社会と住まいを考える(国内)13

荒地とみちのち

橋本健史(橋本健史建築設計事務所、403architecture [dajiba])

以下筆者撮影

神戸へ

私は2021年の春、仕事のパートナーでもある妻と2人の子どもとともに、東京から神戸の塩屋というまちに引っ越してきた。父方の実家まで車で15分、生まれてから小学生までを過ごしたマンションが20分ほどの距離にある。いわゆるUターンにあたるのだろうが、昔からよく知っているまち、というわけではなかった。

浜松で大学時代の同級生と3人で建築設計をはじめ、今年で10年になる。浜松と東京の2拠点生活を続けてきたが、結婚し子どもが生まれ、妻の出身地である東京で過ごす時間が長くなっていき、特にこの5年はほとんどの時間を都内の自宅兼事務所で過ごしていた。プライベートな事情もあり東京にいなければならなかったのだが、そういった状況が想定外にキャンセルされ、コロナ禍がいよいよただ事ではないことが明らかになってきた2020年の5月、神戸へ移ることを決めた。

明石にある高専という5年制の学校で建築を学びはじめたが、建築家になるためには当時北山恒さんと西沢立衛さんが意匠を教えていた横浜国立大学にいくことが最良の選択であると判断した。であるから、関西は性に合っていたのだが、どちらかというと「仕方なく」関東に出てきたのだった。しかし住めば都で、3年ほどで流暢な「東京弁」を使いこなし、大学院を修了する頃には諸々の事情や展望が絡み合い、基本的には関西に戻ることは「できない」のだろうという漠然とした状況にあった。浜松で活動を始めたが、当初はある種の留学や駐在のような意識であったことは否めない。5年ほどでそれぞれが独立するイメージがあり、私は東京に「戻るほかない」のだろうと考えていた。しかし幸いなことに浜松での活動は想像以上に展開し、継続することがプロジェクトそのものの価値でもあるような状態になってきたので、ライフワークとして取り組んでいくことになっている。

右も左もわからないところからはじめ、ともかく浜松で「なんとかやれる」ということを経験したことは大きかった。そしてさまざまな偶然やタイミングが重なり合って、東京に「いなくてもよい」ということになり、自分自身がこれからどこでどうするのかをあらためて考える機会を得た。そこで浮かび上がったのは「神戸で建築家をやりたい」ということだった。実家から子育てのサポートを得やすいとか、浜松よりは大きく大阪・名古屋よりは小さいほうがよいだとか、どうせならと海外もと考えはしたが、自身の能力や家族のタイミングとして難しいだとか、温暖な気候で海が近いほうがよいだとか、やはり最低限の土地勘や伝手があるところがいいといったさまざまな現実的な条件からの判断であることはたしかだ。しかし、そういった取捨選択の問題である以前に、「神戸の建築家になる」というのは、どこか無意識に封じ込めていたものであった。地元に帰りたい、というような意識はほとんど持っていなかったが、豊富とは言えないまでも、これまでの半生を通した国内外のさまざまな場所での短期・長期の滞在や、生活してきた経験から考え、自身にとっての理想的な場所は神戸なのだという結論に至った。

塩屋へ

神戸とはいってもそれなりに広く、具体的にどこで暮らすかを検討せねばならない。コロナ禍以前からテレワークやオンラインミーティングは多用していたが、長引くステイホーム生活を続けるなかで家族と過ごす時間の貴重さにあらためて気づき、子どもが本格的な思春期を迎えるまでのあと5年くらいは、自宅兼事務所でやっていくのがよいのではないかと考えた。そうするとあまりにも郊外でなく、それなりの広さも必要なので、中古戸建住宅を購入し、改修するのが現実的な選択肢になる。仕事柄慣れているとはいえ、予算は限られており、交通の利便性と規模を優先事項として、不動産情報サイトを睨み続ける日々が続いた。

ところで関西の多くの人にとって、神戸とは三宮までのエリアであり、それ以西の新開地や長田はぼんやりした存在で、須磨が神戸だと断言できない人は少なくないだろう。しかし、それより西の垂水や舞子、西に伸びる市営地下鉄沿線に慣れ親しみ、明石、加古川、高砂、姫路あたりまでを生活圏として育った私はむしろ逆で、三宮以東の阪神・阪急沿線はどうも馴染まない。

そうしたなか、三宮から西に20分弱のJR沿線でありながら、比較的手頃な価格で戸建住宅が売りに出ている「塩屋」という地域が浮かび上がってきた。そういえばと長年の友人である市川紘司さん(東北大学大学院工学研究科助教)による新聞書評だけを読んでいた『旧グッゲンハイム邸物語──未来に生きる建築と、小さな町の豊かな暮らし』(ぴあ、2017)が、この地域のことを書いた本だったと思い出した。古い洋館を地域の人が主体となって保存し、積極的に活用されている話で、これはと思いすぐさま巻末で対談している建築家の島田陽さんに連絡をして、著者の森本アリさんを紹介してもらった。移住を考えていると相談すると、再建築不可や急傾斜危険区域などややこしいが「めっちゃいい家」がたくさんあると次々に候補が挙げられ、あれよあれよというまに翌月には塩屋を案内してもらうことになった。

まちに散在する歴史的な景観資源である洋館、昔ながらのこじんまりとした商店街、地元の人しかいない海岸、近年増えている素敵な店舗やクリエイターについて話してくれるアリさん(森本さんと呼んでいる人をみたことがない)の後ろをついて歩きながら、私は「みち」の圧倒的な多様さに感動していた。アリさんが進んでいく先は、私にとっては道とは認識できない、人が通行する場所とは判断できない空間が多く含まれていた。

神戸は基本的に北側に六甲山を背負い、南側に瀬戸内海を臨み、平地は狭く東西に広がっている。塩屋は六甲山系の西端に位置しており、海までの距離も特に短い地域で、平地がほとんどない坂のまちである。ゆえに道路整備やデベロッパーの開発も進みにくかったことから、不整形な敷地や車の入れない幅の道(基準法上の道路ではない)だけではなく、急な高低差を繕うように細かな階段が散りばめられている。それらが隙間やずれ、余白を伴って組み合わさることで、近代的な道路と敷地の関係に慣れ親しんだ身体では知覚しにくい、複雑な空間のネットワークを形成している。都市計画や法規といった観点からは多くの問題を抱える環境だが、翻って可能性に開かれており、歩くだけで身体的な喜びが感じられた。生まれ育った播磨国である(塩屋以東は摂津国)ゆえか、何か馴染むものもあった。そうして、曲がりくねった坂を登った先にある、少しだけ海が見える家を購入することにした。

未知の道

この春に引っ越しをしてきて数カ月が経ったが、「みち」の多様さには相変わらず驚かされている。そしてこのまちに暮らしていると、「みち」は公共サービスとしてのインフラというよりは、地域の財産なのだということがよくわかる。家の西側は斜面でただの荒地だと認識していたが、ある日野草か何かを摘みながら登っていく老婆を発見し、ごく限られた人だけが通る「みち」が存在していることを知った。家の北側はほぼ人の入らない山だと思っていたが、筍を採集する人が通る「期間限定のみち」がある。袋小路にしか見えない東側の道の奥には、飛び地でついてきたほんの小さな畑があり、「山のみち」へとつながっている。またある日には愛らしい姿ではあるが危険な動物であるアライグマが縁側の先からこちらを一瞥して通り過ぎていった。保坂和志さんの小説の猫のように、動物は独自の「みち」を持っており、もちろんそれらは人間にとっては招かれざるものも多く含まれている。しばらく空いていた築50年超の隙間だらけの建物ゆえに、ダンゴムシやクモの類には驚かなくなっていたが、梅雨になって、めくった布団からムカデが現れたときは、阿鼻叫喚の騒ぎとなった。

家のなかにいても近所を歩いていても「風のみち」が意識に上ることも多い。山から降りてくる湿気を伴った空気は驚くほど冷たいことがあるし、潮の匂いのする風が吹いてくることはじつはそれほど多くないことにも気がついた。以前はほとんどそんなことが気になった覚えはないのだが、風を感じたときに、地形や時間帯、あるいは天候や気温の変化から考えて、どういう流れが生じているのかを想像してしまう。

改修計画は住みながら今まさに考えていることもあって、「太陽のみち」と建物形状の関係によってどう気温が変化するか、「水のみち」で問題となるところはどこか、「家のみち」として屋外階段によって新たな回路を接続できないかなど、建物だけではなくその周辺に存在するさまざまな「みち」を前提に設計したいと考えている。道路は目的地をつなぐものだが、ここであえて「みち」と括弧に入れた道は、未知へとつながっているような、ある種の期待とともにある。

自宅のすぐ近所に、とりわけ印象的な「みち」がある。両サイドをフェンスに挟まれ、階段もあるので、歩行者だけが丘を登り降りするための「みち」だ。もともとは市営住宅が建ち並んでいた一帯で、一部の地盤が崩れたため全体を取り壊し、フェンスで囲って立ち入りできないようにして、南北の通行を最低限確保している。フェンスの奥は荒地としか言いようのない状態だが、海を臨む高台で開けており、塩屋でも有数の景色のよい場所だ。このエリアを地域の人々が中心となって整備していこうという活動があり、その定期的な草刈りに参加している。

荒地の庭

土砂崩れに伴って市営住宅が取り壊されたのは50年以上前ということで、フェンスで囲まれた経緯は不明だが、ともかく長年放置されてきたため住宅があった痕跡はほとんど残っておらず、ササとクズがこれでもかと繁茂している。近くに住む庭師の橋口陽平さんの方針をもとに、刈り取った草は廃棄せず、マルチシートも用いながら地面を覆ってササを弱らせ、徐々に植生を変えていく戦略がとられている。ニレ、エノキ、シュロ、フジ、ビワ、グミ、クコ、オシロイバナ、ヨモギといったすでに自生している植生を生かしながら、近隣の山に自生している植物を移植して整えていくことが検討されている。またそれだけではなく、橋口さんの仕事で出るどうしても廃棄せざるをえない植物の避難場所としても活用し、在来種のみにこだわらず、多様性と冗長性を担保しながら推移を見届けていくことがめざされている。斜面で日当たりもよく極端に乾燥した環境なので、そのなかでの微妙な差や目に見えない地中からフィードバックを得ながら、いかなる植生を定着させられるかの実験場となるという。

またさらに興味深い活動も合流している。ナチュラルワインを扱う宮本健司さんを中心に、この場所でワインをつくるためのブドウを植えることが計画されている。現在はその下準備の段階で、近隣の人々がそれぞれの家庭で苗を育てており、この秋と来春で計100本の植樹が予定されている。ササの後にさまざまな果樹や、タカキビやモチキビを植える案もあり、さまざまな実りを味覚でも感じることができるかもしれない。

活動の初期からパーマカルチャーや開墾に詳しい澤井まりさんが関わっていることも大きい。荒地から人間のコントロールがギリギリ及ぶ環境にどうやって改変していくのか、経験に基づいたさまざまな知見が活動を支えている。実際の草刈りには、市の職員も含めて老若男女20〜30人ほどが毎回参加している。それぞれが知識とスキルを持ち寄り、経験として共有しながら場をつくっている。庭師であるジル・クレマンの言うように、われわれは荒地を必要としているのかもしれない。市営住宅という近代化の目論見が頓挫し、自然コントロールの失敗の象徴でもあるようなフェンスの先の空間が、秩序の観念から解き放たれた、本当に望まれる場所を涵養している。

生はノスタルジーを寄せつけない。そこには到来すべき過去などない。
──ジル・クレマン『動いている庭』(山内朋樹訳、みすず書房、2015)16頁

人工的に造成されたあとの荒地に規範はない。「できるだけあわせて、なるべく逆らわない」(同書、148頁)ことは、手に負えない野生を目の前にしたときには、ほとんど唯一の態度であるように思われるが、それゆえにこれからありえるかもしれない風景について、立場の異なる人々との共有をしやすくする。また、同時にそれは変化し続けることを体感的にも原理的にも内包したものとなる。構想というものがつねに失われ続けることが前提である場に、設計を専門とする人間として並走できることは、これ以上ない刺激的なことである。

塩屋は複雑な地形が開発の進行を堰き止めているがゆえに、さまざまなスケールの余白が存在しており、ランドスケープ・アーキテクトの石川初さんが言うところの「造園」と「園芸」と「雑草」★1が渾然となって、さらに「里山」とも一体化しながら身近に存在している。しかし植物が溢れているからといって、すなわち自然に囲まれている、と単純に言うことはできない。外来種が云々というという次元ではなく、温暖化が進行し、大型肉食動物の排除を筆頭に生態系全体が変化しており、われわれはもはや手つかずの自然というものが地球上のどこにも存在しない現在★2を生きている。いわば徹底的な人の介入の「あとの」世界で、それを前提としたバランスについて模索するしかない。完全な自然は存在しないし、同様にタブラ・ラサも存在しない。

塩屋という地では、近代という思想によって定義され、固定され、切り分けられたものごとが、こらえきれずに動き出し、また動いてしまうことを止めることもできないが、こちらから動かさざるをえない状況でもあり、同時に可能性そのものなのだということを、まち全体から日々気づかされる。建築家の青木淳さんの「原っぱ」は暫定的に放置された場所だが、「荒地」は放置に耐え難くなっている場所だ。なんらかの対処が必要で、どうにかこうにか折り合いをつけなければならない。そこでは空間的にも時間的にも、さまざまな射程や尺度を行き来したフィードバックが不可欠となる。

こういった学びは当然ながら建築を設計することとも地続きだ。リノベーションはもちろん、新築の建物を設計するときにも、あるいは文化財の保存や活用を考えるときでも同様である。あらゆるものが動くという前提で、周辺を観測し、過去をたどり、ありえるかもしれない可能性を考える。そうして現在を浮かび上がらせるような知性が、これからを切り開くだろう。



★1──石川初『思考としてのランドスケープ──地上学への誘い』(LIXIL出版、2018)での分類で、施設や制度を伴って整備される植栽を「造園」、個人の趣味によって維持管理がなされているものを「園芸」、人間が意図せず生えてきているものを「雑草」としている。
★2──エマ・マリス『自然という幻想──多自然ガーデニングによる新しい自然保護』(岸由二+小宮繁訳、草思社、2018)によれば、自然保護の根拠となる「手つかずの自然」は、1860年代以降にアメリカを発祥とする比較的歴史の浅い思想であり、先住民族による自然の利用に伴う絶滅を含んだ生態系の変化は無視されていることを指摘している。また、外来種が固有種を含めた種の保存や生態系の維持を担っていることなど、多角的に現在の「自然」の置かれている状況をレポートしている。

橋本健史(はしもと・たけし)

2011年浜松にて彌田徹、辻琢磨とともに403architecture [dajiba]設立。2017年東京にて橋本健史建築設計事務所設立、2021年神戸に移転。現在神戸芸術工科大学、関西学院大学、名城大学、桑沢デザイン研究所非常勤講師。主な作品=《東貝塚の納屋》《静岡理工科大学学生ホール》ほか。主著=『建築で思考し、都市でつくる』(LIXIL出版、2017)。2014年第30回吉岡賞、2016年第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館にて審査員特別表彰受賞。

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公開日:2021年08月25日