長谷川堯講演会「現在に生きる建築家・村野藤吾、『神殿か獄舎か』、その後」

長谷川堯氏

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講演日時: 2008年1月22日(火)
会場: INAX:GINZA 8階セミナールーム

2008年のINAX講演会は、建築評論家・長谷川堯先生で幕を開けました。2006年10月20日発行の 『INAX REPORT』「特集―著書の解題『神殿か獄舎か』」の掲載以来、読者からのリクエストが多く、 会場では遠く青森、仙台から駆け付けたという声も聞かれる中でスタートしました。
この日のテーマは「『神殿か獄舎か』のその後と、村野藤吾が建築家として標榜し実践していた〈現在主義〉、 そして21世紀の今〈現在〉の設計活動は、果たして時間を超えて、どのような接点を形成しているか」です。
なぜ『神殿か獄舎か』なのか。なぜ後藤慶二なのか、大正なのか。そして何故、村野藤吾か…と熱く語りかけ、 満席の「ハセギョウファン」を魅了しました。

Part-1再刊された『神殿か獄舎か』

長谷川先生は、1972年、35歳の若さで『神殿か獄舎か』を出版されました。気鋭の評論家の 刺激的な問い掛けは、当時の建築界に一大センセーションを巻き起こしたことはあまりにも有名です。 しかし近年は絶版状態にありましたが、『INAX REPORT』の特集を機に、再刊の話がにわかに具体化し、 2007年12月、実現したばかりでした。
長谷川先生は現在、執筆時の倍の年齢で70歳、武蔵野美術大学教授もリタイアする節目の時期に 再刊が実現したことになります。
再版するに当たって、「35年前の本が、実際問題として、古くて読めないのではないか」と 一抹の危惧もあったそうですが、「自分で言うのもおこがましいのですが、結構、興奮を味わえました」 とエピソードも披露され、和やかに会はスタートしました。

  • 旧『神殿か獄舎か』(相模書房 1972)
  • 再刊『神殿か獄舎か』(鹿島出版会 2007)
  • 『後藤慶二遺稿』(私家版、非売品 1925)

Part-2後藤慶二と《大正建築》

長谷川先生は、昭和の建築と明治の建築の間に《大正建築》という歴史的エポックがある…として、 明治でも昭和でもない《大正建築》に着目します。そして後藤慶二に出会い、「後藤慶二は 獄舎づくりで一生を終えてしまったこと、それが大正時代の代表的な建築家の仕事であったこと、 そこには非常に大きな歴史的な意味が含まれていた」と語ります。
長谷川先生の言葉で言えば「近代建築家は "神殿建築"をつくる人」である。しかし、 長谷川先生が、後藤慶二に託して言いたかったのは、「建築家は基本的には獄舎づくりで あるべきではないか」でした。つまり「ヨーロッパの洋式建築のデザインの手法、技法などを 勉強しながら建築設計を、いわば外から学び攻めるやり方に対して、『自己』、『自分の存在』、 そこから考え、設計するやり方があるはずだ」と主張します。「少なくとも大正時代には、 そうした視点が設計の中に生きていた」と。
そして後藤慶二の代表作品である「豊多摩監獄」を具体的に紹介しながら、『神殿か獄舎か』 の本質に迫っていき、解体前の豊多摩監獄・獄舎内部を細密な写真で紹介しました。

  • 後藤慶二
  • 豊多摩監獄正門
  • 豊多摩監獄設計図
  • 豊多摩監獄十字舎房俯瞰写真
  • 監房の扉と洗面所、トイレ
  • 十字舎房内部と外観
  • 豊多摩監獄の取り壊し中の様子と監房の外壁

Part-3大正建築へのもう1つの視点

一転して、話は世界のいろいろな都市のアーケードに移ります。スクリーンにはトップライト のある街路、1860年代のイギリスのリーズにある「ソントンアーケード」、ベルギーの ブリュッセルにある「ギャルリ・サンテュベールのパッサージュの交叉部」などが映し出され ます。非常に洒落た"鉄の装飾"と"ガラスの透明感"で構成された、まさに新しい19世紀的な 都市空間ですが、「なぜ、そこに豊多摩監獄の十字舎房で見た内観と空間とが、重なって見える のか」。つまり監獄の中には、人間が人間のためにつくった都市空間と微妙に交錯している場面 があることに着目し、「それはどういう意味を持つのか」と問い掛けます。
また、観光客で賑わっている「京都の錦小路」を取り上げ、マーケットが持っている、 自分たちの街を自分たちの共同体の中で守り、客を迎えて生活をしていくシステムにも注目します。 また、山口県山口市にある山口刑務所の昔の、いわゆる牢屋の名残りのある太い格子の付いた 獄舎を紹介。そして京都や奈良の町中には今でも牢屋を連想させるような格子が残っているとし、 "獄舎が人間の都市と、どこかで必ずオーバーラップしてくる"と語ります。

  • ソントンアーケード
  • ギャルリ・サンテュベール
  • 京都・錦小路
  • 山口刑務所
  • 奈良、京都の町家の格子

Part-4村野籐吾の歴史観―1

長谷川先生が後藤慶二の後に出会った建築家が、村野藤吾です。長谷川先生は、 村野藤吾研究の第一人者であることは言うまでもありませんが、同時に公私ともに大変近しい、 信頼し合うご関係でもありました。
村野藤吾はちょうど後藤慶二が亡くなる1年前、大正7年(1918)に早稲田を卒業し、その後、 渡辺節事務所を経て、昭和4年(1930)に独立します。いわば大正時代に建築家としての修行を 終えています。そして昭和6〜7年頃から、作品が発表され始めます。「森五商店東京支店」、 「神戸大丸舎監の家」、「大阪パンション」、「ドイツ文化研究所」「都ホテル旧6号館」など。

  • 森五商店
  • 大丸舎監の家
  • 大阪パンション
  • ドイツ文化研究所

Part-4村野籐吾の歴史観―2

1970年代に、村野藤吾がそれまで手掛けてきた数々の仕事を見て歩いた時、村野藤吾の設計の 中には"最終的にはモダニズムが到達点だ"という歴史観は、どこにもなかったことに気付いた と言います。そこが村野藤吾のすごいところだと。例えば昭和33年(1958)に大阪で連続唐破風の 「新歌舞伎座」を発表しました。極めてモダンな建築をつくっている傍らで、様式的で見方によっては キッチュなデザインを、恥ずかしげもなくやってのける。学生だった長谷川先生は、「こんなものを つくっていいのか!」、「これが近代建築のデザインか」と、当時はつくづく考えたものだと回想します。 そして約10年後、「今度は強い衝撃を受けた」と語ります。御堂筋の南端に立って見ると、周りの ビルの方がはるかにキッチュで軽薄に見えた。つまり周りのモダニズムの、あるいは インターナショナリズム、合理主義、工業主義に基づいてつくられた建築の方がはるかに安っぽくて軽い。 ところが村野藤吾が設計した「新歌舞伎座」はデンと構えて身動きもしない。「これは一体何だろう!?」 と考えざるを得なかったと語ります。

  • 都ホテル旧6号館
  • 新歌舞伎座

Part-4村野籐吾の歴史観―3

村野藤吾のプロポーション感覚の素晴らしさを西宮の修道院のスライドで具体的に説明しました。 そして「これは明らかに『ラ・トゥーレット(修道院)』の写しですが、村野藤吾はそういう ことを何の抵抗感もなくやってのける。ある意味ではル・コルビュジエよりも大胆かもしれない」 と豪快に言ってのけました。それは「村野藤吾はあらゆる様式がほぼ同時並存的に存在する。 そういうかたちを、建築の設計上の理想とした人」だからできるのだと語ります。
この村野流の考え方が大事なのではないか。そこを真剣に考えて、建築をつくっていかなければ ならないのではないか。その時にこそ、後藤慶二で触れたような、建築家の「自己の拡充」とか、 「個々の建築家の想像力の重要性が、なおさら強く求められる」と締めくくりました。予定時間を はるかに超える熱演でした。

  • 西宮修道院外観
  • 西宮修道院中庭
  • 西宮修道院教会堂内部
  • 西宮修道院ドーミトリー
■長谷川堯氏プロフィール
はせがわ・たかし――武蔵野美術大学 教授・建築評論家/1937年生まれ。 1960年、早稲田大学第一文学部卒業。以後、建築評論家として活躍。1977年、武蔵野美術大学に着任。 専門は近代建築史。
主な著書:『建築有情』(中央公論社 1977)、『建築の生と死』(新建築社 1978)、 『生きものの建築学』(平凡社 1981)、『日本の建築 明治大正昭和 4 議事堂への系譜』(三省堂 1981)、 『建築逍遥 W.モリスと彼の後継者たち』(平凡社 1990)、『田園住宅 近代における カントリー・コテージの系譜』(学芸出版社 1994)、『建築の出自』(鹿島出版会 2008)、 『建築の多感』(鹿島出版会 2008)など。

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