社会と住まいを考える(国内)27

閉じずに、開かずに、閉じていない

笹尾和宏(橋ノ上ノ屋台共同店主)

現代日本の社会的慣習のひとつに「花見」があるが、学生時代に1枚の花見の写真を見せられて息を呑んだ。花見と聞くと「桜の木の下でブルーシート」が定番だが、写真のなかではゼミの先輩方がお手製のいかだを川に浮かべて緋毛氈を敷いて川側から桜を眺めていた。「何をするにも世間的な常識に倣うべき」という固定観念から解放されたと同時に、想像していた以上に法律が寛容であることも知り、視界が開けていく感覚を味わった。

いかだでの花見の様子(以下写真はすべて筆者提供)

それ以来、何か思いついたときは深く思い詰めずにさっとやってしまおうと考えるようになり、やりたいことが実現できるシンプルな方法を見つけては、路上で屋台を出したり友人とディナーをしたりしている。屋台についてはどうしても食事の提供を伴うので露店営業許可の取得が必要だったが、共同店主であるパートナーとよく待ち合わせをしていた思い入れのある橋の上での営業にこだわっている。

橋ノ上ノ屋台の様子1

「結局のところ、人と違うことをして悦に浸りたいだけなんじゃないの?」
上述のように私的な目的で路上を日常的に好き勝手に使っている筆者の様子を見て時々こんな言葉が投げかけられる。たしかにそれ自体は否定しない。屋台にたまたま出くわして立ち寄ってくれたお客さんから「なんて素敵なロケーション!」と褒められて、自分たちの目の付けどころを誇らしく思ったり、路上の窪みにテーブルを置いてディナーをしていたとき、自転車に乗って通り過ぎようとした若者から「その使い方、してやられましたわー!」と言われたことに優越感を抱いたりしたことを覚えている。普段見過ごされていた場所をちょっとした視点の切り替えで鮮やかに見違えらせて、その状況をほかの人に示すことができたときの感覚は何とも心地が良い。

路上でのディナーの様子1

でも、路上の勝手使いをしているときには、優越感とか誇らしいとかそういうポジティブな気持ちだけが湧いているわけではない、というのも別の話としてはあるわけで、今回はこれが何なのかを探ってみたいと思う。

閉じる? 開く?

地域コミュニティ、いわゆるご近所づきあいの希薄化が社会的課題となって久しい。それどころか、個人情報保護への関心の高まりやコロナ禍に伴うオンラインショッピング、リモートワークがその傾向に拍車をかけ、私たちの住まい方は家族単位でますます閉じられつつある。そしてそんな状況の反動として、私たちは開こうとしている。建築家や都市計画家はさまざまな開き方を備えた住宅や居住環境を提案している。住まい手自身が閉じられた家をソフトの面で開く「住み開き」にも世の中の注目が集まった。 でも、そんなに私たちは開きたいのだろうか? 「閉じる」という課題に気づき「開く」ことに解決策を見出した私たちは、頭の中でこそ「開く」価値を理解しているつもりでいるが、いざ自分が開くかどうかを自問すると、身体的になかなか受け入れられず言葉をつぐむのが本音だろう。このジレンマから脱することを考えたとき、「閉じる」と「開く」の間にあるさまざまな「閉じていない」に目を向けることが有効ではないだろうか。例えば、呼び込みも主張もせずにさりげなく隙間を開けておくというのは、積極性を帯びた「開く」とは違う。カギがかけられておらず簡単に開くということが伝わってさえいれば、物理的に閉じられていたとしても、それはもはや「閉じる」とは認識されない。「閉じていない」は「閉じる」に対する「開く」とは異なる解となる。

屋台はお客さんが居ないと成立しないので、さすがに「閉じる」わけにはいかないけれど、それでも友人や常連が多く居ると、たまたま通りがかった第三者に対する「閉じる」が生まれてしまう。それを避けるべく、屋台の横を通り過ぎる人に対して控えめに会釈をすることを心がけている。これは、呼び込みによる立ち寄りを期待した「開く」ではない。そのまま素通りする人に「閉じていない」を示して屋台への受容性を高めたいがための所作なのである。

橋ノ上ノ屋台の様子2

路上でのディナーのスタンスも同じ話だ。筆者たちは周りの人を無視してやりたいわけではないし、かといって積極的に知らない人と交流したいわけでもない。集まる人数よりも1脚多めにイスを用意しておくことや「よろしければ一緒に食事しましょう」と標示を立てておくことなど、知らない第三者への態度を通じてディナーという私的行為を楽しみながら、通り過ぎる他人に対して「閉じていない」を実践している。周りの人にとって取り入る隙を残しておくことによって、その人にとっての公共性を毀損しないための仕掛けとして機能すればと思っている。

路上でのディナーの様子2

孤独と安心

建築家の槇文彦氏は、シカゴ美術館に所蔵されるジョルジュ・スーラの絵画《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を取り上げ、大勢の人が集まっていながらも誰も視線を交わしていない描写を指して、都市における孤独の必要性を説いた(「独りのためのパブリックスペース」[『新建築』2008年1月号、新建築社])。この絵画についても「閉じていない」ことに依拠した安心が風景全体から感じられるからこそ、私たちに孤独を肯定的に受け入れさせ、それぞれの居やすさを感じさせているのではないかという気がする。

また、臨床心理士の東畑開人氏による著書『居るのはつらいよ──ケアとセラピーについての覚書』(医学書院、2019)は、デイケア施設の通所者である「メンバーさん」との施設の居場所・居心地に関わる日々の暮らしをつぶさに捉えたものだが、デイケア施設で何も役割を果たさずにただそこに居なければならなかった東畑氏自身の気まずさも同時に描き出されていた。私たちはその時々で、事実としてある場に身を置いている。それが組織体によって用意された場(職場)であれば、組織体が持つ共通の目的に沿った役割を担っているかぎりその居やすさは保証されるわけだが、組織体ではない集団を前提とした場があるときにこそ、その場の居やすさを評価し高めていく必要がある。まちは目的や役割を規定されない最たる場だが、私たちは組織体の感覚を持ち込んでしまったがばかりに目的をもって役割を果たさないことには他人とともに居る意味を見出しにくくなってしまっている。「役割を果たす」とは、彼岸の他人に対して閉じるか開くかを選択することにほかならない。それを打開するヒントが「閉じていない」にあるのではないだろうか。「閉じていない」が常態化すると、社会が自分の世界になる。「つながり」というのは自分と彼岸の誰かをコネクタで結んだpeer to peerの状態を指すのではなく、むしろ他人は自分の此岸に居て地続きであると捉えられるようになることだ。まちの居やすさはこうして築かれていくのではないだろうか。

相互主観性

「閉じていない」を重ねていくと、「開く」という状況は相手の「閉じていない」を前提としたお互いの歩み寄りによってはじめて実現するのではないかと思えてくる。つまり「開く」は相互主観的であり共創行為だというわけである。開きたい側だけの意思で開くが実現するわけではないどころか、かえって開かれていることを迷惑に感じる人さえいるかもしれない。「私はあなたに対して閉じていないし、あなたが私に対して閉じていないことも認識している」とお互いに思えたとき、双方の「閉じていない」によって結果的に「開く」が起こっている。変わった場所で変わった行為をしているときのドキドキは、周りの人がこれを見てどう思うかに対する不安感や気恥ずかしさによってもたらされているけれど、実際に路上で屋台をしたり食事を楽しみながら何も嫌なことを言われたり訝しい視線を投げつけられたりしないことを通じて、自己効力感よりも、むしろまちに赦されているという安心感を覚えるようになる。

さて、はじめの問いに戻ろう。なぜ筆者は路上を好き勝手に使っているのか。結局のところ、まちに赦されていると実感し、見知らぬ他人との弱いつながりを感じたい、つまり社会的存在性を身体的に感じたいからではないか、と結論づけられる。この感覚、最近よく感じているような気がしてハッとした。これは、親へのわがままを通じて自分が愛されていることを確認したい自分の子どもの立ち振る舞いと一緒じゃないか。これはなかなかタチが悪い(が、やめられない)。





笹尾和宏(ささお・かずひろ)

1981年大阪府生まれ。今村謙人と路上実践している橋ノ上ノ屋台の共同店主。京都大学経営管理大学院(博士課程)在籍。著書に『PUBLIC HACK──私的に自由にまちを使う』(学芸出版社、2019)、『あたらしい「路上」のつくり方──実践者に聞く屋外公共空間の活用ノウハウ』(共著、DU BOOKS、2018)。認定SHIKAKIST。

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公開日:2022年12月21日