「建築とまちのぐるぐる資本論」対談1

小さな経済圏に見る希望と倫理

饗庭伸(東京都立大学都市環境科学研究科教授)+連勇太朗(明治大学専任講師、NPO法人CHAr代表理事、株式会社@カマタ取締役)

2023年5月からスタートした特集連載「建築とまちのぐるぐる資本論」は、各地で建築・まちづくりのグッドプラクティスを取材しながら1年の節目を迎えた。他方、人口が減少し、インフラ維持費用が不足するという予測があるなかでも、宅地の無作為なスプロール、利潤の最大化を追求した開発は留まることなく、社会課題が未来へ先送りされている現状がある。この分裂した状況をいかに捉えることができるのか、都市計画を専門とする饗庭伸さんにお話を伺った。

Fig. 1: 「世田谷区のまちと暮らしのチカラ ―まちづくりの歩み50年―」展の会場にて。饗庭伸さん(左)、連勇太朗さん(右)。壁面は、世田谷区都市デザイン室によるポスターの展示。

なぜ世田谷区が参加型まちづくりの源流になったのか

連勇太朗(以下、連):

1年にわたり各地へ足を運び、自分たちの目で社会関係資本や小さな経済が循環する姿を見てきました。それぞれが素晴らしく、希望を感じるものでしたし、そうした実践が増えていくのは良いことだと思う一方で、大局としては、野澤千絵さんが厳しく指摘している「住宅過剰社会」、饗庭さんが『都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画』(花伝社、2015年)で論じられた宅地のスプロールと都市内でランダムに空き家が生まれる「スポンジ化」、そして、利潤の最大化と短期的な投資回収を追求する開発は衰えを知りません。そうした状況を大きな時間の流れのなかで捉えたいという気持ちがあり、対話をお願いしました。
今日は、饗庭さんが実行委員長として関わられた「世田谷区のまちと暮らしのチカラ ―まちづくりの歩み50年―」展(会場:生活工房、会期:2024年1月31日~4月21日)をご案内いただき、ありがとうございました。

饗庭伸(以下、饗庭):

まちづくりへの距離感は人それぞれなのですが、「世田谷区のまちと暮らしのチカラ」展では、50年分のまちづくりの膨大な情報をどう伝えようかと考えました。展示では、まず年表と模型を展示して時間と空間の広がりを見せ、次の展示ではグラフィックデザインやワークショップの成果などの実物を大量に並べました。訪れた人に年表と模型で自分なりの座標をつくってもらったうえで、それぞれ自身の問題意識に引き寄せてアイディアを拾って帰ってもらえるような構成にしたわけです。

連:

今はごく当たり前になっている住民参加型まちづくりやワークショップの日本の源流は、世田谷区にあったことがよくわかる展示でした。半世紀にわたる貴重な資料が見られ、充実した内容でしたが、そもそもなぜ世田谷区でそうした活動が始まったのでしょうか。

饗庭:

都市形成のところから説明をすると、決定的だったのは、世田谷が武蔵野台地の上に形成されて、多少の起伏はありながらも土地が概ね平らだったことです。山を削ったり海を埋め立てるには、巨額の公共投資をしたり、大きな資本の力を駆り出す必要がありますが、平らな土地はそうではありません。要するに、誰でも都市をつくれるわけです。
さらにその平らな土地に京王、小田急、東急による鉄道が敷かれたことで、移動が簡単になったので、大きな道路をつくって経路を確保しなくても、都市がつくられていきました。元々は農村が広がっていましたが、農地解放以降は大地主が解体されて土地の所有者が増えます。それぞれの土地所有者が少しずつ切り売りしていったことで、段階的に宅地化されていったのが世田谷区です。それは、公共政策のもとである時期一気に開発され、同じような世代が一斉に入居するニュータウンや団地とは異なり、住民たち自らが関わる余地が多くある状態からまちができていきました。
社会階層としては、特に企業に勤めるいわゆるホワイトカラーが多く住むことになりました。東京は東側と西側で社会階層がはっきり分かれていますが、東側は標高が低くて地下水を使うことができるので工場が建ち並び、ブルーカラーのまちが形成されました。サラリーマンは最初は珍しい存在だったのですが、その後にどんどん増えて主流になり、彼らが世田谷をはじめとする東京の西側に住宅を建て都市をつくっていくのです。そのほとんどすべてが小さな私有の建物です。
オーナーが住宅をまちづくりの場として開く「地域共生のいえ」(★1)も、こういった文脈のうえに登場しています。ホワイトカラーの中流層によって、民主的に、DIY的にまちがつくられていきました。

Fig. 2:「地域共生のいえ」のひとつ「シェア奥沢」は、私有の宅地の緑が豊かな世田谷区奥沢にある。
イベントやコワーキングなどのための場所として地域に開放されている。

トリガーになった人的要素

連:

土地が比較的平らだったという地理的な条件が、民主的なまちづくりにつながっていったというのはとても興味深いですね。

饗庭:

もちろんそれだけではなくて、たまたま優れた知見をもった人が住んでいて、たまたま区役所に進取の精神をもった区長や物わかりのいい部長がいたから、という偶然の巡り合わせによって素地が形成されていきます。
1960年代以前は民間のまちづくりコンサルタントはほとんど存在していなかったので、その頃の都市計画の仕事は大学の研究室に発注されていました。東京大学の高山栄華先生(1910–99年)、日笠端先生(1920–97年)、早稲田大学の吉阪隆正先生(1917–80年)などが代表的ですが、その弟子たちが民間のコンサルタントになっていきます。例えば、都市計画家の林泰義さん(1936–2023年)は日笠先生の教え子で、初めて住民参加に初めて出会ったのは1970年代の町田市だったそうですが、世田谷区にご自宅(林・富田邸)がありました。民間のコンサルタントとして1980年に都市計画や建築、造園、美術などの学識経験者によって発足した世田谷区の「都市美委員会」の実働などを担って、世田谷区のまちづくりの素地をつくっていきます。

連:

展覧会で示されているように、世田谷区は1980年代からそうした学識者を通して、ローレンス・ハルプリン(1916–2009年)、クリストファー・アレグザンダー(1936–2022年)、ヘンリー・サノフ(1934年–)、ランドルフ・ヘスター(1944年–)らの思想や方法論を取り込み、実践していく実験場になっていたというのもとても興味深かったです。

饗庭:

ユニークな工夫として、2002年から始まった人々が大切にしたい身近な風景を守り、育て、つくることを目的とした「地域風景資産」(★2)という仕組みがあります。複数人による活動グループがあり、掃除などの「風景づくりプラン」があれば、町内会の合意などを経ずとも地域風景資産として認定していくのです。そこにあるのは、京都のような歴史的・伝統的な価値とは異なる、多様な景観の価値です。
平らな土地に鉄道があったという条件は東京の西郊に共通なので、同様のことが他でできないわけではありません。各地域には市民活動をしている人が様々にいて、それらをうまくつなげていくことも可能なはずで、そういう意味では世田谷区が特別ということではないと思います。

ファシリテーションから問診へ──小さな経済圏の可能性

連:

最近のご著書『都市の問診』(鹿島出版会、2022年)では、臨床的な表現、病気や治癒のメタファーが使われていて興味深く読みました。そうした言葉を用いられたのはなぜでしょうか。

饗庭:

僕は都市計画の専門家として合意形成に関わってきました。建築家がクライアントに対してやることを、不特定多数の人々に対してやってきたわけです。揉めているところに呼ばれ、みんながなるべく納得しながら計画をまとめていくには、誰が権力をもっているかを見定めるだけではなく、それぞれの人が納得するためには何が必要なのかを見つけ出し、それをひとつひとつ解いていかなくてはなりません。この人はお金にこだわっているのかとか、利便性を重視しているのか、防災に危機感をもっているのか、漠然と暮らしに不安をもっているのか、はたまた自分の意見が聞き入れられなかったからか……。道路ひとつをつくるにしても、交通の利便性だけでなく、地域の環境を良くしたり、土地の売却益を地域にもたらしたりするなど、色々な価値を生みます。そして人々の価値観は異なりますよね。道路の価値をひとりひとりの価値観に合わせて組み合わせて伝えて、少しでも多くの納得をつくり出していくこと、それをそれぞれと丁寧にコミュニケーションしながら見出していくこと、それを問診というふうに表現したわけです。
1990年代以降、世田谷が震源地になって全国にワークショップやそれを支えるファシリテーショングラフィックが広がっていきます。選択肢をカードや模型にして机に並べて論点をはっきりさせ、それらを組み合わせながら、模造紙にまとめ、仮説に仮説を重ねるようにして合意を形成していく手法ですが、乗れる人と乗れない人を分けてしまうので、そうした手法自体がもつ暴力性もありますよね。問診という言葉には、最前列で模型を見ながら盛り上がっている人だけでなく、端の方でなんとなく引いている人のことまで見て、丁寧にコミュニケーションしていきましょう、という意味も込めています。ワークショップやファシリテーションという言葉はそもそも横文字で、破綻なくまとめることがゴールになっているようなニュアンスがあって少し窮屈なこともありますよね。

Fig. 3・4:本格的な住民参加のワークショップによってつくられた「ねこじゃらし公園」(開園:1994年)。

連:

ワークショップとファシリテーションがセットになったまちづくりのスキルセットとは違うニュアンスを含むのが問診なのかもしれないですね。

饗庭:

カードや模型を使って仮説を組み上げていくようなワークショップは、更地向けの技術だと思うんですよね。何もないからコミュニケーションを重ねて仮説を積み上げるしかない。空き家再生やリノベーションまちづくりが、更地のワークショップと大きく違うのは、そこに先行して、既存の空間や物があることです。人を集めてこの空き家をどうやって使おうかなどと話をしていると、ぼんやりと思いをもっていた人が、空間や物にインスパイアされて、「これをやってみたい」と考えが整う、ということがよく起こります。そこにはワークショップほどは人と人のコミュニケーションはなく、人と物のコミュニケーションがある。傷んだ空き家に入ってみると、磨いたらかっこよくなりそうなキッチン、味があるように見えてくるディテールなどを再発見し、その人を触発するのです。何もないところに仮説を組み立てるワークショップとは違い、既存の空間との間にじわじわと新しい関係性が生まれてくるというのは問診的だと思います。

連:

私が問診と聞いて連想したのが、本特集連載で見てきた ニシイケバレイのオーナー深野弘之さんと建築家の須藤剛さんHAGISOの宮崎晃吉さんと顧彬彬さん尾道空き家再生プロジェクトの豊田雅子さんたち松戸のomusubi不動産の殿塚建吾さんたち の実践です。アプローチはプロジェクトや人によって様々ですが、そのまちに自らが住み、まちとの持続的な関係性や対話を通して問題を発見し、まちに対して日々必要なことをやっていく姿勢は問診的だと思いました。
その一方で冒頭の問いに戻りますが、依然大局としては都市のスプロール、スポンジ化があり、グッドプラクティスばかり見ていると、それらの問題が見えにくくなるようなところもあります。建築やまちの専門家は、大きな資本や公共政策に対して今何ができるのでしょうか。

饗庭:

残念ながら都市のスプロール、スポンジ化を止める、構造を大きく変えるような都市計画の制度は存在していません。『平成都市計画史:転換期の30年間が残したもの・受け継ぐもの』(花伝社、2021年)で詳しく書きましたが、1963年の建築基準法改正で採用されたのが容積率で、これは要するに高さによる規制をやめて、都市を縦方向に拡大していこうという方向づけをしたものです。また、1968年に制定された都市計画法によって、都市の内側を市街化区域、外側を市街化調整区域とする、いわゆる「線引き」が制度化され、これが横方向の拡大を方向づけました。日本中の都市でそのふたつの指定作業が1970年ごろに行われ、「ここらへんまで成長してもいい」と都市ごとに仮の目標値みたいなものが定められました。問題はそれを誰も解除できなくなっていることで、僕はそれを「都市にかけられた呪い」と呼んでいます。
多くの都市でその目標値が達成されないまま、50年も経たずに日本の人口が減り始めます。この呪いを外そうと、人口減少が始まってからつくられたのが2014年の立地適正化計画です。あまりに広がりすぎた市街地を絞るべく「都市機能誘導区域」と「居住誘導区域」を定めることがその中心で、「第二線引き」と呼ばれたこともありますが、現時点の結果は惨敗と言ってもよく、全国のどの計画を見ても市街地を絞ること、呪いを外すことができていません。既に少なくない人が住んでいるまちに対して、上から線引きすることには抵抗がありますし、隣接自治体との人口の奪い合いもあります。また、仮に立地適正化計画の線を引いたとしても、それには強制力はありません。もちろんそれは、私たちが、国に命令されても自分達の財産がおかされない社会をつくってきたことの裏返しでもあるので、悪い話ではないです。
災害や戦争による圧倒的なリセットが起きれば呪いは外れるのかもしれませんが、東日本大震災の復興でさえも、既存の組織や制度、私有地の権利などに引っ張られましたよね。つまり今は誰も呪いを外したり、かけ直したりすることができない状態で、都市のスプロール、スポンジ化はこのまま惰性のように進むしかないでしょうね。

連:

都市計画の専門家も制御できないなかで、建築やまちづくりの主戦場はどこにあるのでしょうか。

饗庭:

「まちづくり」という言葉を使ってきましたが、これまでの「まち」をつくるという様々な挑戦のなかに、「小さな経済圏」をつくる、という挑戦があることには期待ができると思います。都市をなし崩しに駆動する「大きな経済の仕組み」に対して正面を切って対抗するのではなく、パラレルに「小さな経済圏」をつくって対抗するという取り組みです。カフェやパン屋を運営している建築家は、自らが食っていくためだけではなく、ある種の小さな経済圏システムをつくっているわけです。現代ではそうした小さな経済圏は、SNSやクラウドファンディング(★3)などを組み合わせることによって、どんどんやりやすくなっています。人里離れたところでパン屋さんを開いても、今は十分に生きていけますよね。沢山の専門家が身の回りを巻き込んだ小さな経済圏をつくり、それらがパラレルワールドのようになる。そのワールドはあちらこちらで重なり合い、ワールドの間を互いに行き来しながら何かをつくり出していく。もしかしたら、それらがある段階で大きな経済システムを変える可能性もあると思います。

連:

経済圏をDIYし、ネットワークしていくことが大事だということですね。一方、そうしたことは必ずしも建築やまちづくりの専門家でなくてもできることですよね。むしろまちのパン屋さんやカフェの店主がそういった方法でまちの課題を解決していることも珍しくありません。

饗庭:

素人がたまたま一発良いものをつくることもありますが、建築のプロは、膨大な過去の事例からパターン学習していますので、意匠・構造・環境を総合的に見て、安定的に良いものをつくることができると思います。

連:

最近の私の関心のひとつは、建築学や都市計画学を通して形成される専門家の役割や意味についてです。SNSをはじめとした膨大な情報に瞬時にアクセスできる現在、場合によってはプロよりもクライアントの方が例えば海外の照明器具に詳しいということもよくあります。また、パターン学習して最適解を出すのはまさにAIが最も得意なところですよね。そうした社会環境において、専門家の役割はどのようになっていくのでしょうか。

饗庭:

確かに将来的に建築設計者の役割は、法制度との適合や確認申請の提出くらいになってしまう可能性もありますね。僕個人としては、大学という気楽な立場にいることもあり、自分が考えたことは「みんな使って」という感じで外に出してしまいます。AIが媒介することによって、みんながレベルの高いデザインができたり、技術が真似されて社会に普及するのは良いことだと思っています。そういうことをやっていても、では自分が考えることがなくなるのか、自分の役割がなくなるのかというと、そんなことはないので、AIに取って替わられないのではないかと思っています。

Fig. 5: 饗庭さん(右)、連さん(左)。

参加の時代に建築やまちづくりの専門家が問われること

連:

表現の仕方が少し難しいのですが、私はこれから実践と学問の往還がますます大切になってくるのではないかと思っています。その先に次の専門家像も見えてくる気がしています。まちにダイブしてそこから小さな経済圏やシステムを立ち上げつつ、その状況を俯瞰して捉えようとする意識や姿勢が大事なのではないでしょうか。当然、誰もが社会の構成要素のひとつなので、外部から客観的に状況を捉えること自体は不可能なわけですが、局所的にまちに立ち上げたものの可能性や課題を一歩引いて考えてみようとする意識(排除しているものはないか、別の問題を生み出していないか)や、歴史的・理論的な位置付けを探ってみるなど、学問的体系と実践を往還していく態度が必要になるのではないかと思っています。

饗庭:

そうですね。学者ができることは、困っている人や問題を発見し、そこにパッチをあてるだけでなく、それが生み出されている構造的な問題を指摘し、どう解けるかを考えることです。例えば、住宅確保要配慮者の問題があります。2006年に住生活基本法が施行され、住宅供給は民間、セーフティネットは行政と、大きな構造がつくられたわけですが、先ほどの「呪い」と同じで、この構造が思い込みのようになって、誰も疑っていない状況になっています。
例えば、シングルマザーが要配慮者になったときに、行政はセーフィティネットとしてまち外れの不便な公営住宅を使って問題を解こうとするわけです。しかしその人のことを考えると、駅前の一等地に住んでもらい、子どもの送り迎えの時間や通勤時間をできるだけ短縮して、仕事に専念できる環境をつくった方が、貧困から早く抜け出せ、社会全体にとってはプラスになるわけですよね。駅前の土地はもはや民間の主戦場ですから、「呪い」にとらわれず、民間にちょっとインセンティブを出して、駅前にセーフティネットをつくってもらった方がいいわけです。このアイディアは、2006年に構造ができてしまったということを理解していないと出てこないし、構造を理解していると、その壊し方、再構築の仕方にたどりつくことができます。

連:

そういう意味ではアカデミックなコミュニティのあり方も大事ですね。学問自体がより開かれていく必要があると思います。最近、実務をやりながら、博士課程に所属して論文を書こうという意欲のある建築家が増えています。参加型まちづくりが当たり前になり、専門家ではない人も様々なかたちでプロの領域に参入できるようになり、さらにAIが台頭してくるなかで、自らの実践を歴史的・理論的に考えてみたいというモチベーションが高まっているのではないかと思います。

饗庭:

自らの実践を、様々な社会科学の領域を押さえ、社会の構造のなかに位置付けながら書くことこそが、博士論文の醍醐味だと思います。文系も理系も、博士号の「Ph. D」は「Doctor of Philosophy」ですから、「知恵を愛すること」ですね。
それを支えるコミュニティも重要です。大学組織も「呪い」にかかっているのですが、教師や学生がそれを換骨奪胎しながら、DIYで学習環境をつくり出していくことはできると思います。「小さな経済圏」をつくるような感じで、その人を支える知的な経済圏をつくる。博士の数だけ経済圏がある、なんていうことになればおもしろいですね。

連:

都市計画の制度としては人口減少や空き家の増加、スプロールなどになかなか対応できていない状況のなかで、まちに持続的に関わっていくような実践があり、かつ専門家はそれらを領域横断的につなぎ、歴史的な視座をもって捉えることに希望がありそうです。そもそも学ぶこと、論文を書くことは、学者だけに限られた行為ではないですし、アカデミックなコミュニティで共に議論することは、とても楽しく創造的なことです。

饗庭:

現場に没入して良い物をつくることはまず専門家がやるべきことですが、時に視野を広げて、見直すことが大事ですね。視野を広げてばかりだと文句ばかり言っている人になってしまいますから、人生のうちに没入と視野拡大の往復運動を2〜3回できれば良いのではないでしょうか。


★1──一般財団法人世田谷トラストまちづくりのWebサイトで拠点が紹介されている。
https://www.setagayatm.or.jp/trust/map/ie/
★2──せたがや風景MAP(令和5年3月改訂版)に地域風景資産の一覧が掲載されている。
https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/sumai/005/003/d00018435.html
★3──本連載の木村佳菜子「クラウドファンディングと建築・まちづくり」参照。
https://www.biz-lixil.com/column/housing_architecture/gr1_discussion_001/

文責:富井雄太郎(millegraph) 服部真吏
撮影:富井雄太郎
サムネイル画像イラスト:荒牧悠
[2024年4月8日 世田谷区の生活工房にて]

饗庭伸(あいば・しん)

1971年兵庫県生まれ。早稲田大学理工学部建築学科、同大学院卒業。博士(工学)。東京都立大学助手などを経て、2007年より東京都立大学都市環境学部准教授、2017年より同教授。山形県鶴岡市、岩手県大船渡市、東京都世田谷区などのまちづくりに関わる。主な著書=『都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画』(花伝社、2015年)『津波のあいだ、生きられた村』(鹿島出版会、2019年)『平成都市計画史:転換期の30年間が残したもの・受け継ぐもの』(花伝社、2021年)『都市の問診』(鹿島出版会、2022年)。

連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)

1987年生まれ。明治大学専任講師、NPO法人CHAr(旧モクチン企画)代表理事、株式会社@カマタ取締役。主なプロジェクト=《モクチンレシピ》(CHAr、2012)、《梅森プラットフォーム》(@カマタ、2019)など。主な作品=《2020/はねとくも》(CHAr、2020)、《KOCA》(@カマタ、2019)など。主な著書=『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版、2017)。
http://studiochar.jp

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公開日:2024年04月26日