インタビュー 2

建築家として、生活者として──プログラムとパラダイムの先にあるもの

乾久美子(建築家、乾久美子建築設計事務所) 聞き手:中川エリカ(建築家、中川エリカ建築設計事務所)+浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)

乾久美子氏+中川エリカ氏+浅子佳英氏

浅子佳英氏(左)、中川エリカ氏(中)、乾久美子氏(右)



生活者として、建築家としてコロナ禍を過ごして

中川エリカ

本日はよろしくお願いします。今日、乾さんのお話をお伺いしたいと思ったのは、私が大学院を出て社会人になりたての頃、乾さんが設計される住宅作品に鮮烈な印象を受けたことがひとつの理由です。建築家が設計する住宅には何らかの個性が宿っているものですが、それを差し引いても、乾さんが設計される住宅は、ディテールや施工に対する感覚に独特なものがあり、他の建築家とは異なるスケールで勝負しているのではないかと感じていました。とりわけ初期の作品である《スモールハウスH》(2009)は、対角線で仕切るプランニングと風景との関係性もさることながら、内部のコンクリートを一回で打設しているという施工方法が建築に決定的な影響を及ぼしている。施工方法が建築のできあがりに及ぼすユニークさについて、大きな示唆があると当時から感じていました。最近は《延岡駅周辺整備プロジェクト》(2018)や《品川区立障害児者総合支援施設》(2019)、《厳島港宮島口旅客ターミナル》(2020)など規模の大きな公共物件を手がけられていらっしゃいますが、あらためて住宅についてどのようにお考えになっているかということもぜひお伺いしてみたいです。

まずは、コロナ禍の状況について、生活者、建築家として乾さん自身はどのように受け止めていらっしゃるのか、実感を踏まえてお聞かせいただけますでしょうか。

《延岡駅周辺整備プロジェクト》

乾久美子建築設計事務所《延岡駅周辺整備プロジェクト》(2018)
乾久美子建築設計事務所提供

中川エリカ氏

中川エリカ氏

乾久美子

よろしくお願いします。COVID-19が流行する前から、事務所の体制を朝型に切り替えていました。スタートを朝8時にすれば午前中にミーティングが2本ほどできて、1日全体の効率がいいからです。コロナ以降は仕事を切り上げる時間を早くして、19時前には事務所を出るようになりました。飲食店が20時でクローズしてしまう緊急事態宣言やまん延防止等重点措置下の夜に、バタバタと外食するのもどうかなと思うようになり、夜は家で食事をして、仕事は持ち帰れるものを自宅でやる、といったスタンスになったわけです。

乾久美子氏

乾久美子氏

中川

晩御飯を自炊されるなど、家にいる時間が増えたことによって、家での過ごし方や生活するための道具に具体的な変化はありましたか? たとえば私は、ホームベーカリーやヨーグルトメーカーといった調理家電が増えました。材料を仕込んで調理家電のスイッチを押し、時間が経てばパンが焼き上がったりヨーグルトができあがるので仕事と無理なく並行できて便利だし、家時間を少しでも豊かにできるなら気分もいいし健康にもいい。家庭菜園もはじめて、コロナ禍前に比べると暮らしに目を向ける機会が増えました。

私もパンは焼くようになりました。ホームベーカリーではなく、たまたまガスコンロに付属品としてくっついていたダッチオーブンが使えるのかなと思ったのがはじまりです。発酵は電子レンジに発酵機能があるのを発見して、捏ねるのも手持ちのフードプロセッサーにパン専用の羽があるのを見つけて、「こんなのもってたんだ」という嬉しい驚きを組み合わせていったらパン焼きに行き着いたのです(笑)。

中川

今までは事務所で過ごす時間がほとんどだったけれど、家で長く過ごすようになって、もっていた家電の知られざる機能を発見したということですね。

浅子佳英

僕も流行に乗ってバーミキュラやスチームオーブンなどを買いましたが、これらは必要なものというより、生活を豊かにするためのガジェットだと思うんです。中川さんのヨーグルトだって、わざわざ家でつくらなくてもスーパーで買える。わざわざ手間をかけて暮らしを楽しむというスタイルは、今後も続くと思いますか?

浅子佳英氏

浅子佳英氏

なかなか楽しいですからね、やめないかなと思います。

浅子

仕事と家庭という2つの居場所があるとすれば、大半の人はこれまで楽しみも仕事に帰属させていたと思うんです。仕事仲間で飲み会をやり、休日もゴルフに行く。それがなくなった代わりに家庭での楽しみを充実させている。比重が変わってきているのでしょうね。

確実にそうでしょうね。あと、私、走り始めて。去年の今頃の時期から、ほぼ毎日5kmくらい走るようになりました。晩御飯を家で食べて、持ち帰った仕事をして、飽きてきたらバーっと30分ほど外を走るんです。そしてまた仕事をする感じです。仕事の合間に気分転換になって楽しいから、コロナが収束しても続けると思います。

中川

見習いたいです(笑)。家での楽しみを三者三様に見つけていて、しかもコロナ収束後も継続するという意味では暮らしに対する価値観やライフスタイルを揺るがす経験につながっていることがことがわかりました。 では、次に建築家としての働き方の変化についてお伺いしたいと思います。建築は現場主義が根強いところがありますので、2020年の4月に第1回の緊急事態宣言が発令された時は、皆どのように仕事を進めてよいものか戸惑ったものです。事務所内での仕事はもちろん、出張も制限を受けて現場に足を運ぶ回数も減り、特に現場監理の進め方は影響を受けたのではないでしょうか。

働き方ということで言えば、コロナ禍で大きく影響を受けたのは郊外から都心に通勤をして窓のないオフィス空間で働くような方々かなと思います。こうした方々がコロナによる社会の変化を如実に体現しているのに対し、われわれ建築家はもともと自由で融通のきく職業なので、変化が彼らほどではないような気がします。もちろん中川さんのご指摘の通り、実際に現場がストップしてしまったり、現場事務所に来ないでほしいと言われたりすることもあって。ただそうしたことはあったものの、意外と現場って回るんだなあ、と思ったのが率直な感想です。最近では現場の方もZoomが上手になったりして、ある意味において、建築業界には新しい風が吹いたとも言えるのかと思っています。

この10年ぐらいではっきりしてきましたが、建設業界は人材不足が深刻で、これまでのように豊富な人材を投入しながら建築をつくることが難しくなっていますよね。現場だけに限らず建築家サイドも、設計実務を腰を据て地道に行おうとする人が減ってきていて、われわれのような設計事務所は人材の確保が大変です。そのなかでは、オンラインで多少でも業務が簡易になったことの意義は大きいと思います。

浅子

Zoomの導入で移動時間がなくなったので、特に遠方の現場はメリットが大きいですよね。

公共物件の設計や監理業務は書類主義的なところがあって、手続きに膨大な時間を費やすことが多いわけですが、そのあたりも、コロナを機にある程度省略できる風潮が生まれてきているように思います。それもありがたいですね。

浅子

それは本当に実感しています。コロナが収束したら、Zoomはやめてまた全員現場に集まる……というこれまでのやり方が復活するとお考えですか?

すべてを戻す必要はないと思います。コロナで従前とは異なる状況下に置かれたことで、本来ならば必要なかったことに対して皆が認識を共有できてきたのかと思います。このチャンスを逃すのはもったいないです。人材不足に悩む建築界にあって、不要な業務をなくすことは、結果として建築の品質を高めることにもつながるはずですから。

浅子

先ほど乾さんから、建築家は変化に対応しやすい職業で、不自由を強いられているのは満員電車に揺られて窓のないオフィスに通勤している方々だというお話がありました。そういう方たちに、どのような働き方や働く場所を提案できるか、建築家として悩んでいるところです。

先日、西村康稔経済再生相が、休業要請に応じない飲食店に対し、「金融機関としっかり情報共有しながら、順守を働きかけていく」と発言して大炎上したことがありましたよね。社会学者の西田亮介さんが指摘していましたが、今年の5月に政府がクラスターを分析した結果、高齢者施設が353件と最も多く、次いで企業等の職場、飲食店、学校・教育施設となっていました。高齢者施設は、その特性上そのまま続けるしかないし、学校・教育施設も同様に長期に渡って閉めることは難しい。残りの職場と飲食店のうち、政治的影響力の弱い飲食店が介入しやすかったからこそ、このような発言まで出てくるようになったのではないか。

エッセンシャルワーカーという医療や福祉、保育や小売業などリモートワークに移行できない方々もいらっしゃいますよね。本来もっとテレワークができるはずの職場が、大企業など政治的影響力からかリモートへのより強い移行が政策として打ち出されず、中小企業や個人事業主が多い飲食店だけが狙い撃ちにされてしまった感があります。

政治的な判断に社会が振り回されていて、割を食っている立場があるということですよね。場所に従属しないと成り立たないことの多いエッセンシャルワークの話も難しいと思います。仕事に従事する場所から離れられない人々と、場所を選べる人々のあいだに、働き方の選択性という点での格差が生まれつつあるからです。感染防止対策としてテレワークが推進されるのはもっともですが、その先に生まれてしまう新たなタイプの格差は、デリケートに扱わなければならないと思っています。

中川

たしかに、場所から自由になれる仕事と、なれない仕事、仕事の内容を選べるかどうかという違いは、捉え方によっては格差になってしまうからとてもデリケートですね。

加えて、たとえばスーパーのレジを打つ仕事は、仕事としては無人化することもできるだろうし、感染症対策の面では無人化したほうがよいのかもしれませんが、ご年配の方のなかには、レジを打っている方とおしゃべりするのが楽しくて買い物に行く、街に出ようと思う、という判断もあると思うんです。機能だけを満たせばよいというわけではないことを、あらためて実感します。そのような他者とのコミュニケーションをどんどん切断していってしまうと、ひいては街のあり方も根底から揺さぶられることになりかねない。場所と働き方をどう関係づけるかという視点は街づくりという大きな問題にもつながるものだと、お話を伺いながら考えさせられました。

新興住宅地、町家、農家という住体験

中川

次は話題を変えて、乾さんが生まれ育った住環境についてお伺いしたいと思います。本シリーズではさまざまな世代の方に、「育った住まい」についてお尋ねしようと思っているのですが、このことは、世代による原風景の違いを浮き彫りにしてみたいという動機と連動しています。どのような土地に住んでいたか、どのような家で育ったのかということは、建築家それぞれの建築観に大きな影響をもたらすと思うのです。たとえば私は1980年代生まれ、東京出身なのですが、ずっとマンション住まいで、一戸建てに暮らしたことがないんです。

乾・浅子

  へえーっ!

中川

ですので一軒家や庭に対する渇望が強く、それが今の自分の設計にも影響していると思っています。現在は一軒家を借りて事務所にしており、人生初めての戸建て空間を満喫しているところです(笑)。

私が育ったのは兵庫県の宝塚市の、阪急電鉄がつくった新興住宅地です。あのあたりは大正あたりから宅地の開発が始まっていますが、実家があったのは開発の最後期につくられた比較的小規模な住宅地でした。父が阪急電鉄に勤めていた関係で同僚の設計士さんが設計した、陸屋根がかかるモダンな外観の家でした。駅舎の設計をされていた方だったからか、どこか駅舎風なんですね。ただ、室内はごくふつうで、在来的なグリッドをベースに和室もあるようなプランニングのものでした。

原体験ということで言えば、祖父母の家にも強い影響を受けているかもしれません。両親ともに実家が大阪で、日曜日はどちらかの祖父母の家に遊びに行くのが常でした。父方の親は天満のあたりに住んでいて、かつては町家が多く建ち並んでいたエリアです。京町家とは異なりますが、大阪ならではの風情が漂っていました。近くに裁判所があるためか法律関係者が多く住んでおり、祖父も道路に面した間(ま)で弁護士事務所を営み、中庭・奥庭、蔵があるという典型的な町家空間でした。天満は大阪大空襲で街の大半が焼けてしまったせいか、2階建てほどの高い防火塀が立っており、それが区割りにもなっていました。祖父の家の奥庭もそうした高塀に囲まれており、子ども心ながらに都市ならではの生活のあり方に興味を覚えていました。

一方、母方の実家は大和川を越えた府中南部の農家で、当時はまだ田畑や溜め池がそこここに残っていました。広い敷地を活かして祖母が幼稚園も営んでいたため、家と幼稚園が入り混じったような面白い環境でしたね。自宅である都市近郊、父方の実家の都市、母方の実家の近郊農村という、異なる土地と住まいを体験できたのは貴重だったと思います。

浅子

面白いですね。そのような住体験は乾さんの設計にどのような影響を及ぼしたのでしょう?

自分で言うのも面映ゆいですが、どんな与条件下でも気にせず設計してしまう、というところでしょうか。異なる空間のバリエーションを体験していたことは活きているのかもしれませんね。

逆に中川さんとは違って、マンション生活は原体験としてないんですよ。どの家も地べたにくっついているんです。天満ならそのまま中之島や北浜へ遊びに行けたり、母方の実家の農家は広大な敷地ならではのミクロコスモスがあった。宝塚の自宅は六甲山の山裾だったので、その界隈の裏山に入ってウロウロするのも好きでした。地べたにつながっていることの面白さは原体験として私のなかに根付いているのだと思います。

浅子

建築家になろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。

父が毎週買ってくる『週刊新潮』の巻末に「マイプライバシー」という連載があったのですが、そのページを開いて個人住宅の写真と間取り図を見るのが、小学生の私にはものすごく楽しかったんです。また3人兄妹なのに子ども部屋が2室しかなくて、どう改造すれば末っ子の私の部屋ができるか、ずっとプランニングを考えていました。ただ、さすがに改築や増築は無理なので、結果としては、モノの再配置を家族にプレゼンテーションすることにしました。「物置に入れられているモノをここに移動します、そうするとこの物置が空いて私の部屋になります」と。その甲斐あって、中学生になって、念願の個室が叶いました。

また小学生の時に、自然体験活動の一環で行った少年自然の家で建築空間の楽しさを知ったことも影響しているかもしれません。何処へいったのか、誰の設計だったのかまだ突き止められていないけれども、三角形のちょっと変わった建築で強く印象に残っています。

物心ついてからは絵を描くのが楽しくなり、中学・高校では美術部に所属して、美大に行けたらなあ、と思っていました。ただ技術的にはそこそこうまく描けても、本当の意味での絵の才能がないことに気づいてしまって。そんななか、理系の普通科で数学と物理の点数がよかったので、美大の建築科はちょうどいいなと思って受験しました。

中川

乾さんのプランニングには細部まで煮詰めきったような緻密さがあります。原点は、小学生の久美子少女が心躍らせながら読んでいた「マイプライバシー」にあったのですね。

それが良いことか悪いことかはわかりませんが、小学生の頃の初心を忘れずに設計を続けたいものです(笑)。

浅子

僕は「地べた」にとても納得しました。言われてみれば、乾さんの建築って、地面とつながった部分への注力が感じられるなと。たとえ接地していないピロティでも、《延岡駅周辺整備プロジェクト》の極端に低いために手が届きそうな2階の床など、地面との関係性をつくるような寸法を考えられている。

中川

「地べた感」のお話は、生まれ育った土地の風景において、建築とそれ以外が分かれていないことも重要なのではないかと読み取れました。つまり、街と建築を連続した体験として捉えていた感覚は、その後、身体を通じて建築観となり、実際の建築にも物象化していく。考えが先にあって身体感覚につながるのではなく、身体感覚が先にあってそれが考え方を生むという逆転が興味深いです。

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公開日:2021年09月22日