燥さえしていれば全く臭いがなかったのには驚いた。しかし、建設後に利用者が少なく、鍵をかけて通常開放しない田舎のパブリックトイレを多く見てきたため、その後の運営状況が気がかりではある。
農村地域での生活習慣も変化しつつあるとはいえ、土足文化は変わらず、家畜小屋や畑に行った帰りに土のついた靴でトイレに入ると、地面の白いタイルの汚れが目立ち、土を踏み固めただけのかつての地面との違いが強く印象に残っている。また穴が空いているだけのトイレでは水を流す必要がなく、水洗トイレで利用後に流されていないものを見ると、こうした利用習慣が関係している可能性もあることは注目に値するだろう。このように、現状では生活習慣との乖離が存在することは明らかである。
何かと独自性を求めがちな中国で、ことパブリックトイレにおいては、近代的衛生観念を下地にしたトイレの設置が進められており、先述したように時代も地域も異なる多様な背景を持つ利用者が混在するパブリックトイレでは、人知れず摩擦が起きているのを見るにつけ、この分野こそ独自のシステムや、空間の作り方を模索する機会があるのではないかと考える。もちろん一概に結論を下すことは困難を極め、習慣と空間の擦り合わせには時間を要するため、真の意味でのトイレ革命にはまだまだ時間が必要そうだ。
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公開日:2024年12月24日