海外トイレ取材 8

北欧のトイレデザイン

浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ)

「パブリック」トイレ

冒頭で書いた通り、北欧はキャッシュレス化を進めており、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンと通貨が違う複数の国を旅行する身としてはたいへん便利であった。ただ驚いたのは、ハーマルとオスロというノルウェーの2都市で見た単独設置型のパブリック・トイレ(いわゆる公衆トイレ)が有料で、クレジットカードしか使えなかったことだ。グンナール・アスプルンドの設計で有名なストックホルム市立図書館も、図書館自体は無料だがトイレは有料であった。トイレにはメンテナンスが欠かせないし、無料だと荒らされてしまうなどの問題もある。実際、オスロの有名な広場であるYoungstorgetのパブリック・トイレは故障していることもあって、荒れ放題であった。ともかく北欧には、コンビニを含めパブリック・トイレのほとんどが無料の日本とはかなり違う文化やルールがある。大袈裟に言えば、クレジットカードを所持していることが、いわば人としての最低限のラインとして設定されている。

ハーマルの公園にあったパブリック・トイレ

ハーマルの公園にあったパブリック・トイレ。車椅子やおむつ換えスペースが用意されているが、クレジットカードがないと使用することはできない

青く発光するガラスで覆われたYoungstorgetにあるパブリック・トイレ

青く発光するガラスで覆われたYoungstorgetにあるパブリック・トイレ

トイレ内部

トイレ内部。自動ドアが故障中なこともあって内部は荒れ果てていた

ストックホルム市立図書館のトイレ

ストックホルム市立図書館のトイレ。すべて有料

キャッシュレス化が進めば、水を買うにもクレジットカードが必用になる。このままいくと、路上生活者もクレジットカードとスマートフォンを持ち、道行く人から小銭ではなく仮想通貨やポイントを受け取るようになるのかもしれない。審査をどうするか、セキュリティをどうするか、プライバシーをどう保つかなど、キャッシュレス化への移行にはまだまだ解決されていない問題も多いが、世界がかつてないほどにつながってしまった現在、それらは避けられない壁だろう。もうひとつ、ハーマルのセブン-イレブンには、朝からゲームに熱中する高齢者が集まっており、日本の未来の姿なのかもしれないなと考えさせられた。

アスプルンドの《夏の家》

最後に、個人の住宅だが、スウェーデンでたいへん興味深いトイレを訪問したので、これを紹介して本稿を閉じたい。アスプルンドの《夏の家》は、ストックホルムから車で2時間ほど行った先にある。周囲は森に囲まれており、南側だけ大きな湖がナイフの切れ目のように、差し込んでいる。開放的かつプライベートで別荘としては夢のような場所だ。《夏の家》自体の魅力については、ほかでも紹介されているので、多くは語らないが、抑えられた天井、徐々に変化する床のレベル、大きな暖炉、網戸付きで開閉する巨大な窓、そのすべてが家族で暮らすための親密な場所として、それでいて適度に距離を保てる場所として設計されており、現在の水準で見ても本当に素晴らしい。

現在は住宅本棟の地下にもトイレはあるのだが、オリジナルのトイレは外部に別棟として建てられている。トイレ棟は、本棟から湖とは反対方向に20mほど登った先にある三角形のテントのような建物で、三角形の中心に窓付きのドアが設けてある。ドアを開けると正面に大きな木製のベンチがあり、ベンチの左右には便器の蓋がついてある。ベンチに座って用を足す格好になるので、ちょうど正面に先ほどのドアから遠く湖が見える。とても贅沢なトイレだ。
しかも、窓は小さく、中は暗いので、外からは中の様子はほぼ見えない。

不思議なのは、なぜ便器が並んで2つあるのかということだった。家族同士で並んで用を足したのか、それとも子どもが小さかったから一緒にできるようにしたのか、現在のオーナーに聞いてみたが、知らないということであった。

ただ、あまりに不思議なので、その後もこの2つの便器について延々と考えているうちに、「どうしてこのトイレを不思議だと思ってしまうのか」というまったく逆の疑問が頭に浮かぶようになった。

《夏の家》の裏にある三角形のトイレ

《夏の家》の裏にある三角形のトイレ。本体よりも少し高台に位置していて、ベンチに座ると正面の窓から湖が見える

トイレ内部

トイレ内部。正面のベンチに2つの便座が並んでいる。あまりにさりげなく収まっているので、現在とは文化や価値観の違う平行世界に来たような気分にさせられる

現在、性別の隔たりは、だんだんとオープンになりつつある。冒頭のジェンダーレストイレはその現われだろうし、今回(2019年)のあいちトリエンナーレのアーティストが男女同数で選ばれていたりと、日本でも少しずつではあるが、女性の社会進出も進んでいる(もちろんかなり遅いのでそれ自体は問題だと思うが)。その速度は国や地域によってさまざまだが、基本的に、世界は多様性を尊重し、寛容でオープンな社会へと向かっている。

しかしながら、現在でもトイレだけは隠すべき場所、排泄は隠すべき行為とされている。人間は誰しも生まれてきたときは、ひとりではトイレに行けない。多くの場合、赤ちゃんの時はおむつをし、誰かに取り換えてもらわなければならない。その後、躾や教育によって、ようやくトイレに行き、ひとりで排泄することができるようになる。そして、年老いていくとまた、ひとりで排泄することが困難になり、おむつを使用したり、時には誰かの世話にならなければならなくなる。そう考えると、トイレや排泄についてぼくたちはあまりにも隠しすぎているのではないかと思うようになった。

かつては、衛生上の理由からトイレを隔離することは合理的で必要だっただろう。しかし、水洗便器が普及した現在、排泄物を経由して病気に感染することがなくなったわけではないが、以前に比べれば遥かに少ない。それ以上に、排泄を隠すこと、汚いものとして扱うことの弊害のほうが大きいのではないか。介護も排泄の問題がもっとも大きいもののひとつだ。排泄物や排泄という行為について、より社会がオープンになればずいぶんと風通しがよくなるだろう。そもそも、排泄にかかわるものはその言葉の使われ方も、排他的で差別的だ。これは現在でも許容すべきものだとはとても思えない。

排泄をオープンに語ること、そしてトイレを隠すのではなくオープンにすること。これが、これからの高齢化社会に向けて必要なことなのかもしれない。

浅子佳英(あさこ・よしひで)

1972年生まれ。建築家、デザイナー。2010年東浩紀とともにコンテクスチュアズ設立、2012年退社。作品=《gray》(2015)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=西澤徹夫)ほか。共著=『TOKYOインテリアツアー』(LIXIL出版、2016)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(鹿島出版会、2016)ほか。

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公開日:2019年05月29日