「これからの社会、これからの住まい 2」の1年をふりかえって

環境について──「正しさ」から「適当さ」へ

浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)

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「パブリック・トイレのゆくえ」というテーマで、LIXILビジネス情報サイトのなかの一企画として2017年からはじまったこのリサーチプロジェクトは、ありがたいことに今年でまる5年になる。2021年からは「これからの社会、これからの住まい」というテーマとなり、住まいを中心に2年間進めてきたが、この間はまさにCOVID-19によって社会や住まいが大きな変換を迫られた時期でもあった。リモートワークやオンラインの会議は一般的になり、その一方で次々と出された「緊急事態宣言」や「まん延防止等重点措置」によって、この2年間は深夜まで営業をしている店が都内ではほとんどなくなってしまった。亡くなった方もいるし、もっと大変な状況にある人がいるのは大前提として、個人的には、六本木や代官山の蔦屋書店で夜中に本を物色しながらスケッチや原稿を書くことが東京に住む最も大きなメリットだと感じていたので、正直とても辛い2年間であった。ともかく、COVID-19はぼくらの世界をその生活に関わる細かい部分まで大きく変えた。

ところがである。2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が突然はじまった。これを書いている2022年3月7日現在では、まったく収まる見込みはない。 あまりにも突然の出来事に驚いているという感想以上のことを書けないが、正直に言えばこのような自体になることをぼくはまったくといっていいほど想像できていなかった。ただ、現に起こってしまうと、想像できていなかった自分の愚かさのほうが目立ってくる。地球というわれわれ人類が住む環境を見渡せば、歴史的には侵略や国自体の崩壊の繰り返しによって、今の国という線がかたちづくられている。それも別に古い話ではない。ベルリンの壁が壊されたのは1989年だし、ソビエト連邦が崩壊したのも1991年とわずか30年前の話なのだ。

今でも世界中にはさまざまな文化や歴史や思想をもった国々があり、その中身はぼくたち日本人とはまったく違うものもある。ただ、1990年代以降のこの30年間は、インターネットやスマートフォンが世界中を繋ぎ、グローバリズムが急速に進行した時期でもあった。その過程で、世界中がまるでひとつの大きな輪の中にいるかのような錯覚を覚えさせられていたように思う。たしかにGoogleやTwitterは世界中を繋いでいるけれど、それですらロシアや中国をはじめとする一部の国々ではその使用に制限がかかる。

ともかく、互いに自分たちとは違う思想を持った人々が、同じ地球という場所で存在していかなければならない。それが大前提としてある。また近年は、多様性が大事だと盛んに言われていた。もちろん、今回はロシアが全面的に悪いと思うけれど、だからといって少なくとも自分が戦争に加担しようとは思わない。基本的には何もできないので、ニュースを眺めながら、絶望と無力感に苛まれている。

でもひとつだけ今回の件で確信したことがある。それは「正しさ」という概念はとても危険だということだ。いや、今回の件だけでなく、ぼくはこの数年、「正しさ」について語られるたびにずっと違和感を感じてきた。そもそもこの地球には、多様な文化や思想をもった人々が存在している以上、絶対的な正しさは存在しえない。正しさが発動するためには、最低限の文化や思想を共有していなければ意味を持たないからだ。だから正しさを武器になにかしらの主張を行うことは、それ自体が発言者以外の文化や思想とおのずと対立することになってしまう。いくら自分たちが正しいと思って行動していたとしても、それは自分たちの輪の中だけの話で、絶対的なものではないのだ。にもかかわず、その正しさをどこででも押し通そうとすることは、他の文化や思想を冒涜する行為にほかならない。

このような事態になった時、ぼくたちになにができるのだろうか。

そこでは、これまで以上に「環境」が重要なテーマとなるのではないか。カッコつきの狭義の「環境問題」ではなく、環境そのものについて考えなければならないのではないか。そもそも産油国は一部の地域に限られており、歴史的にもさまざまな軋轢がある。また、石油や石炭に比べ、クリーンなエネルギーだとされる天然ガスも、今回のロシアによるウクライナ侵攻によって、危うい存在となってしまった。二酸化炭素の排出量を減らすのは大事だけれど、それ以上に世界がこのような状況になった今、エネルギーはなによりまず政治の問題となってしまった。

そして、前述したように、環境について考えることそれ自体を正しさで推し進めることは、他の文化を持った人々と対立を生んでしまうし、無理に押し通せば、他の文化への冒涜になる。だからこそ、「正しさ」とは違うかたちで、環境について共に考えることが必要ではないだろうか。そこでは、「〇〇をしてはならない」「〇〇をしなければならない」といった厳格な押し付けではなく、たとえ他の人が自分たちとは違う行動を行っていたとしても、それでもなお環境全体としてはなんとか回るようなそんな環境が求められるだろう。それには「正しさ」ではなく、ある種の「適当さ」こそが重要になるように思う。

浅子佳英(あさこ・よしひで)

1972年生まれ。建築家、ライター。2010年東浩紀とともにコンテクスチュアズ設立、2012年退社。2021年出版社機能を持った設計事務所PRINT&BUILD設立。作品=《gray》(2015)、《八戸市美術館》(2021)(共同設計=西澤徹夫)ほか。共著=『TOKYOインテリアツアー』(LIXIL出版、2016)ほか。

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公開日:2022年03月23日

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