鼎談 3

生成的コミュニケーションから考える、これからの計画論

連勇太朗(建築家、CHAr)+伊藤亜紗(東京工業大学未来の人類研究センター)+安藤勝信(株式会社アンディート)

左から、安藤勝信氏、伊藤亜紗氏、連勇太朗氏

連勇太朗

「これからの社会、これからの住まい」3回目の鼎談は、美学を専門とされている東京工業大学教授の伊藤亜紗さんと、株式会社アンディート代表で、不動産オーナーとして東京世田谷区で新しいかたちの賃貸運営をされている安藤勝信さんをお招きしています。分野の異なる3人ですが、今回はこれからの建築、街、都市の新しい計画論について考えたいと思います。
例えば国内の建築学には「建築計画」という領域がありますが、こうした計画論の系譜は、1960年代からさまざまなかたちで批判が展開されてきました。最もわかりやすい批判のひとつはビルディングタイプをもとにした施設計画学に対する批判です。これは、行政を含めた国家的枠組みによるトップダウン的計画論に対する問題意識も背景としてあります。また60年代にさまざまな領域で起こった権威主義批判にも通じています。そうした計画論へのカウンターとして、例えば参加型デザインが注目されるなどボトムアップ型のモデルが注目され新たな系譜をかたちづくることになります。

近年、若い建築家がまちづくりや場の運営に積極的に関わる動きがありますが、やっていることの表層だけを見れば60年代以降の権威主義批判としての参加型デザインやボトムアップ的アプローチとあまり変わらないことをやっているようにも見えます。しかし、2000年代以降の国内外の都市やまちに積極的に介入していく建築家の動きは、そうしたものとは本質的に異なる性質を持っているのではないかと思っています。それは「他者」や「専門性」に対する根本的な認識の変化と関係しているのではないかと思います。今日は、他者とどのように関係をとり結び、他者をどのように認識していくかということを考えながら、最終的に新たな計画論を構想するきっかけをつかめればと思っています。さっそくですが、まずはお二人にそれぞれの研究と実践についてお話をしていただきます。

「計画」から距離を置き、「利他」的な場をつくる

伊藤亜紗

よろしくお願いします。私は美学を専門としています。日本だと美学はあまり馴染みがなく、「◯◯の美学」のように、美しさに対する趣きといったニュアンスで使われることが多いかと思います。学問領域としての美学は哲学に近く、両方とも言葉をベースとして事象を分析していく学問です。そのなかで哲学は、時間とは何か、存在とは何かといった問い自体を言語で立て、それを解くためのツールも言語です。一方美学は、そんなに言語を信じても大丈夫なのかという疑いが前提にあります。例えば人間の感性や身体の感覚、また芸術作品を見たときに受ける印象など言葉で説明するのが難しいことは多々ありますよね。こうした言葉にしにくいものを、言葉を道具にして分析していくのが美学です。言葉と相性の悪い感性に対しあえて言葉をぶつけると、これをどうやって言語化するのかという困難によって緊張感が生まれ、言葉も磨かれていきますし、感性も言語を使うことでより深く分析・分解ができるのです。

美学は18世紀にヨーロッパで成立した学問ということもあり、白人男性の身体をベースに成立しているところもあります。例えば出産は、女性にとっても男性にとっても身体的に非常にインパクトのある出来事なのに、美学の伝統にはほとんど出てきません。障害や老化も同様です。私は、美学のどこか強く限定されている側面に違和感を持ち始めました。

それで、具体的には視覚障害の方、四肢を切断された方、幻視を持っている方、吃音の方、認知症の方など、分野は問わずさまざまな障害や病気を持った方々にインタビューをして、彼らがどのように身体を使っているのか、その体だからこそ見える世界の姿を文章に書き起こすという活動をしています。そうすることで、そもそも全員が一人ひとり違う身体を持っていることのリアリティに迫りたい。

私が所属している東京工業大学では、2020年に「未来の人類研究センター」という人文社会系の研究機関を開き、「利他」をテーマとして、同僚の人文社会系・理工系研究者と一緒に研究を進めています。連さんから「計画」というキーワードが提示されましたが、利他の敵は計画なんですよね。利他とは一般には「私があなたのために何かしてあげる」といった奉仕や善行の意味が含まれていますが、それは「あなた」をコントロールすることになりがちです。利他と似た言葉に「贈与」がありますが、これは「与える gift」の意味と同時に毒という意味を持っています。与えることは、相手に対して「お返しをしなければならない」という返礼義務を生じさせることでもある。与えることが続くと、上下関係が生まれていきます。贈与の持つ人を支配するという毒をどう解くかという視点に立って、計画から距離を置き、従来の能動的な行為ではない利他を考えたい、と思っています。計画からいかに離れつつ、かと言って偶然に任せるのではなくて、いかに利他的な現象が起こる場をつくるか、場所や建築的な視座も持ったアプローチを大事にしています。

入居者とともにコミュニティ型の賃貸住宅をつくる

安藤勝信

こんにちは。僕は世田谷区の大蔵という地域で不動産運営、いわゆる街の大家さんをしています。僕自身大蔵で生まれたのですが、駅から徒歩20分ほど離れた家の周辺には都市農園が広がり、実家は賃貸アパート経営と兼業して農業を営んでいました。

リーマンショックの直後に勤めていた会社を辞め、法人を立ち上げ、家族が所有していた不動産を法人で購入しました。当時は母が統合失調症を患い、祖父も90代に差し掛かり、家族が脆弱な状態でした。畑の維持管理の問題、増えていくアパートの空室......と問題がじわじわと積み重なりつつありました。これを自分なりに改善していこうと考えました。

最初に今僕たち家族も住んでいる10世帯のコミュニティ型の賃貸住宅についてお話します。そこには今、認知症のお母さんとその娘さんが別々の部屋を借りて住んでくれています。面白いことに、ほかの住人がお母さんと仲良くしていて、お母さんの部屋をシェアスペースのように使い、自由に部屋を出入りしている関係性がつくられています。単身の女性が多く暮らしていて、それぞれの実家には同じ年代の母がいる。自分の家族が認知症になってしまったらうまく話せないかもしれない、でもその前に隣人として気楽に話せるお母さんがいるという環境がこの賃貸住宅にはあるのだと思います。

また別の物件で、築年数の経過したアパートが駅から遠い立地にありました。従来の不動産運営では家賃を下げたり、不動産会社への広告料を追加することなどで入居を促すのが一般的です。ただそのやり方に漠然とした違和感があったので、まずやってみたのは内装を剥がして建物をスケルトンにし、先に住みたい人を探して、住まい手と一緒に部屋をつくるというやり方です。この取り組みによって駅から遠い古い物件にもかかわらず問い合わせが増え、空室に困らないアパートになっていきました。
入居希望者の内見中に隣の住人がお茶を持ってきてくれたりと、自然なコミュニケーションが生まれ、入居者たちによる自発的なコミュニティ型の賃貸住宅がつくられていきました。

一緒に部屋をつくる

1階をデイサービスにした賃貸「タガヤセ大蔵」

続いて「タガヤセ大蔵」についてお話します。築30年ほどの木造のアパートも所有していたのですが、ここでも空室が目立ち、1階はとくに不人気でした。素敵な部屋に改修するというハード面の改善も難しく、建築家に相談してもなかなか良いアイデアが出ません。そんな折に祖父が要介護となり、病気の母、そして生まれたばかりの子どもと、家族のケアと空き家の問題が同時に起こります。

祖父を介護施設に託して、問題を抱えた木造アパートは解体し、新築アパートを建てサブリースとして運用する選択肢はありますが、どこか問題を先送りにするような違和感がありました。また、福祉施設をいくつか見学したのですが、施設としての要素と空間全体のデザインがどこかしっくりこなくて、自分がここで暮らしたいかと言われたら快諾はできないな、と悶々とした思いを抱えていました。地域の施設を歩いている際に、祖父の介護を担うケアマネージャーから「福祉は住宅に始まり住宅に終わる」という言葉を教えてもらいました。これが僕にとっては衝撃的な言葉でした。周囲に都市農園が広がる木造アパートの可能性を感じ始め、ケアマネージャーに「うちの空き家を見に来ませんか?」と声をかけたことが始まりで、木造アパートを地域に開かれたデイサービスにする「タガヤセ大蔵」というプロジェクトが始まりました。

タガヤセ大蔵、1階はデイサービスとコミュニティカフェ

タガヤセ大蔵は、認知症を理由に通所される皆さんが料理をつくって食べることができるデイサービスです。利用者が野菜を収穫しに畑を訪れて、それを調理して皆で食卓を囲んだり、施設の一部を地域の居場所として開放し、コミュニティカフェなど地域でやりたいことをやれる場を同じ空間につくりました。やがて地域の人も畑の管理に協力してくれるようになり、収穫した野菜を地域で売ることも始めたり、日頃野菜買ってくれる人を招いてみんなで料理をつくるイベントも開かれました。こうして古い木造アパート、手入れがされていなかった都市農園、家族のケアといった、一見別々の問題が「タガヤセ大蔵」を通して繋がっていきました。

コミュニティ型賃貸住宅のその後と、小屋型シェアハウスの計画

その後、祖父は自宅で家族や地域の人々に看取られながら亡くなりました。一方で、祖父の亡き後に相続税の問題が降りかかってきます。既存のコミュニティ型賃貸住宅の駐車場スペースが相続の対象となりました。そこで単に売却するのではなく、祖父をはじめ先代の人たちの思いや、それを受け取った僕の思い、少しずつ実感していた地域の潜在的な面白さを伝える場を設けて、ともに開発を進めることができる売却先を探しました。そこで手を挙げたのが、近所に住んでいるコーポラティブハウスの開発者でした。僕の思いに共感してくれたその開発者は、コミュニティが醸成された既存のアパートとの繋がりを持たせ、駐車場跡に11世帯の賃貸住宅を新たにつくる提案をしてくれました。職住一体型の住まいを設け、敷地を分断せず広場として繋げて、小さな村をつくる、というものです。

小さな村のような住まい

祖父の住んでいた家は、都市計画道路開発の関係で更地となり、現在その跡地に小屋型のシェアハウスを計画しています。小さな家を点在させてつくり、その余白を緑地や畑で繋ぐ住まいの構想です。すでに、僕の義母と地域で環境活動をしている女性に住んでもらうことになっており、その女性に現代版「下宿のおばちゃん」役になってもらって、今後少しずつつくり増やしていく小屋の住人は、彼女をはじめ、周囲の人たちと連携しながら住んでいきます。またシェアハウスの共益費を集め、縁のある人で食べられるようにする。これを、家庭でご飯を食べることと、カフェでお金を払ってご飯を食べることの中間にある「縁食」と考えています。

大家さんというと一定のイメージがある方もいるかもしれませんが、都市の暮らしや世田谷の環境、地域の人との関係性を持って、新しいようでいてどこか懐かしい暮らしをつくっています。

「さわる」と「ふれる」、伝達モードと生成モード

ありがとうございました。伊藤さんからは、利他を与える側/受ける側という関係が固定されるとしんどい、そしてそうした与える側の論理はある種の計画性に基づいているというお話がありました。建築やまちづくりの領域においても、人、場所、ものなどあらゆるアクターの相互の関係性を動的に捉える視点が重要であるという認識が大きくなりつつあります。また伊藤さんは『手の倫理』(講談社選書メチエ、2020)のなかで、とても重要な問題提起をされていますね。本書では視覚偏重の西洋哲学による、対象物と距離をとって客観的に捉える認識のモデルに対し、触覚、それも「さわる」のではなくて「ふれる」ことから見えてくる新しい認識のモデルを提示されていますが、少し説明していただけるでしょうか。

伊藤

ありがとうございます。『手の倫理』は2020年の秋頃に刊行した本で、コロナ禍という物理的な距離が重視される状況下に、偶然にも触覚をテーマにした本を出すこととなりました。触覚と言ってもテクスチャーの意味ではなく、人の体に接触するとはどういうことなのかというコミュニケーションとしての触覚です。

日本語には「さわる」と「ふれる」という接触に対応する動詞が2つあります。一般的には「さわる」は物体に、「ふれる」は人に対する接触として使われることが多いですが、実際はもっと複雑で、人間に対して「さわる」こともあるんですよね。例えば、医者が患者の体を診察するときの接触は「さわる」です。医者は専門的な知識を持って患者の体に起こっている状況を分析する立場なので、ここでの接触は一方通行な行為です。「ふれる」というのは、私がふれているときには相手も私のことをふれている状態であり、物理的、認識的なレベルで双方向的なのです。

「さわる」は一方的で、計画通りの接触、「ふれる」は双方向的で、相手の状態に応じた計画の修正が起こっている接触です。例えば怪我している人の患部を大胆に「さわっ」たら、それは暴力的な接触になるでしょう。でももし相手が緊張していることを感じ取って、手を緩めるとか接触する場所を変えるといった微調整をするとしたら、それは「ふれる」になります。患部に接触するという計画に対して、リアルタイムのフィードバックによる微調整が働き続けているのが「ふれる」ことなのです。別の言い方をすると、自分が接触している相手が発する情報を自分はつねにキャッチしているよ、というメッセージを含んだ接触が「ふれる」ことです。
ケアの場面ではとても重要で、例えば体があまり動かない人を「さわる」手つきで引っ張ってしまうと、された本人は自分が物体として扱われたように感じてしまい、すごく尊厳が傷つくと思うんですよね。でもそこで、体が動きにくいというメッセージを、ケアする側がキャッチする姿勢を持っていれば、接触の仕方を変えられる。この「変える」ことが重要で、お互いが安心できる介護が実現するわけです。

これらの言葉をコミュニケーションにおける2つのモデルとして、「さわる」を「伝達モード」、「ふれる」を「生成モード」と言い換えてみます。伝達モードは、旧来の電話的なコミュニケーションのあり方で、発信者の側にメッセージがあり、それを一方向的に伝達するイメージです。合理的なので、伝達モードが大事な場面は多々あるでしょう。でも、人のコミュニケーションは伝達モードだけではないはずです。例えば雑談は、何の台本もなくたまたま自分が発した話に対して、その場所にいた人が触発され「あ、そういえばさ」と言って違う話をすることがあります。誰かが明確なメッセージを発するのではなく、玉入れのようにみんなが一斉に話題を投げて、話題自体を育てていくようなイメージです。こうしたコミュニケーションを生成モードと呼んでいます。

生成モードと伝達モードをいかに行き来するか

伊藤

生成モードは非常に重要で、圧倒的に足りていないと感じていますが、では生成モードだけでよいかというと、そんな簡単な話ではないと思います。旧来型の計画論への批判として出てきたボトムアップとは生成モードのコミュニケーションだと思うのですが、生成してくるものをすべて肯定していけば良い社会になるかというと、そうではないと思います。そこが難しいところです。

ありがとうございます。今のお話を強引に実務の話と繋げると、建築の設計施工は予算やスケジュールが契約を介して固定されているので、生成モードだけでプロジェクトを駆動してしまうと、いくら良いものができても、予算がオーバーしたとか、オープニングに間に合いませんでした、となると訴えられるので危険です(笑)。これは要するに社会のなかで、専門家は伝達モードでコミュニケーションすることを制度のなかでつねに求められているということですし、そもそもエンジニアリングに関わる複雑で専門的な領域は伝達モードで扱うしかない部分もたくさんあります。今回の議論も「伝達モードの時代から生成モードの時代へ」というような単純な転換の話ではなく、2つのコミュニケーションのバランス、切り替え、使い分けについて考えることが重要なのだと思いました。

さて、安藤さんの「タガヤセ大蔵」を見学したことがあるのですが、微細な設えひとつとっても「施設」としてつくられた普通のデイサービスと異なる印象を受けました。例えば、福祉施設だと柱にぶつかり防止の緩衝材を取り付けていることがありますが、タガヤセ大蔵には緩衝材がありません。安藤さんご本人から緩衝材を柱から外した一連のプロセスについて伺ったことがあるのですが、それがとても興味深かったです。施設の運営者、設計者、利用者が時間をかけて生成モードのコミュニケーションを取ったことによって可能になった空間的変化なのではないかと思っていますが、いかが思いますか?

安藤

もともとは、角のある古い木造の柱を設計上きれいかつ安全に収めたかったのですが、時間がなく角のある状態で工事が終わりました。運営側が、この状態は危ないのでゴムテープを貼りたいと言いました。僕としては極力貼らない方法をと思ったのですが、まずは一回貼ってみようと考えを転換したんです。彼らと僕が見ているものは同じ柱ですが、見えていることが少し違うことに気が付きました。 そこから木の柱にゴムテープの日々が始まりました。それ以外にもお互いの見え方の相違はたくさんあったのですが、少しずつ折り合いがついてきた1年ほどあとのこと、僕が、本来この柱はゴムテープではなく、角を加工することで処理したかったので、次の工事で加工をしてテープを外したいのだがどうだろうと問いかけると納得してくれました。お互いに正しい言い分がある状態が原因なので、相手を変えようとするのではなく自分の対話の仕方を変えていくなかで、だんだんと会話ができるようになっていった。変えたというよりお互いに変わっていったというのが正しいかもしれません。ぶつかり防止のゴムテープがない状態をつくるのに1年かかりましたけど……(笑)。

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公開日:2022年11月28日