これからの暮らしの実践者を訪ねる

暮らしの哲学をもつ

松浦弥太郎(文筆家、『暮しの手帖』前編集長)× 藤原徹平(建築家)| 稲垣えみ子(元朝日新聞記者)× 塚本由晴(建築家)× 能作文徳(建築家)

『新建築住宅特集』2017年7月号 掲載

「これからの暮らしの実践者たちを訪ねる」と題して、2回にわたり暮らしから考えるこれからの住宅を思考していきます。住宅をつくる建築家こそ、暮らしの哲学をもたなければいけない。 本当に豊かな暮らしとはなにか、その受け皿となる住宅とはどのようなものか、暮らしに哲学をお持ちの各界の専門家に、気鋭の建築家がインタビューし考えていきます。 第1回の今回は、『暮しの手帖』前編集長の松浦弥太郎さんと建築家の藤原徹平さんに、そして元朝日新聞記者の稲垣えみ子さんと塚本由晴さん能作文徳さんに、お話しいただきました。

松浦弥太郎(文筆家、『暮しの手帖』前編集長)× 藤原徹平(建築家)

住宅は、食べるところと寝るところ

松浦:

「暮らし」を起点に住宅を考えるのであれば、まず最初に、今の暮らしがどのような暮らしなのか。そこから話しを始めなければならないと思います。皆さん、今、忙しいですよね。朝早くから仕事に出かけ、夜になってやっと帰宅する。忙しくて、実際にはほとんど家にいないのではないでしょうか。僕もそうですし、周りの友人たちを見ても家にいる時間は、ほんのわずかです。その「わずかな時間」に何をしているかというと、食べているか、寝ているか。つまり、食事と睡眠が家の中における「暮らし」の中心なのではないかと思うのです。

藤原:

住宅において必要とされている機能がもはや「食べる」と「寝る」だけになっているとして、でもそれは住宅の未来を閉じてしまう話ではなく、むしろどこまでいっても「食べる」と「寝る」は残る、というお話として受け止めました。食事と睡眠は、人が生きていくうえでの根幹であり、非常に本質的な部分です。住む人にとって「本当に必要な場づくり」が求められる部分でもあり、「食べる」と「寝る」を軸に住宅を考えることは、住宅の設計そのものが、より本質的になっていくことが期待できます。

松浦:

住む側が最も大事にしたいことは何か、だと思うんです。日々忙しく、みんな本当によく働いているけれど、現代社会はこれからもっと、もっと、働かなければならない時代になるでしょう。そうなればなるほど、住宅に求めるものは、少なくなっていく。でも、せめて、家に「食べる」と「寝る」はあって欲しい。それだけは残したいし、それがなくなってしまったら、もう、家ではないのではいか、という切実な思いでもあります。

藤原:

なるほど。建築は生きるための場所に関わる「切実な問題」を扱うことになるはずです。松浦さんとしては、「食べる」と「寝る」、それぞれに、どんな場所が良いというような想いはありますか?

松浦:

食べることについて言えば、非常にシンプルな言い方ですが「料理と食事が楽しくなる」ような場所です。そのためには、まずつくり手である建築家が、食べるということがどういうことなのか、食の尊さや調理の奥深さ、食べることの喜びについて深く知っていなければなりません。寝ることついては、静けさや暗さといった要件に加え、そこで寝るという「安心感」を感じられる場所が理想です。その安心感には、「素材」も大きく影響しています。肌が触れるものは金属ではなく木がよいなど、素材に対するアプローチは、もっと繊細であってほしい。ストレス社会の現代において、「睡眠」は今後ますます重要なキーワードになると思いますし、安心して体を癒すことができる場所にしか、人は帰りたいと思わないのではないでしょうか。

暮らしから考える住宅に建築家は必要なのか

松浦:

僕の知人に、腕のいい宮大工に直接「どんな家にしたいか」を話し、家を建てた人がいます。こんなこと、藤原さんを前に言うのは失礼かもしれませんが、そこに建築家は介在していません。僕はある時、その宮大工が「絵でも言葉でも何でもいいから、暮らし方を教えてくれれば、自分たちはそれで建てる」と話しているのを聞いた時、家の建て方というのは、もしかしたらこれが本当なのかもしれないと思ったんです。

藤原:

僕もそう思います。暮らしのイメージが明確に描けていて、それがそのままつくれる状況にあるなら、大工と直接話して建てる方が幸せだと思います。だからといって、建築家が必要とされていないとは思いません。家を求める多くの人が、暮らしのイメージを細部まで描ききることはできないし、そもそも僕のような建築家に設計を依頼してくる人は、思い描いた暮らしの実現を阻む、何かしら「困難な状況」に出会ってしまっていることが多い。

松浦:

困難、ですか。

藤原:

はい。例えば、土地の購入に予算を使い果たしました、とか、家族で住むには狭すぎるけどそこから離れられません、とか、どうしようもないような状況から、何とか生活を成り立たせる方法を教えて欲しい、という感じなんです。そういった困難の解決に建築家の職能は役立つべきだし、生きるための切実な欲求がそこにはあります。あと、松浦さんがおっしゃったような、腕がよく暮らしが分かる大工は、今どんどん減ってきています。では、誰と建てればいいのか、誰と話せばいいのか。これからは、かつて大工が担っていた「暮らしの翻訳者」としての役割も、建築家に求められることのひとつになると思います。

松浦:

僕は、突き詰めることができないのが住宅だと思っていて、不完全な部分や人に任せる部分、矛盾するようなことが家にあるのは当然だと思うんですね。住む人と家が、決してイコールではなくても、十分、成立するものだと思います。けれど、今回のように「暮らしから考える家」となると、それは極めて親密な問題で、住宅という場所は、よりはっきりと、個人の感覚や感情に寄り添うもの、寄り添える場所であって欲しい。

藤原:

イーフー・トゥアンというアメリカの人文主義地理学者が、「空間」と「場所」についての本を書いています。彼によれば、「場所」というのは、安心感や守られているという感覚の概念。一方の「空間」というのは、人間の活動の自由を支える概念ということです。なので、住宅に「空間的なアプローチ」をしていくのはどこか新しい自由に向かっていくところがある。一方、暮らしの「場所」というように考える時には、もっと違う思考の組み立て方があるのだと思います。例えば、作法とか記憶とか、人間の身体とか、そういうものに向き合っていかないと、どんなに新しい空間性があっても、本当の意味で、人が暮らせるかどうかは分からない。

松浦:

そうなんですよね。暮らすのは「人間」ですから。

藤原:

「人間」は工夫もできるから、どんな空間でも、暮らせと言われれば工夫して暮らすのですが、よい暮らしの場所なのかというと、違う気がするんです。そもそも「新しい空間性」だけを試みるなら、用途は美術館でもいい。でも、家を「暮らしから考える」のだったら、松浦さんが先ほどおっしゃったように、「寝る」や「食べる」という人間の本質が要求する場所のあり方に対して、もっと真摯に向き合い、議論の場をつくっていかなければならないと思います。

美しさは、心の汚れを落とすためにある

松浦:

話が脱線しますが、僕は京都が好きで、なかでも石庭めぐりが一番好きなんです。先日も京都のお寺に石庭を見に行ったのですが、その時、ご住職がこんな話しをしてくれました。生きていると、暮らしていると、心は汚れていく。その「心が汚れていく」ということが、実は「暮らしとは何か」であり、心の汚れを落とすには、美しいものを見るしかないのだと。それを聞き、なぜ僕が石庭を見たいと思うのかが分かり、ハっとしました。美しい景色を見たい、美しい手仕事の品を見たいと願う理由も同じで、美しさとはつまり、心の汚れを落とすためにある。それは、暮らしのためにある。

藤原:

考えさせられる言葉ですね。

松浦:

これからの社会では、疲れているとか心が汚れていくという感覚が、より強くなると僕は思っています。だからこそ、何か美しいもの、美しい場所、美しい景色なのか、具体的には分かりませんが、そういった、心の汚れを落とすことができる「美しさ」があることも、これからの暮らしの場に求められることなのかなと思います。

藤原:

おそらく建築家が住宅を作っている時には、空間そのものが、美しい庭のような存在であって欲しいと思っていると思います。でもそれが本質的なアプローチとして間違っていないかを毎回確認しないと、いま松浦さんがおっしゃったような庭性は、かえって失われることもある。

松浦:

小さな石庭でも無限の広がりを感じることができるように、自分の心が洗われるような美しい場所は、広くなくても豪華でなくても構わない。むしろ、記号化されたような大きな吹抜けや大きな窓なんて、なくてもいいんです。それより、暮らしていくためのもっと切実な必要事項のひとつとして、何か美しいものになる可能性のあることを、建築家と一緒に考えていけるといいと思います。

藤原:

以前、オランダ人のランドスケープデザイナーを神戸にお連れして、すき焼きを一緒に食べたことがあります。その店では、お盆にお肉から野菜から全部が盛られて出てくるのですが、彼女はそれを見て、なんて素敵な庭なの!と言うんです。「今回の旅で見た、一番素敵な庭だ」と。その盛りつけには、確かな美学がありました。そういう美学やある種の哲学に触れた瞬間に、人は、生きている、と感じることができるように思います。

松浦:

素敵ですね。まさに、そういう美学や哲学がある住宅というのは、自分に問いかけてきてくれると思うんです。豊かな暮らしとは何か、素敵な暮らし方ってどういうものなのだろう、と。その問いに応えていくことが、「住む」ということになるのだと思います。

工夫と修復なくして暮らしの醍醐味はない

藤原:

住宅から少し離れたことでも良いのですが、松浦さんが考える「これからの暮らし」にとって大事だと思っていることはどのようなことでしょうか?

松浦:

ひとつは、工夫をすること。今はあらゆることが便利で、さまざまなものがすぐ手に入るので、何かに困って工夫をすることが少なくなっています。でも、工夫ができなくなるのは人として危険なことだと思いますし、さまざまなものがあるからこそ、「ない」ことに対していかに工夫をするのかが、これからの暮らしの豊かさや楽しみになるのと思います。

藤原:

工夫には、たくさんの発見も伴いますよね。

松浦:

もうひとつは、修復です。いろんなことが便利で手に入りやすく、工夫を求められない今は、何かが壊れたり、不便さを感じると、すぐに取り替えてしまいます。そうではなく、直す。「修復」をする。人間関係であっても物であっても、何でも必ず、壊れます。時が経てば、劣化するのが当然なんです。そうなった時に「修復」をすることで人とも物とも、深く繋がれる。それこそが、暮しの味わいであったり、喜びであったりするのではないかと思います。「修復ができる」という前提が常に自分の身の回りにあるのは、生きていくうえでの、安心感にも繋がります。

対談風景。

藤原:

家も同じですよね。京都の街並みを見ていて感動するのは、長い年月、そこで暮らす人びとが修復を繰り返しながら街をつくってきたからであり、直しながら、関わり続けながら使い続けてきた関係性が伝わってくるからではないでしょうか。

松浦:

壊れないものなんて、怖いですよ。生きている感じがしない。僕は住宅も時と共に生きているものだと思うので、壊れた時に、自分で触ることができ、修復ができるというのが、住宅のあるべき姿だと思っています。

藤原:

僕はいま3人家族で、古いマンションの一室を、まさに、工夫をしながら、あちこち直しながら、自分たち家族にとって快適なように、ちょっとずつ変えて住んでいます。そのことで、暮らしの醍醐味を実感している部分もあって、工夫も修復も非常に共感できるテーマです。

手が行き届くということの豊かさの再考

松浦:

僕は子どもの頃、姉がひとりの4人家族で、6畳の和室と2畳の板の間のキッチンという、長屋みたいなアパートに住んでいました。お風呂はなくて銭湯へ行き、寝る時は家族が本当に川の字になって寝るんです。朝になると、布団を上げてちゃぶ台を出し、ご飯を食べる。食べ終えたら片付けて、勉強もそこでする。今思うとびっくりするくらい狭いのですが、不自由や不便を感じたことはなかった。友達の家に行くと大きくてびっくりするんですけど、じゃあ自分の暮らしているアパートが嫌かというと、そういう気持ちも全くありませんでした。今にして見れば、なんて貧しいんだろう、という話しになるのですが、僕が貧しさを感じたことがなかった理由のひとつは、母親が、毎日、家の窓ガラスを磨いていたんです。

藤原:

窓ガラス、ですか。

松浦:

はい。周りに立派な家はいくらでもあるけど、僕は子どもの頃、自分の家の窓がいちばんきれいだと思っていたし、それがとても、誇らしかった。母親が窓をいつもピカピカにしているということが、僕にとっての、住宅の原体験であり、嬉しかったことなんです。家の何を誇りと思えるか。喜びをどこに見つけられるか。そういうことも「これからの暮らし」や「これからの住宅」という時に、忘れてはいけないことのような気がします。

藤原:

結局、きちんと「手が行き届く」ことが、一番豊かなことですよね。今は、行き届かないことばかりです。仕事も沢山あるし、人間関係も複雑だし、やらなきゃいけないことはどんどん増えていく。その全てを考えるなんて、到底無理なのだけれど、きちっと自分の暮しの場には手が行き届いている、というのは、生きていく上での基盤になる。

松浦:

愛情不足だらけなんです。家の窓を磨いていないというのは、住居に対する愛情不足の現れですから。そういう愛情不足に気が付いて、自分のちょっとした行動で埋めていくというのが、暮らしを整えるということなんだろうと、僕は思っています。

藤原:

先ほど、「空間」と「場所」という話しをしましたが、もしかすると手が行き届いていて、愛情が込められた家というのは、暮らしていく人にとっての「場所」になるということかもしれません。身体との関係性が発生することで自分の価値観や愛情の記憶が培われていくのだと、今お話しを伺っていて思いました。それは例えば、お寺を訪ね毎日雑巾掛けがされている縁側に立った瞬間に感じる何か。あの感覚と同じに思います。お寺が特別な場であると感じられるのは、すべてに手が行き届いていることが伝わってくるからだと思います。

松浦:

確かにそうですね、お寺の縁側もそうですし、僕が好きな庭を今、思い返してみても、気持ちがいいなと思う場所は、どこを見ても、愛情が行き渡っている場所です。だからこそ、行きたくなるし、そこに居たくなる。結局、人の手が行き届いているということが、美しさを生むんですね。

藤原:

こんな禅問答があります。修行で掃除をさせられるんですが、弟子は、お師匠さんから「毎朝、決められた時間の中で、寺中をきれいにしなさい」と言われる。でもそれは、物理的には不可能なんです。寺の隅から隅までを時間内に拭き終えるのは、どんなに急いだとしても間に合わない。ではどうすればいいのか。それは寺中の気配をきちんと観察して、汚れているところだけを時間内に丁寧に磨くのだ、ということなんです。僕が関心したのは、弟子の気がきちんと全体に張っているか、自分のやることに意識をもっているかどうかを、お師匠さんは弟子の振る舞いや空間の状態から知覚し、判断できる、ということなんです。それは日本の庭や空間に対する感性のひとつの到達点だと思います。言うなれば、人の「意識の手」みたいなものを、お互いで認識できてしまうのですから。

松浦:

ホテルオークラには、館内の電球が切れていないか、全ての場所を毎日見て回る人がいると聞きました。今の電球はLEDですし、そんなに頻繁に切れるわけはありません。それでも毎日必ず見に行くという人がいて、それだけちゃんと「気を張って見ている」ことで、人をもてなす空気感やその場の快適さというものが担保されている。そういう目の行き届き方、手の行き届き方っていうのは、本当に素晴らしいなと思います。

藤原:

愛情をもって手間をかける。関わる。それが実は住むことの一番の醍醐味で、自分の暮らしのスケールを広げてくれることなんですよね。愛情を注いで、関わり続けていく住宅をつくれるか。それを「これからの住宅」を考える時も、忘れないでいたいと思います。

(2017年5月23日、文責:岡野民)

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公開日:2018年01月31日