循環する社会、変わる暮らし

自分たちの力で、自分たちの社会を変えていく

石塚理華(一般社団法人公共とデザイン)

はじめに

歴史的に見ても、テクノロジーや経済の発展で世界は大きな進歩を遂げていることは明らかである一方、気候危機、貧困問題、急速な人口増加、メンタルヘルスなどの大きな変化や問題が顕在化され、深刻な社会の不均衡や不平等が引き起こされている。また、近年のウェルビーイングへの関心も高まっていくなかで、日々の生活において自分の未来や人生をコントロールできていない、つまり「生きる手触り感」を満足に得られていないと感じている人も少なからずいる。

そんな状況のなか、少しでもわたしたちが「良く生きる」にはどうすればよいのだろう。筆者が共同代表を務める「一般社団法人公共とデザイン」(以下「公共とデザイン」)ではそのひとつの方法として、ソーシャルイノベーションの創出を目指し、人々の活動を可能にする土台となるインフラストラクチャーの構築、ひいてはそこで生まれる人々の活動が連なり立ち現れる流動的な環境を生みだすための取り組みを行おうとしている。

先は見えないし、ひとつの正しい答えはない、筆者も悩みながら実践しており、そのなかで言葉を選んでいる。本稿も同様に最終的な結論や固まった強い言説としてではなく、「公共とデザイン」の活動の現在地として読んでもらえると嬉しい。

わたしたちの生活をより良くするのは誰か?

冒頭で挙げたようなわたしたちが直面しなければならない複雑で大きな問題は、一体誰が対処するのだろうか。どこかで誰かが、あるいは国や自治体が解決してくれるのだろうか。

政治学者の宇野重規さんは「自分たちの力で、自分たちの社会を変えていくことが民主主義の本質のはずである」と述べている★1。また、アメリカの哲学者ジョン・デューイは、制度によってわたしたちが作られるのではなく、わたしたちの実践や行動が表出したものが制度や、社会を取り巻く習慣である、と述べている★2。

したがって「わたしたちの生活をより良くするのは誰か?」に対する回答は、わたしやあなたの行動である。〈わたし〉の行動が〈あなた〉の生活を変え、〈わたしたち〉の習慣を変え、社会が変わる。念の為補足するが、これは新自由主義的な自己責任論に帰結させたいわけではない、むしろ真逆の主張である。

とはいうものの、自分の生活を自分で変えられるという実感を持つのは、実際のところ難しい。国や政府が制度やルールを、企業が消費のための価値を、世間が当たり前や空気を押し付けているように感じている人は少なくない。1年くらい前に、筆者が大学院生2人に「今、あなたたちは日本の未来に希望を感じているか」と尋ねたら「あるわけないです」と笑いながら即答された。そんな状況下では、自分から湧き上がる「こうしてみたい」「こう変えてみたら良いだろう」の種をふくらませ、日々の活動や習慣を変容させていくのはなかなか困難である。

これに対峙するための方法のひとつとして「ソーシャルイノベーション」という考え方が注目を浴びている。「公共とデザイン」はソーシャルイノベーション・スタジオを名乗り、日々活動している。

ソーシャルイノベーションとは、他者との出逢いからはじまる

「ソーシャルイノベーション」の言葉自体は以前から使われてきたが、イギリスの学者ジェフ・マルガンなどが大きく影響を与えている。言葉は多義的であるが、ソーシャルイノベーションとは「目的も手段も社会的であるイノベーション」★3という定義がわかりやすい。そして、ソーシャル・イノベーション分野での研究を踏まえ、それをデザイン文脈で発展させたイタリアのデザイン学者エツィオ・マンズィーニの考え方に依拠しつつ、「公共とデザイン」ではソーシャルイノベーションを「状況の当事者である〈わたし〉と多様な他者が新しい関係を生み出しながら、当たり前の価値観や価値観を問い直し、社会システムの変容を導く創作的活動」であるとしている。

「ソーシャルイノベーション」と聞くと、IT系の企業や政府が提唱する何かよくわからないふわっとした「イノベーション」のイメージや、福祉や介護・貧困などに対する社会包摂系プロジェクトのイメージが強いかもしれない(ただし取り組む分野として後者を含むことは多々ある)。しかし、それは決して彼らだけの言葉ではなくて、わたしたちが「より良く生きる」ために関係する言葉でもある。

ソーシャルイノベーションで取り組むようなジェンダー、社会的孤立、高齢化、気候危機……といった問題は、「厄介な問題」と呼ばれており、自分たちの身近ですでに表層化している部分があるにもかかわらず、社会的な構造や仕組みが複雑に入り組み合っているため、単一セクターだけで取り組むことが難しい。そこではじめに、それぞれの立場からの視点を交わし、異なる背景をもったステークホルダーと共に手を取り合うこと、つまり、共通のパーパスを持つことが重要である。

公共とデザイン

提供=公共とデザイン

加えて、取り巻く状況が変化し続ける「厄介な問題」には正解の基準がないため、実践と学習を反復し、その時の状況においてより良い方法を模索したり、対応を変化させたりすることのできる体制づくりが必要である。継続的に向き合っていくためには、「××株式会社の課長」「〇〇市の行政職員」といった社会的な役割だけではなく、変化の指針として〈わたし〉個人が何を望ましいと思うのか・どう感じるのかをもとにしながら、組織・コミュニティのパーパスに接続していく必要がある。

公共とデザイン

提供=公共とデザイン

このように、他者との共創を育み、〈わたし〉の想いの輪郭を描くためには、自分とは異なる他者との出逢いが必要となってくる。だから、ソーシャルイノベーションは他者との出逢いがすべての土台となる。ただし、あなたにも身に覚えがあるかもしれないが、異なる他者と対話することは難しい。例えば、ヒップホッパーの若者・地元のおばあちゃん・機械学習エンジニアの3者が同じ場にいたとする。想像に容易いかもしれないが、同じ日本語を使っていても、お互い「話が通じないな……」と思うだろう。文化も思考も価値観も異なる他者と関わり合い生活を営むことは、正直面倒くさいことも多いし、時には傷つくかもしれない。

しかし、他者と出逢い、対話をし、互いに知り合うことで、自分の「あったかもしれない可能性」や「今後あるかもしれない可能性」を想像することができる。可能性が広がることで、相手に共感できるようになったり、「もっとこうしてみたい」という自分の衝動や望ましさを感じることができる。そこではじめて、自分の枠組みを超えて、社会に横たわる当たり前や価値観を問い直し、社会の仕組みを変えていくことができるようになる。だから、他者と出逢うことでしか物語が始まらない。先程の例を持ち出すのであれば、おばあちゃんが韻を踏めるようになったり、ヒップホッパーが“AI”を使いこなしリリックの幅を広げたり、機械学習エンジニアが介護現場におけるデータ解析に興味を持ったりするかもしれない。

ただし、出逢いや対話は自然発生的には起こらない。近所のスーパー、商業施設、市役所、河原……。普段の生活の場所を共有していたとしても、対話はほとんど発生しえないし、まして知り合うこともない。

そこで、専門家のデザイナーは創造的なコミュニティと実践的なプロジェクトを立ち上げるための土台となるインフラストラクチャを用意する必要がある。直接的に介入できるのは、結果としてにじみ出てくる文化や関係性ではない。マンズィーニはインフラストラクチャを織りなす要素として、誰もが等しい権利と機会を持つことを認める民主的なルール、コラボレーションの前提になる信頼や価値をわかちあう社会的なコモンズ、コミュニティが公私混同の機能として使用できる柔軟な物理空間やデジタルプラットフォームといったものをとりあげている★4。

これらの要素を構築し、それぞれに立ち上がったインフラストラクチャが絡まり合うことで、誰もが自分の生活変化を自ら生み出す“デザイナー”となり、自分たちの生活の変化を生み出していくための流動的な環境が立ち現れる。このような環境のなかで、ソーシャルイノベーションが起こったり、人々は生活を自分の手のなかに取り戻していき、小さな活動を積み重ねた先で、制度やルールの輪郭を変えていくこともできる。そうしてはじめて、新しい民主主義のかたちを実現できるかもしれない。

終わりではなく、始まりをデザインする

「公共とデザイン」では組織ミッションとして「公共の再編を通じて私の内なる光を灯す」を掲げている。公共とは、個人と個人が重なり合い立ち上がるもの。この重なり合いのなかで、異なる他者との関わり合いを通じて〈わたし〉の未知なる可能性を知り、互いの望ましさを分かち合いながら共に社会をつくりあげていくような環境を生み出す。

公共とデザイン

「公共とデザイン」のミッション・ビジョン
提供=公共とデザイン

筆者らの活動は始まったばかりで、まだまだすべてが一歩目である。

公共とデザイン

Shibuya Scramble Lab
提供=公共とデザイン

渋谷区と共に行っている、プラットフォームとしての行政府(Government as Platform)を目指すイノベーションラボ「Shibuya Scramble Lab」では、行政側が住民や企業と手を取り合うことで、区が基本構想として掲げている「ちがいを ちからに 変える街。渋谷区」の実現を阻む、現状の当たり前や価値観を変化させるにはどうしたらいいのか、という問いに取り組んでいる。ラボプロジェクト自体を4課合同のチーム編成で行ったり、住民や外の組織との共創を試みたりしている。ひとつひとつは劇的に状況が変わるわかりやすい取り組みではないが、総体としてのアウトカムが大きな変化をもたらす可能性がある。さまざまなスピードの取り組みを小さく積み重ねながら、住民や社会課題の当事者たちと共に社会システムを変化させていくことができるかもしれない土壌づくりを、ラボメンバーである行政職員達と試行錯誤している。

公共とデザイン

職員とのワークショップ
提供=公共とデザイン

一方、日本財団の助成で行っている、産まみ(む)めもプロジェクトは、筆者ら個人としてのもやもやをスタートにして、社会の変化へつなげていく試みである。2022年度は、不妊治療や特別養子縁組など、産むことに対して深く向き合った経験を持つ人・当事者団体・NPO・不妊治療専門医・妊活支援等の産むにまつわるサービスを提供している企業などへのリサーチを行った。

公共とデザイン

リサーチ・分析作業の様子
提供=公共とデザイン

そして、リサーチを土台にして一連のワークショップを行った。当事者・一般公募による参加者・アーティストの3者を交えたワークショップでは、異なる背景を持つ参加者と対話しながら、各々の葛藤に向き合いやすいよう、適宜プロセスを編み上げた。

公共とデザイン

プロジェクト参加者とのワークショップ
撮影=白澤奈生子

例えば、リサーチを経て作成した「産む」の当たり前を再想像する演劇ツールキット「産magination」は、参加者に即興でシーンを演じてもらうことで、「産む」に関して自身が体験したことのない状況でどうふるまうのか、そこにどんな前提が潜んでいるのか、同じ出来事を通して他の人はどう感じるのかを考えることができる。

公共とデザイン

「産magination」
企画・制作=公共とデザイン・白澤奈生子

また、5組のアーティストが当事者・一般公募による参加者との共同のプロセスを経て生み出した作品と、本プロジェクトのリサーチ・プロセスの展示を開催する。(2023年3月18日[土]〜3月23日[木]、渋谷OZ Studio。詳細はこちら)。

公共とデザイン

産まみ(む)めも
VI・グラフィック制作=畑ユリエ

展示のなかでは、筆者らが1年間のプロジェクトを通して立てた問い「産むひとも、産まないひとも、産めないひとも。産みたいひとも、産もうか迷っているひとも。それぞれの産むへの向きあい方を受けとめられる社会って、どんな社会だろう?」に対して、「公共とデザイン」なりの望ましい社会のあり方を描いている。

そして今後はこれらの望ましさに向け、当事者・関連NPO・企業・行政とともにオープンイノベーションのための場をひらき、当事者・生活者視点の眼差しを活動や政策・ルールに反映させながら、オープンで持続可能な取り組みをローカル起点からで生み出していくような活動を行っていきたいと考えている。

「公共とデザイン」で取り組む一連のプロジェクトは、はじめの一歩の歩み出し方・ステークホルダーとの組み方・取り組むテーマの選択など含め、プロセスや目的はそれぞれ異なる。しかし、メタ的な視点では、人々の“デザイン能力”を可能にしていくためのインフラストラクチャを構築し、ソーシャルイノベーションが生まれる可能性を高めていく、という点で共通している。

公共も社会も直接的に“デザイン”することなんて到底不可能だし、社会課題は“デザインで解決”はできない。そもそも課題自体がダイナミックに変化する社会のなかで、“解決”自体がすでにフィクションのようなものである、と筆者自身は考えている。ときには、あるクリエーションが、他の人にとっては課題となる側面を持っていたり、違う課題を引き起こしたり、別のタイミングでは受け入れられないものとして人々の認識が変わってしまったりすることもある。

けれども、社会で起こる出来事を紐解き、そこに幾重にも流れる力の方向を理解すること。人々が出逢い直し、関係性を育んでいく可能性が高まるように作用する環境をつくること。試行錯誤のなかで、時にはその環境に干渉していくこと。現在のように変化し続ける社会においては、絶対的で固定された「最終提案」ではなく、根本を貫く問いを持ち、流動的で一時的な解答を繰り返し続ける状態が必要なのではないだろうか。そしてまた、その実践のサイクルに影響され、状況も問いも変化し続ける。

人々の集合体やそこで生まれる活動は、有機的にダイナミックに変化し、その行く先は予測不可能である。「公共とデザイン」での活動は、土を耕し、緩やかな流れに身を委ね、庭の環境を整えていく庭師のように、終わりではなく始まりをデザインすることである、とも言える。しかし、繰り返すが、筆者らも悩みながら実践している。この考えも筆者の答えの最終的な到達点ではなく、現在のタイムスタンプである。

大きな波のなかで、変化を求めてひたむきに取り組む

筆者がかつて就職活動をしていた時の面接で、人生においてやりたいことを質問された。「生活のインフラストラクチャをデザインしたいんです」と当時の筆者は答えたが、「それはどういう意味ですか? サービスデザインとかコミュニティデザインとかは何が違うのですか?」と問われ、違うとは伝えつつ、(その場しのぎでなにかを言った気はするが)しっくりくる返答ができずもやもやしたのを覚えている。まだその頃には、自分のなかでぼんやりと存在していた概念をうまく言語化できていなかったうえ、デザイン分野においてそのような領域が萌芽していることを知らなかったし、それは日本でもあまり知られていなかった。

本稿で書いているようなテーマ、ソーシャルイノベーションと民主主義についての本を現在執筆中で、順調にいけば2023年の夏頃の販売を予定している。「公共とデザイン」で取り組んでいるような領域は、複雑性を保ちながら不確実性に対峙するレジリエントな環境を編み上げていくような活動であり、一言でシンプルには伝えにくく、デザイン分野においては引き続きマイノリティである。

けれども、かつての自分がうまく言語化できなかったことを、「公共とデザイン」での活動や本の執筆を通して、巨人の肩の上に乗りながら、まだまだ稚拙ではあるが、ようやく自分の言葉として紡ぎあげることができるようになってきたように思う。3人で「公共とデザイン」の活動を起こし、活動を通じて出逢った人たちから影響を受けて、法人も、自身も、変化し続けている。

最後に、アメリカの作家レベッカ・ソルニットの言葉を紹介してこの文章を終えたい。

希望を持つということは、未来に対して不確実であること、可能性に対して寛容であること、心の底から変化を求めてひたむきに行動することです★5。

「公共とデザイン」という法人自体も、そこでの営みも、〈わたし〉自身のもやもやと社会とをつなげ、可能性を拓いていくための小さな実践の積層である。筆者自身、“いい人”ではないし、社会にとって“いいこと”をしたいわけではない。発言や行動・選択がすべて正しいことなんてありえない。思う通りの結果にならないことも少なからずあるし、間違うこともある。

それでも、抗うことのできない大きな波に揉まれながらも、弱いひとりの人間として、実践のなかで悩みながら歩み続けていくことが、不確実な社会で生き延びていくことに対する〈わたし〉なりの応答であり、一筋の希望でもあると感じている。




★1──宇野重規『民主主義のつくり方』(筑摩書房、2013)
★2──John Dewey, “Creative Democracy: The Task Before Us”, John Dewey and the Promise of America, Progressive Education Booklet, No.14, American Education Press, 1939.
★3──Geoff Mulgan and Simon Tucker and Rushanara Ali and Ben Sanders, Social Innovation: What It Is, Why It Matters, How It Can Be Accelerated, 2007.
★4──エツィオ・マンズィーニ『日々の政治──ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』(安西洋之+八重樫文訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2020)
★5──Rebecca Solnit, Hope in the Dark: Untold Histories, Wild Possibilities, New York?: Berkeley, Calif., Nation Books, 2005.



石塚理華(いしつか・りか)

千葉大学工学部デザイン学科・同大学院卒業。大手人材サービス企業でのデザインディレクション業務を経て、共同創業した受託開発ITスタートアップで多分野の体験設計やデザイン開発に従事。2021年、〈多様なわたしたちによる新しい公共〉を目指し、企業・自治体・住民と共に社会課題へ対峙するソーシャルイノベーション・スタジオ「公共とデザイン」を設立。渋谷区との住民参加型イノベーションラボ設立支援や、〈産む〉にまつわる価値観を問い直すプロジェクトなど。

このコラムの関連キーワード

公開日:2023年03月23日