「建築とまちのぐるぐる資本論」論考2

共同体をベースにした建築とまち、経済モデルを構想する

松村淳(社会学者)

私たちはどのような時代を生きているのか

最近、シェアやコミュニティ、コモンズといった言葉をよく目にするようになった。私のまわりを見渡しても、シェアハウスに住んでいる友人はひとりやふたりではない。車はカーシェアリングサービスで十分だから一生所有する予定もないとうそぶく学生もいる。これらの現象は、若者を中心に日本人が経済的に貧しくなった証左であるとも言える。確かに、各種統計データを見てもそれは疑いようがない事実だ。しかし、シェアハウスもカーシェアリングも決して安さを売りにしたサービスではないことを考えると、シェアリングエコノミーの隆盛を可処分所得の減少だけに帰責させるのは短絡的であると言わざるを得ない。
シェアすることしか選択肢が残されていないから仕方なくシェアを選ぶというよりは、積極的にシェアを選択している、と考えた方が良さそうだ。だとすれば、とりわけ30代以下の若い世代に何らかの心理的な地殻変動が起きていることは明らかだろう。とはいえ、そうした若い世代の心理的地殻変動について詳細に論じる紙幅はないので、膨大に出版されている関連書籍を適宜ご参照いただきたい。
本稿でまず検討したいのは、こうした動向を新しいタイプの資本主義の萌芽として考えて良いのか、ということである。それについて検討するために後期近代論というマクロな視点から今の時代を俯瞰してみよう。
クロノロジカルに定義すれば工業化社会までを前期近代、そして情報化社会、高度消費社会と言われる時代を後期近代と呼ぶことができる。当然、私たちも後期近代という時代を生きていることになる。
イギリスの社会学者で、ブレア政権のブレーンを努めたアンソニー・ギデンズは後期近代社会を駆動させる巨大な力として、時間と空間の分離、制度的再帰性と並んで脱埋め込みメカニズムを挙げている。脱埋め込みとは耳慣れない言葉であるが、どのような概念なのだろうか。それは「社会的活動をローカルな文脈から『引き離し』、社会関係を時空間の広大な隔たりを超えて再組織していく」(Giddens 1993=1997: 73)ものであるという。
もう少しわかりやすくするために、ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスの唱えた〈システム〉と〈生活世界〉という概念を使ってパラフレーズしてみよう。システムとは国家や市場といった人間がつくり出した合理化のための仕組みであり、貨幣や権力といった行為を制御するためのメディアが活用される。一方の生活世界とは、伝統的共同体に見られるような親密性と心理的安全性に裏打ちされたお互いの顔の見える(顕名的)世界であり、当人同士のコミュニケーション(話し合い)による合意が目指される社会である。脱埋め込みとは、システムによって生活世界が侵食されていく過程であると言えるだろう。
興味深いのは、脱埋込みが再埋め込みを伴いながら進行していく、という点である。再埋め込みとは「脱埋め込みを達成した社会関係が(いかにローカルな、あるいは一時的なかたちのものであっても)時間的、空間的に限定された状況のなかで、再度充当されたり、作り直されていく」(Giddens 1993=1997: 102)ための諸活動である。
脱埋め込みの進行によって、生活世界は既に失われており、残っているかのように見える生活世界は、システムによってあえて残されているのである。

共同体なき私たち

上記のような議論によれば、資本主義というシステムは全域化しており、もはやシステムに外部はなく、オルタナティブもない。生活世界はシステムが再帰的に残したものだ。それゆえに、あえて残された生活世界を橋頭堡として、ポスト資本主義社会の開拓や構想を展望するのは錯誤的であると言わざるを得ない。
私たちができることは、全域化したシステム=資本主義社会という状況を受け入れつつ、生活世界内部の充足を図っていくことである。しかし、生活世界の基盤たる伝統的共同体は空洞化が進んでいる。戦後の高度経済成長時代を経るなかで、地域の「生活─労働」を基盤とする連帯が掘り崩されていき、非連帯化・無縁化された人々が増加していった。さらに近年は、自治会や町内会、子ども会が次々と解散し、地縁社会やコミュニティは解体寸前である。少子高齢化による人口減といった社会的要因もあり、伝統的共同体をそのまま復活させることはもはや不可能である。
しかし、そうした伝統的共同体によって提供されてきたもの、すなわち心理的安全感や、親密感、自己充足感といったものを供給してくれる生活世界の機能的等価物(広い意味での共同体と言い換えても良いだろう)を構築することは可能ではないか。それは現に各地に現れ始めているが、具体的な事例については次章で述べていきたい。
ただし、生活世界の機能的等価物≒共同体を構築していくには、発想の大きな転換が必要であるという点については注意が必要だ。まずは伝統的共同体への執着は捨て去る方が良いだろう。地方に行けばまだ残っている、と安易に考えるのもやめた方が良い。そうした場所の多くは高齢化が著しく進み、早晩消滅してしまう運命にある。したがって、伝統的共同体が供給してきた様々な資源を代替的に供給してくれる存在を、現役世代が打ち立てていく必要がある。それは一過性のものではなく、持続可能な取り組みであることが望ましい。そしてその規模はかなり小さなものになるだろう。
ここで重要なことは、共同体をベースとした資本主義モデルと、共同体を食い物にした資本主義モデルを切り分けることである。後者はシェアや協働、DIYといった要素をパッケージ化したサービスを提供することで、同業他社との差別化を図っている。前者と後者を峻別するには、個々の事例を仔細に検討しなければならず、安易に決めつけることはできない。その“真贋しんがん”を見極めるためには、サービスを提供する事業者の“信念”や“思想”に着目する他はない。ともかく私たちが目指すべきは、まずは生活世界の機能的等価物≒共同体の基盤となる場所を立ち上げていくことであろう。
次章ではそのひとつの試みであるコモンズを手がかりに、考えていきたい。

共同体の基盤としてのコモンズの可能性

私が現在取り組んでいる研究テーマのひとつがコモンズである。コモンズとは古くて新しい概念であり、環境社会学や文化人類学で長く研究対象とされてきたが、本論で議論するコモンズは、そうした学問領域で研究されてきた薪炭を調達するための森や、漁場としての海や河川、湖沼といったものではなく、まちなかの気軽にくつろげる居場所のようなものである。本稿におけるコモンズの定義は、私的な空間を共的きょうてきな用途にアップデートしたもの、というシンプルなものだ。今や、すっかり人口に膾炙かいしゃしているレイ・オルデンバーグの言う「サードプレイス」にも通じ、コモンズはメンバーシップ的で場所に対する参加の度合いが高い。
コモンズをめぐる私のそもそもの問題関心は、未だnLDKの呪縛を解くことができない住宅という私的空間の限界と、使用用途や機会が限られ、使いづらくなっている公園や駅前広場など公共空間の窮屈さといった挟撃状況を突破するために弁証法的に導き出された第三項としての可能性の検討であった。それゆえ、直接それが生活世界の機能的等価物≒共同体の構築に資するものかどうか、という問題関心ではなかった。自宅の一部を開放したり、仲間と共同で場所を借りたり、個人が経営するショップや飲食店の空間を活用して、自分と仲間が居心地の良い場所をつくり出すことは、“ノイジー・マイノリティ”の声を過度に忖度するあまり禁止事項が増え、使いづらくなった公共空間の機能不全を乗り越えるアドホックな試みとしては十分に機能するのではないかと考えたのである。
私には関西近郊に気軽に行けるコモンズが数ヶ所ある。それは住み開きを行う住宅であったり、各種ショップや飲食店であったり、オフィスの一角であったり、ギャラリーであったり、あるいは私設の児童図書館であったりする。これらの場所に行けば、気の置けない仲間と語らい、リラックスした時間を過ごせるのである。コモンズは一時的な気晴らしの場として、あるいは公共空間の機能不全を乗り越える(応急処置的な)試みとしては極めて有用であるが、生活世界の機能的等価物として、共同体の基盤としての役割はまだ十分に果たせていないのが現状だ。
近年は、こうした状況から一歩踏み出して生活世界の機能的等価物を構築するための持続的な試みとして取り組まれている事例をいくつか看取するようになった。例えば、神戸市兵庫区で西村組によって展開されている「バイソン」はその好例だろう。バイソンという名称は、立地している兵庫区梅元町にある「村」という意味で、伝統的共同体=村をモデルにした集落である。高台にある廃墟になった一街区を西村組代表の“廃屋建築家”西村周治が2019年から2020年までの間に約2,000万円を投じて買いつなぎ、コツコツと修復を続けている。神戸の繁華街三宮へは最寄りのバス停からバスを使えば20分程度で行ける場所に位置しているが、それでもここが廃墟になっていたのは、六甲山麓の急勾配の地形に位置していることや、道も狭く自動車が使えないため、幹線道路から急勾配の坂道を歩くことを強いられるアクセスの悪さといった諸条件が嫌われたからである。

Fig 1:バイソンのメインストリート。幹線道路から急峻な坂道と狭い路地を10分ほど歩くと到達する。車は通れない幅の通路の両サイドに西村氏が購入した8軒の元空き家が並び、家賃ゼロ円で住めるシェアハウスや茶室、ギャラリーなどに改修された。写真:松村淳

西村らは、こうした理由から長年放置され、屋根が落ちて空が垣間見えるような廃屋を格安で買い、廃材を利活用しながら人海戦術で長い期間をかけて修理し、住宅だけでなくアーティストの工房やギャラリー、格安で借りられるシェアハウスやシェアオフィスなど様々な機能をもった複合空間として再生させた。西村は、ここを基本的に誰でも自由に使ってほしいと言う。今後は誰でも使えるトイレや浴場もつくる計画もあるそうだ。西村は私財を投じてバイソンの整備を行っているが、一見、酔狂な挑戦と見られがちな彼の活動を突き動かすのは、土地の私有に対する強烈な違和感である。空気や水と同じように、土地も人類の共有財産であるという考えをもつ西村は、土地がモノのように売り買いされたり、投機の対象となったりしていることを嘆く。土地は共有財であり使いたい人が自由に使えるようにするのがあるべき姿であると考える西村にとってバイソンは理想を体現するための壮大な実験場でもある。
バイソンには、噂を聞きつけて見学に来る者や西村の哲学に賛同した人々がひっきりなしに訪れる。ひときわ多くの人々が訪れるのは、時折開催されるイベント時である。イベントは各種マーケットから、演奏会、展覧会、トークショーにいたるまで多岐にわたり、大勢の人々が訪れる。また、西村が率いる建築集団「西村組」で働くことも可能だ。西村組には、プロの建築職人だけではなく、無職やフリーターの者、大学生や外国人など様々な人々が寄り集まっている。このように多くの人々が集う背景にはSNSの存在がある。バイソンも専用のSNSのアカウントをもち、常に情報を発信している。SNSアカウントのフォロワーを潜在的なバイソンのメンバーと見なすこともできるだろう。
このようにバイソンは、住む、食べる、働く、表現する、訪れる、交流する、交換するといった伝統的共同体がもっていた機能をある程度備えていることがわかる。こうした実践を通じて、バイソンを訪れる者はモノや食事、あるいは承認を手に入れることもできる。つまりバイソンは生活世界の機能的等価物、ベースとしての共同体となり得る可能性をもつ場所なのである。
しかし、こうした場所を整えるためにはコストがかかる。解体された分譲マンションのモデルルームの廃材などをうまく活用することで建設コストは抑えているが、傷んだ躯体のリニューアルや水回りの総入れ替えなどは費用がかさむ工事である。こうした資金は、西村組が他に所有している収益物件からの利益や、行政からの補助金を活用することで調達している。つまり生活世界の機能的等価物のインフラを整えるために、システムを利用するという状況である。こうした状況の是非については、過渡期的状況としてペンディングされているが、いずれ正面から向き合う必要がある課題であろう。

Fig 2:地域住民で共有される「バイソン・ギャラリー」の屋外キッチン。二世帯住宅だった廃屋を解体し、1階を展示スペース、2階をアーティスト・イン・レジデンスとして改修した。写真:岡田和幸

Fig 3:アーティストレジデンス「バイソンAIR」。写真:岡田和幸

コモンズは自分でつくる

特集「建築とまちのぐるぐる資本論」のディレクター・連勇太朗は「『ぐるぐる資本論』の経済モデルはDIY可能であり、どんな人でもどんな場所でも自分の力で創造できるという着想から出発している」と述べている。そして、それは「経済モデルそのものを変革したりデザインしたりすることに挑戦しなければ、私たちの社会を真に支える空間、地域、環境、まちを実現することはできないのではないか」という仮説に基づいていると言う。「私たちの社会を真に支える」ものとは、心理的安全感や幸福感を供給してくれる存在であり、かけがえのない自分を承認してくれる存在だと私は解釈した。そうした存在を私たちは共同体と呼んできたのではなかったか。このような経済モデルが待望されるのは、端的に言えば、現在の資本主義社会がヒューマンスケールを大きく逸脱しているからであり、人々に共同体に頼らなくても生きていける(とされる)「自立した強い個人」になることを強いる無理な現状があるからだろう。
「建築とまちのぐるぐる資本論」の要諦が共同体にあると言えるならば、私たちは、共同体をベースにしたヒューマンスケールの経済モデルと、それにふさわしい住宅(建築)やまちのあり方を構想していくことになるだろう。しかし、ここまで見てきたようにベースとなる共同体がもはや希少な資源となってしまっていることが大きな問題である。地縁・血縁をベースとした伝統的共同体はもはや空洞化しており、その再興は人口減少時代にあっては現実的ではない。したがって、伝統的共同体に依存しないかたちで、共同体を構築していく必要がある。そこで本論ではコモンズという取り組みについて検討した。コモンズは伝統的共同体を引き継ぐものでもなく、行政など公共セクターに依存するものでもない。さらに業者が提供するサービスを購入することで実現できるものでもない。コモンズは個人が自らの力で立ち上げ、その取り組みに賛同する有志が集い、メンバーが主体的に運営していく場所だ。こうしたコモンズが今、同時多発的に、多種多様なバリエーションをもって全国に出現しつつある。ただ、既に見たように、コモンズは機能不全を起こしている公共空間以上、共同体未満の位置づけであり、発展途上の段階にある。
しかし、今後はそこがハブとなり、より多くの人々が巻き込まれることで生活世界の機能的等価物≒共同体となり得る可能性は十分にある。これは壮大な社会実験である。様々な挑戦がなされ、失敗したり成功したりしながら、ノウハウが蓄積されていくことだろう。
最後に、改めて強調したいことは、コモンズは誰でも立ち上げることができる、という点である。月に一度の自宅の住み開きでも良いし、所有する空き家を使ったイベントを開催してみるのも良いだろう。自分でやるのはハードルが高いと感じる人は、身近なコモンズに集い、参加してみることも立派な貢献である。重要なことはDIY精神をもち、とにかく自分でやってみること、である。

参考文献
Beck, Ulrich, Giddens, Anthony & Lash, Scott, 1994, Reflexive Modernization: Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order, Polity Press.
=W・ベック、A・ギデンズ、S・ラッシュ著、松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化─近現代における政治,伝統,美的原理』而立書房、1997年。
Habermas, J., 1981, Theorie des kommunikativen Handelns. 2Bde. Frankfurt am Main: Suhrkamp Verlag.
=ユルゲン・ハーバーマス著、河上倫逸他訳『コミュニケイション的行為の理論』(上中下)未來社、1985〜1987年。
Oldenburg, Ray, 1991, The Great Good Place. New York: Marlowe & Company.
=レイ・オルデンバーグ著、忠平美幸訳『サードプレイス──コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』みすず書房、2013年。
中澤秀雄「高度成長期における地域生活─労働連帯の浸食─農民・労働運動の消滅と焼畑型ジェントリフィケーション」『学術の動向』2018年9月号、pp.40─46。

サムネイル画像イラスト:荒牧悠

松村淳(社会学者)

香川県高松市牟礼町生まれ。1998年関西学院大学社会学部卒業。2004年京都造形芸術大学芸術学部建築デザインコース卒業。設計事務所勤務等を経て、2009年関西学院大学大学院社会学研究科入学。2014年関西学院大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(社会学)、二級建築士、専門社会調査士。
専攻は労働社会学、都市社会学、地域社会学。近年は建築社会学の可能性について日々取り組んでいる。著書に『建築家として生きる──職業としての建築家の社会学』(晃洋書房、2021年)、『建築家の解体』(筑摩書房、2022年)、『愛されるコモンズを生きる──街場の建築家の挑戦』(晃洋書房、2023年)がある。

公開日:2023年08月31日