鼎談 1

持続可能な共有資源と、ネットワークとしての建築

連勇太朗(建築家、CHAr)+貝島桃代(建築家、アトリエ・ワン)+門脇耕三(建築構法、建築設計、アソシエイツ)

連勇太朗氏、貝島桃代氏、門脇耕三氏

左から、連勇太朗氏、貝島桃代氏、門脇耕三氏



現在の学生の動向、建築教育について

連勇太朗

今日は「これからの社会、これからの住まい」をめぐって、貝島桃代さんと門脇耕三さんをゲストに迎え、お話をうかがいます。よろしくお願いします。「これからの社会、これからの住まい」では、建築家の浅子佳英さんが2年にわたって刻々と変化する社会のなかで建築はどうあるべきかという議論を継続してきましたが、今年は私がそのバトンを受け取り、さらに加速していくさまざまな変化に応じた私たち建築家の役割や、建築に限らず住まいやまちに関わる領域で仕事をしていくことの可能性や課題を議論していきたいと思っています。

今回の鼎談が「これからの社会、これからの住まい3」で1年間議論していく際のひとつの道標になればいいなと思っています。じつにいろいろなテーマを扱いたいのですが、今日は大きく3つのテーマを用意しました。「現在の学生の動向や建築教育について」「社会の変化を受け、今の建築の状況をどう考えるか」「建築固有の問題としてのネットワークについて」です。追って説明をしますが、このようなテーマを可視化することで、こんにち生起する建築的諸問題が共有できるのではないか、ということを考えています。
まず、「現在の学生の動向や建築教育について」、具体的に言えば、建築業界のなかで最も若い世代である学生たちの関心のあり方について、教育者でもあるお二人のご意見をお聞きしたいと思います。貝島さんは、日本(筑波大学)とスイス(スイス連邦工科大学チューリッヒ校、ETHZ)で学生たちの指導をされてきました。また門脇さんは、明治大学で長きにわたって教鞭をとられています。お二人は最近の教育現場の動向や、最近の学生の関心をどのようにご覧になっていますか。

貝島桃代

よろしくお願いします。まず、私は約20年間勤めた筑波大学芸術学系建築デザイン専攻を、今年(2022年)3月で退任しました。筑波大学は、学生は一学年10人前後と非常にコンパクトな環境で、一人ひとりの個性を引き出すことを重視した指導ができ、教育環境として恵まれていたと思います。また、筑波大学の建築デザインは工学系ではなく芸術系に属します。それゆえ彼らは技術よりも、自身の微細な感情や高い感受性に由来する気づきがものづくりの大きな原動力になっています。それは、自分が学んだ日本女子大学や東京工業大学の学生たちとは大きく異なる性質でした。したがって、私自身彼らから学んだこともとても多くありました。

一方、ETHZは現在5年めに入りましたが、日本の大学とは学校の質がまったく異なります。そもそもETHZは、小さな国が集まって連邦国家となったスイスが産業を発信していくためにつくられた学校です。そのため、学校と産業がとても密接に紐づいている。かつての封建的な社会や近代産業社会が有していた階層や構造を引きずった社会のなかで形成されてきたため、学生たちが産業集団のなかの一人として絡め取られてしまうような強い構造がすでにあるわけです。近年の建築学生の増加とそれにともなう大衆化、また建築が扱う課題の多様化が進む現在において、学生が産業集団における「駒」ではなくどのように存在できるのか、あらためて考えさせられています。

こうしたなかで、現在ETHZの状況や関心も、旧来的なものから次世代のフェーズに移行しつつあります。例えば、CO2排出量削減をはじめとする環境問題、それとともにある経済活動や産業の独立性のバランスをどう捉えるのかなど、環境およびEUをはじめとする国際的関係性について強く意識させられますね。そうした意識の源流にあるものとして、学問の自由や教育の自律が保障され、学生が学びたいことを学べる学校にしていきたいという意識も高いのがETHZであるとも言えるでしょう。きっと、近年の「#MeToo」やBLM(Black Lives Matter)といった社会運動の影響も大きく受けています。スイスはもともと白人が多い国でETHZもやはり白人男性の教員が多く、彼らによって価値観がつくられていることもあります。しかし近年移民が増加し、多様な人種、多様な背景を持つ人々が増えていくなかで、これからのETHZはどのように開かれた学校になっていくべきなのか。アジア人であり女性である私は、そうであるからこその期待も含め招聘されているのだと、あらためて気づかされます。

このような理解のうえで、今年は新しいチャレンジをしています。私たち教員は5年に一度、建築学部の総意としての長期的戦略を大学および連邦政府に提出する機会があります。この総意は、今までは教授会を通じてトップダウンで決定してきましたが、私たちはそれをボトムアップでかたちにしていくことにしました。ETHZの建築関係者は、学生、アシスタント、教員全員を数えると約2,000人にもなりますが、スタジオごとに、全員でワークショップをしています。「建築を学ぶうえで基礎となる主題はなにか」「ETHZ出身の建築家として、卒業後は社会にどう貢献したいか」などのテーマで、彼らのビジョンや、そのために必要だと考えているさまざまな学問領域やスキルを知る機会をつくりました。これまで知ることのなかった学生の声を聞くことができ、教員たちにもとても好評です。

当然スタジオごとに問題意識の強弱や方向性の違いは出るものの、そのなかでも多くのグループで見られたのは、建築のあり方を決定していくうえでの価値基準をどう見つけていくか、という問題です。サステイナビリティや環境に対する問題意識、それらを価値基準としたいという共通性があるのはもちろんのことですが、その背景にあるのは、なによりもまず変化を求める姿勢なのだと思います。社会が硬直化し、価値観が変わらないことが、若者たちにとっては楽しくないんでしょうね。何かが少しずつでも前へと動き、変わっていく。自分が社会や地球に貢献でき、良い方向へ動いていくには建築はどうあるべきか、という関心を持っているように見えました。

戦後の建築教育は失敗だった

門脇耕三

今日はよろしくお願いします。まず建築教育について言うと、ヨーロッパと比較して、日本にはたくさんの大学がありますね。戦前は旧帝国大学といくつかの私立大学しか存在せず、建築家は大学の教育を修めた数少ないエリートであり、一般の普請は大工の仕事でした。しかし戦後、建築学科を擁する私立大学が林立し、また建築家に対しては一級建築士、大工に対しては二級建築士という資格が整備され、現在に至ります。

貝島さんの最初のお話にもありましたが、僕が勤める明治大学の理工学部建築学科も、創設当時は建築産業の「駒」となる学生を生み出すためにつくられたのだと思います。かつて建築史家の鈴木博之先生は1980年代に「建築は兵士ではない」との箴言を残されましたが、しかしであるからこそ、当時は設計実務者も学生も「兵士」的だったのだと想像します。ここで言う「兵士」的とは、代替可能、交代要員がいくらでもいる、という意味です。

しかし現在、この人材輩出システムが建築産業の現状とミスマッチを起こしている。端的に言えば、現在は建築学科が林立したときのような建築不足の時代ではない。むしろ、建物は量的には過剰にある。いま、建築学科を卒業する人は毎年全国で1.4万人近くいる一方、大工は毎年約2万人も減少しているそうですが、この数字は建築産業のゆがみの表れと言えるでしょう。

とはいえ、現在の明治大学の学生たちを見てみると、彼らは兵士である感じはまったくありません。もちろん、現在の教育がそうした人材育成をしていないからです。僕は端的に言って、戦後の建築教育は失敗だったと考えています。もちろん全員ではないでしょうが、さまざまな記録を読んでいると、私学で教職に就いた帝大出身のエリートたちは、その「駒」的な学生たちをこう言ってよければ心のどこかで馬鹿にし、兵士的に扱う教育をしたように思われる。結果的にそれが、戦後のまちの風景の失敗にもつながっているのではないでしょうか。かつての大工たちが在来構法でつくった建築よりも、戦後の大学卒の一級建築士たちがつくった建築の質が低いことが、それを物語っている気がするのです。2021年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の展示内容を練っていく際にも理解が深まりましたが、戦後の大工たちが考えてつくりあげた住宅の配置計画のなどにみられる建築的な知性の高さには本当に驚かされます。

現在の明治大学は、もちろんそんな兵士を養成するような教育はしていません。今やっているのは、いかにこの学生数の多い状況をポジティブに社会に活かすかという取り組みです。建築家があふれている日本の状況をどうポジティブな結果につなげていくかという課題は、建築産業分野でも問われているでしょう。明治大学では、「先生」対「学生」という固定的な教育図式を完全に辞め、貝島さんのお話にもあったようなボトムアップ型の議論を展開しています。例えば、設計演習のエスキースにおいても、マン・ツー・マンの指導ではなく、学生たちの提案を全員でディスカッションし、教員は議論を整理・発展させる司会者に徹する。そしてここで紡いだ集合知を、個人が作品に反映させていくというスタイルを実践しています。

身の回りの世界を大きな世界へブリッジするために

門脇

学生のあいだではやはり環境問題に対する関心が強まっていると思います。環境問題の捉え方は以前よりもずっと広範になっていて、断熱をはじめとする環境性能ばかりではなく、サーキュラーエコノミーを意識した提案が増えているし、旧態依然とした先進国による環境資源の搾取構造に向き合おうという意思も見受けられます。身近な廃材をどのように循環させるか、といった提案も増えてきました。要するに「職能を通じて、自分の身の回りの世界を良くしたい。そんなスキルを身につけたい」というマインドの学生が、ここ10年ほどでとても増えていると感じます。それは設計に限定されず、ちょっとした工具が扱える、材料のことを知っている、自分で工夫して組み立てられるなど、獲得したいと思うスキルの内容や範囲が具体的に広がっていることにも通じています。しかしあくまでも、自分が感知できる範囲なんですね。手が届く範囲、と言ってもいいかもしれない。そのような範囲での関心が高まっているように感じています。

私は2021年4月から明治大学に着任し、学生を指導する機会が増えました。驚いたのは、一昔前にはほぼ議題になることのなかった資源循環や環境共生などのトピックが学生たちの大きな関心になっていることです。ほかにも私が担当する「建築計画」という学部3年生向けの授業で、「これからの建築計画の対象は宇宙や情報環境も含まれるし、建築の概念は環境やサービスの領域までも広げられる」という話をしたところ、学生たちからそれまでとは違う強い関心や反応があったことも非常に面白く思いました。「変化」への希求はある。しかしながら、ビジョンを掲げ、社会を思いっきり変えてやろうという熱意を持っているかといえば、おそらくそうではないでしょう。門脇さんがおっしゃったように、どちらかといえば身の回りへの感心のほうが強いように思います。貝島さんが教えるスイスは日本に比べて環境問題への意識がずっと高いと思いますが、学生の意識や関心に違いはありますか。

貝島

現在ETHZで教えているドイツの建築家Barbara Buserのスタジオでは、学生たちを解体現場に連れていき、廃材を集めてキオスク(小規模な建築)をつくるという授業をしていますが、たしかにみんな意欲的に取り組んでいます。また彼女は、こうした実践に加え、材料ごとの職人や技術に関する教育もていねいに行っている。そこで彼女が意図しているのは、材料が持つ産業的あるいはクラフト的なネットワークを組み換えて応用し、環境以外にも、建築文化自体のサステイナビリティを鍛えていくことです。

また歴史的に、スイスでは多極共存型のデモクラシーが形成されてきました。要は、反対意見を持つ人同士が、互いに安心して共存できるべく社会がつくられてきたのです。しかし現在、それが過度な流動化、グローバル化によって崩れつつある。こうした状況下で、どうすれば今後もこうした民主的な社会を維持できるかという課題意識は、彼らにもあると思います。しかし連さんのお話にもあったように、彼らも現状をつくり変えたいけれど、それが難しいことをよく理解している。古いものや伝統的なものにしがみつき、それを守っているだけでは世界が固定化してしまう。だからこそ、既存のものを組み替えること、変えていくという行為に嬉々とするのでしょう。自分が置かれた状況に対するアクションとして現実的かつ効果的だし、何より感覚的に共感できるのだと思います。

先ほどお二人が話していたように、ETHZの学生たちも、自分の身の回りの世界をより大きな世界に架橋(ブリッジ)していくようなビジョンに対しては、まだ控えめというか、ギャップがあるように見えます。私たち教員もどう教えればいいか考えていますが、とても難しい。ものや人から成る社会の組み替えを、もともとの多様性を維持したまま行えるか、という授業ができればいいなと思っています。そこで私が重視しているのが、アナログなドローイングの課題なんですね。住宅や集合住宅といった身の回りの建築やそれに対する関心を、より大きなレベルやスケールへ、あるいは抽象度が高いメタレベルのテーマに連続させていく。自らの手を使って描いてみることは、そうした感覚や理解力を養っていくために有効だと考えています。特に若いときにこそ、こうした身体的な訓練をやっておくといいと思いますね。

現在の流動化している社会においても、結局最後に礎となるのは、自分の身体だと思います。経験を知性に変え、身体化しているか。蓄積のある体こそが最後の砦になる。私が学生たちにドローイングを課すのも、情報の身体化の訓練を意図しているからです。

社会の変化を受け、今の建築の状況をどう考えるか

貝島さんのお話に「既存のものを組み替える」というキーワードがありました。それは現在、建築において重要な知性のひとつになってきていると思います。先ほど議論したように、既存の巨大なシステムを批判し転覆しようというモチベーションは、若い世代にはほとんどないでしょう。資本主義社会の持続に懐疑的ではあるけれど、しかし反資本主義やポスト資本主義のようなかたちで安易に否定することも乗り越えることも現実的ではない、という態度があるように見受けられます。私自身もその感覚をかなり強く持っています。そういう状況下で、どうすれば現状の資本主義の性質を変え、どのようにしてオルタナティブなシステムをつくっていけるか、そのことについて考える必要があるのではないでしょうか。

こうしたとき、ゼロから新しい社会システムを発明しようとするのではなく、既存のネットワークのなかで機能不全を起こしている部分を発見し、部分と部分の関係性を組み換えることで連携や循環を回復させようという発想に向かうのは、とても自然なことです。この回復の作業にはフェティシズム的に取り組むこともできるし、その発想をさまざまな社会的・政治的な文脈につなげていく方法もあるでしょう。この作業によって現在新しい形態の表現が生まれるつつあることを感じています。

そういう意味では、門脇さんが「第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館 ふるまいの連鎖:エレメントの軌跡」(主催:国際交流基金、2021)でやったこと──1954年に建てられた東京近郊の木造住宅「高見澤邸」を解体し、部材を丹念に記録したのち、イタリアに輸送して現地で再構築をする試み──は、文字通り「組み替え」という建築的な操作を通してつくられた展示でしたが、そこにはフェティシズム的な作品表現の面と、既存の生産や社会を問い直すような面、いずれもを見ることができたように感じました。

第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示

第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示(出展作家:長坂常、岩瀬諒子、木内俊克、砂山太一、元木大輔、長嶋りかこ)
撮影=Alberto Strada


第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示

撮影=Alberto Strada


第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示

ワークショップで廃材を用いて製作した家具
撮影=槙山武蔵


第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示

撮影=槙山武蔵


門脇

ヴェネチア・ビエンナーレ日本館の展示はさまざまな国から関心を集め、高評価をいただきました。会期後の現在は「高見澤邸」をノルウェーのオスロで再建し、コミュニティ・ギャラリーにするプロジェクトが進行中です。しかし一方で、課題も感じています。先ほど貝島さんが「身の回りの世界を大きな世界へブリッジする」とおっしゃいましたが、日本館ではそれができていない。展示における日本館の試みは、やはり身の回りの世界の範疇なんですね。ひとえに「身の回りの世界を大きな世界へ持っていく」といってもそこにはいろいろな意味が含まれうるわけですが、僕がビエンナーレでやったのは「異なるバックグラウンドを持った世界に持っていく」ということでした。これはできたけれど、その先でスケールを拡大することができていないと思っており、このことについて今でも思案しています。

オスロで続くプロジェクト

オスロで続くプロジェクト。協働しているアレクサンダー・エリクソン・フルネス氏(右)、岩瀬諒子氏(左)との議論


オスロで続くプロジェクト

ともに撮影=Lars Eivind Bjørnstad


現在の建築で起きている「エレメントやオブジェクトの関係をつなぎ直す」という試みだけを見れば、さまざまな表現のバリエーションが出てきているように思いますし、そこに新しい可能性を感じます。しかし、そうした動向をどうやって社会に広げ、もっと言うと新たな系として「定着」させるのか、それが同時に問われているような気もします。それができれば、社会のなかに新しいシステムを複層的に増やしていくことができます。手法としては、わかりやすいところで言えば、ビジネス化してサービスやプラットフォームに落とし込むといった方法がありますが、こうした定着を意図した提案が建築の世界ではまだまだ未熟だと感じています。

門脇

僕もまさに同じ課題を感じています。かつての成長時代の建築家とは異なる手法でもう一度どうやってマスに訴えていくことができるか、考えていく必要があるのです。

もう一言付け加えると、僕が日本館でやったことは感覚的には「名づけ」に近い行為だったと思います。最初に、戦後の建築家や建築学生たちは非常に「兵士」的だったという話をしました。「高見澤邸」は昭和のとても一般的な住宅ですが、それは言い換えれば大量生産された戦後住宅のなかのひとつ、つまり代替可能な個であり、名前を持たない、まさに「兵士」的な建築です。私たちは今回、こうしたアノニマスな住宅の建て替えの変遷、あるいはその構成部材の来歴をつぶさに調べ、これらが辿ってきた履歴を明らかにしたわけですが、それはつまり「固有性の回復」であり、 キュレーターの保坂健二朗さん(滋賀県立美術館ディレクター)の言葉をお借りすると「モノのコト化」をしたのだと思います。かつての量産型社会システムとは、そのシステムにもとづいてモノから固有の名前を剥ぎ取ったり、統一の番号を振り直す行為によって成立していました。そのような世界でつくられたものを、自分の目の届く範囲で再び名づけることで、モノに固有の価値を生み出し直した。スケールという観点での課題はあるけれど、この行為のなかにもまた別のブリッジの可能性があるように感じています。

「高見澤邸」をめぐって共感を得られたのも、こうした問題意識を建築家が同じく抱いているからなのでしょう。どの国もどの建築家も、自国の戦後的な建築や生産体制の機能不全からいかに回復するかを課題と感じているのだと思いました。

貝島

なるほど、「名づけ」だったというお話には非常に共感しました。アトリエ・ワンが『メイド・イン・トーキョー』(2001)や『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』(2001)でやっていたことに近いと思います。門脇さんの日本館での試みが固有名型だったとすれば、アトリエ・ワンのはニックネーム型だったと言えるんじゃないでしょうか。ニックネームをつけることで、その建築や場所の個性が客観的に立ち上がってくるような感覚が、たしかにありましたね。

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公開日:2022年05月25日