対談 1

清潔なトイレ、パブリックなトイレ

青木淳(建築家)× 中山英之(建築家)| 司会:浅子佳英

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パブリック空間で「清潔さ」をつくる

青木:

清潔さということには、「衛生学的に清潔」という意味と、「感覚として清潔」という意味の二重の意味が重なっています。この2つは必ずしも一致しません。このうち、感覚としての清潔というのは、つまり不潔なものの存在を感じさせない、その存在を隠すということですね。衛生学的な意味での清潔、つまり細菌から身を守る、あるいは細菌の増殖を防ぎ殺すということだけなら、そう難しいことではないでしょう。だから、後戻りできない清潔さというのは、感覚としての清潔の追求という側面が強いわけです。

もちろん重要なのは、衛生学的な意味での清潔ですから、まずはそれが達成されなければなりません。その過程では、感覚としての清潔が寄り添っていました。そしてそれがほぼ達成に近づいた頃、感覚としての清潔が衛生から分岐・分離して、単独の進化が始まりました。分岐の時期は、日本ではたぶん、バブル期だと思いますね。バブルの時代には、床がガラス張りになっていて、そこに金魚が泳いでいるようなトイレなんかもあったと聞きます。お金をかけて、そこがトイレであることを、そこが排泄の場であることを忘れさせることが流行りました。

ぼくが自分の設計の仕事を始めたのは1991年で、ちょうどバブルがはじけたときです。それもあってか(笑)、その手のトイレが苦手でした。清潔さは後戻りできないが、その向かう先はこれでいいのか、って。屠殺場を美術館にすることにはやはり、後ろめたさがついてまわります。

中山:

いま青木さんがおっしゃった「清潔さ」と合わせて「パブリック」というものも考えてみることはできないでしょうか。浅子さんがイントロで論じられているように(http://www.biz-lixil.com/column/architecture_urban/public_toilet/intro/)、トイレの個室というのは、最もプライベートな空間のひとつですよね。一方でパブリック・トイレはみんなが共有する空間です。そうすると、公共のトイレという空間は、個と社会の落差が最も大きな場と言えます。そんな公共空間でのトイレを考えたときにいま、公園や街角の公衆トイレというのは、商業空間のトイレに比べてとても分が悪いですよね。金魚が泳ぐトイレのような例も含めて、商業空間のトイレというのは、訪問者に対して施すサービスの一部として、大切なプレゼンテーションの場になっています。そうありたければどこまでもラグジュアリーであっていい。一方、街角や公園のいわゆる公衆トイレというのはそうはいきません。公共建築を建てるということは、つきつめれば自分たちでお金を出しあって自分たちの欲しいものを買う行為です。あいだにあるさまざまな制度がそのことを忘れさせがちですが、少なくともそれが過度にラグジュアリーであるとみなされるやいなや、納税者としての主体がさっと現われてそれを許さないのが公共建築です。

ところが、ユーザーとしてトイレを使うときには、商業空間のトイレが与えてくれる「清潔さ」を含むサービスを知ってしまった身体というものが、どうしようもなくそこにある。自分の財布にひもづけられた公共性に対する意識と、身体が覚えてしまった快適さとの断絶を目撃してしまう空間――そういう側面がいまの公衆トイレにはあるのではないでしょうか。

《石の島の石》──掃除をエンターテインメントに

中山:

こうしたことは、小豆島で《石の島の石》というパブリック・トイレをつくるときにも、すごく考えました。この仕事は公衆トイレにあたるからです。今日、設計の初期にスタッフに見せた写真を持ってきました。これはずいぶん前にノーマン・フォスターが設計した《香港国際空港》(1998)で撮ったのですが、たまたまトイレのそばに置かれていた掃除用のカートです。ここには写っていませんが、それを押して悠々と歩く清掃係のおばちゃんの姿がまたすごくかっこよかったんですよね。こんなふうにカートには使う道具が全部美しく収納されていて、すごく欲しくなりました。空港の建築の素晴らしさはもちろんなのですが、そっちを撮った写真は見つからないという(笑)。その写真を見ながら何を話したのかというと、今回のぼくたちの仕事はフォスターの空港のようなすばらしい建築をつくることに違いないけれど、掃除用のカートやそれを押して歩くおばちゃんの姿も大事なプレゼンテーションの一部だと言えるわけで、そういう建築を考えられないかということです。自分のポケットからお金を払うことと、清潔であることの身体的な快適さのあいだで、それを建築空間として構想していくことが大事なのではないかと思いました。

掃除用カート

掃除用カート(提供=中山英之建築設計事務所)

青木:

単にモノとしてトイレがあるというだけではなくて、それを快適に使える状態に保つこと、その仕組み全体がトイレをつくっているということですね。

中山:

その通りです。空港のカートだけでなく、家電でもサイクロンの仕組みをスケルトンで見せる掃除機がすごく売れていたり、掃除ってなかなかにエンターテインメントですよね。《石の島の石》では、掃除用流しを隠さずに建物の外側に配置して、そこに吊るされる黄色い掃除中看板なども視覚的な要素のひとつとして扱っています。

浅子:

ただエンターテインメントなのだとすると、お客さまへのプレゼンテーションであるがゆえに過剰な装飾をしてしまう商業空間への批判的応答として、お金を出しあって自分たちのものをつくる公共空間へ、という話が、さらに一周回って再び商業のほうに近づいている気がするのですが。

中山:

うーん、商業的な価値観を自分たちの今回のアプローチと対置させて、提案がそこへの批判行為であるようにとらえられてしまうと、おっしゃるような矛盾を感じるかもしれませんが、そもそもそういう意図ではないんですよね。自分たちでお金を出して買ったトイレは、極言するなら自分の家のトイレのようなものなのだから、お家の掃除を楽しい道具でエンターテインするような気分を、デザインとしてパブリック・トイレでやってみる価値はあるのではないかって、考えたんです。見えているところに道具があれば、汚してしまったら自分で掃除できます。そしてそれよりもなによりも、外壁に白い陶器のシンクがくっついていたり、そのまわりにきれいな色のプラスチックの道具が並んでいるほうが、ぼくは美しいと思ったのです。掃除の快感は現状維持の連続なので、同じ水を使ってもうひとつ、日々の変化が楽しめるように植物を育てられるようにもしています。公園からの視線を調整するスクリーンが、だんだん成長していきます。モップといっしょに、じょうろをぶら下げたかったんです。

《石の島の石》

《石の島の石》外観

《石の島の石》

《石の島の石》 出入り口。掃除用流しと掃除用具、じょうろが人の目に触れる場所に設置されている。(ともに提供=中山英之建築設計事務所)

商業と公共で異なる質

青木:

商業空間と公共空間という区分は自明ではありません。商業施設も、多くの不特定の人たちを相手にしているという点では公共性を持っているし、税金でつくられる公共施設も、受益者負担という言葉があるように、特定のグループの人たちを対象にしている場合もあります。だからぼくはむしろ、ものごとの受け取り方のコードに乗るのか、それをつくり直そうとするのかで分けるほうを好みます。多くのデザインは、みんなで共有する美意識、つまり既定のコードに乗って、その上でより洗練されたものを求めています。その結果、コードは強化されます。例えば、最近のデパートに、トップライトから自然光が注ぎ込んでいるようにつくられたトイレがありますね。これは、日光が燦々と入ると明るく、また滅菌されて清潔という、ものごとの受け取り方のコードの上に乗ったものです。こういうことに、目くじらを立てるつもりもありませんが、例えばいまの掃除している人がかっこよく見えるようにするというような、「こうもありえる」という別のコードをつくり出すことで、既成のコードを揺るがすことのほうが、ずっとおもしろい。

浅子:

その点は、お二人の仕事に共通して感じます。

中山:

今日のお話は、都市において建築は、屠殺場的な意味での本質性を隠蔽する技として希求される話から始まりましたが、それもひとつのコードだといえますね。青木さんが言われたバタイユ/オリエ的な視点は、建築がそのコードを強めるためだけの存在で本当にいいのだろうかという疑問でもあったと思います。屠殺場や、そうした本質性を監獄といった言葉で表象してしまうと、なんだか露悪的なディストピア思想をイメージしているかのように聞こえてしまうかもしれませんが、仮に監獄を、「司法の外にある人間を隔離する檻である」というコードを忘れて眺めてみると、監獄の建築それ自体には、空間的な魅力があったりもする。住んでみたら、案外素敵なシェアハウスになってしまうかもしれません。《石の島の石》をつくりながら、掃除用流しの存在を上手に隠す技だけが建築のデザインなのだろうかと考えていたとき、ぼくの頭にあったのはそういうことだったのかなと、いま思います。社会のコードが監獄とはこういうものだと定めているだけで、人は必ずしも監獄の空間性そのものを見ているわけではありませんよね。

青木:

いまの中山さんのお話は、「監獄」という空間を具体的に見た場合のお話ですね。その一方、コードというのは、ぼくたちが基本的には意識しない領域においてぼくたちを縛っているという意味で、目に見えない監獄と言えるでしょうね。見えない監獄というと、ミシェル・フーコー★3を思い出します。彼は、パノプティコン(一望監視施設)を例に挙げて、目に見えない制度を相手にしました。その自ら身を隠そうとする監獄性に対して、バタイユはバスティーユ監獄を挙げて、露わにされ誇示された監獄性を建築と呼んでいます。フーコーとバタイユの監獄は、この問題の表と裏のような2つの極にあるようです。

《石の島の石》配管の様子

《石の島の石》配管の様子。通常は隠されているパイプが露わになっており、上下水道のつながりがよくわかる。(提供=中山英之建築設計事務所)

中山:

ただ、デザインにはフーコー的な制度としての監獄性を再び可視化してみせることならできますよね。都市インフラはつまるところ公衆衛生に資するシステムです。今日最初に話したように、そもそもは、王が民を死なせないための都市に生まれた、制度そのものだとも言える。それは生きるための仕組みでもあるので、デザインはそれ自体を転倒させるわけにはいきませんが、その存在を上手に隠蔽するだけがデザインかというと、これもそうではない可能性もあるのではないかと思います。

《石の島の石》では、掃除用具ともうひとつ、外側に露出させたものがあります。配管です。衛生機器をすべて躯体に直付けすることで、ふつうは室内側に這わせてライニングで覆う配管をすべて外側に追い出して、下水や上水がそれぞれにつながっている様子が全部見えるようになっています。これも露悪的なものというよりは、くねくねとしたパイプの並びが地面から生えている様子に楽しさを感じるからそうしたのですが、そこに小さい庇を与えて、人間が通る庇と等価なものとしてデザインしています。これはいまの話でいうと、フーコー的な監獄性を可視化するような試みと言えるかもしれません。人間の側の庇の下に置いた掃除道具が、バタイユ/オリエ的な監獄性の転倒の試みかもしれないのだとしたら、今日思い切って大きな構図で話してみようと思ったことは、間違いではなかった(笑)。

浅子:

商業空間の考え方について、もう少しお話しいただけないでしょうか。金魚の場合、金魚が美しいとか、その金魚がトイレの床の下を泳いでいたらおもしろいということは、多くの人に織り込み済みであり、人々がエンターテインメントだと認識しているものをそのまま使用しているだけで、どこにも価値の転倒は起こっていないですよね。人々が求めていることを、ただなぞることが商業的だとお二人が捉えているのだとすれば、たしかにそのこと自体にはぼくもあまり意味がないと思っています。ですが、商業建築で重要なのは、そのシステムのなかに淘汰が組み込まれていることです。商業建築のクライアントたちは利益を生み出すことが第一義だけれど、そのこと自体、見方を変えればお金を払い続けてもらうということでもあるので、利用者から信任投票をしてもらっているとも言えますよね。そういう意味では、現在は商業建築も、いや商業建築こそ、公共性を帯びてしまっている。そこは安易に見捨てることはできない。

中山:

たしかに、商空間の側から考える公共性のあり方は、本当はもっと議論したいところです。ただ、もう一度念を押すと、今日のぼくの話を、どうか商業主義的価値観を批判する行為としての公共性のあり方、というふうには捉えないでください。公衆トイレは税金でつくられていますから、利用する側の心には、自分の財布から出したお金で買った場所である、という感覚がどうしても残るんです。指摘されるように、商業のサイクルのなかにも類似の構造はありますが、こちらには到底買えないような高級品を扱うデパートやホテルのロビーでも、多くのトイレが誰にでも開かれています。これでは実際に利用者としての自分に向きあったときには、商業空間のトイレを選択してしまうことは自明なことです。せっかくお金を出しあってつくった公衆トイレが、商業空間を相手にしたときにあっさりと勝負がついてしまうのはくやしい。その結果としてお掃除と園芸みたいなことを、自分の持ちものを愛する楽しさをつくりだすものとして考えました。だから、そういう工夫や思考を指して、商業建築を安易に見捨てているというふうに捉えられてしまうと、どうしてそうなるのだろうと思います。そちらからのアプローチは、ぜひぼくも別の機会にしてみたいです。


★3──ミシェル・フーコー(Michel Foucault)
1926-84年。フランスの歴史学者、哲学者。「知」「言葉」「狂気」「性」などに内在する権力のさまざまな様態を歴史学的に分析。主な著書に『狂気の歴史』(田村俶訳、新潮社、1975)、『監獄の誕生』(田村俶訳、新潮社、1977)、『言葉と物』(渡辺一民+佐々木明訳、新潮社、2000)、『知の考古学』(慎改康之訳、河出文庫、2012)ほか。

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公開日:2017年06月08日

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