対談 4

福祉の現場から考える ──多様性を包摂する空間

乾久美子(建築家)× 家成俊勝(建築家)| 司会:浅子佳英

想像力の欠如を回避するための経験

家成

かつて日本では、人の排泄物が肥やしとして使われており、農作物の生産のサイクルのなかに組み込まれていました。つまり自分たちの排泄物の次の状態が見えていました。現在では、トイレで用を足しているときに下水処理場の風景を思い浮かべる人はいないでしょう。自分たちの排泄物がトイレから流れていった先の見えなさも、切り離されてしまう理由なのだと思います。

浅子

山にキャンプに行って自分たちのトイレをつくるというようなことを、子ども時代にやればいいんですかね。そういば、ボーイスカウトでやっていたのを思い出しました。

家成

それはあると思いますね。先日、デザイナーの原田祐馬さんに案内いただいて淡路島の養鶏場に見学に行ったんです。鳥の糞を発酵させて肥料にしているんですね。鶏糞を産業廃棄物ではなく生産物だと捉えて、排泄物が畑で使われるところまでのサイクルが目に見えるわけです。

淡路島市にある北坂養鶏場(提供=家成俊勝)

淡路島市にある北坂養鶏場(提供=家成俊勝)

浅子佳英氏

浅子佳英氏

浅子

物理的な環境の整備を含めて社会の包摂性をいかにして上げるかという問題が一方にあり、もう一方にわれわれの想像力の欠如をどう埋めていくのかという問題があるといえそうです。

私は大学時代に登山をしていたんです。山の中ですから当然トイレはありません。男子メンバーから見えない適切な場所を見つけて用を足す大変さもありますし、植物の生育には厳しい、有機物が極端に少ない高山において、自分の排泄物が植生に対してその場ではありえない過剰な栄養を与えることにもなるので生態系を壊してしまうのかな、申し訳ないなと考えたりしながら用を足すのです。こうした経験が私の全人格性を形成した気がしていますが、こういった経験はじつは重要なのではないかと思うんです。人ひとりが自然のなかで生きていくにあたって、どのような影響を与えて生きてしまっているのかについて知る機会を得ることは、都市部では非常に難しいものです。

浅子

キャンプと山登りはしたほうがいいのかもしれませんね。ボーイスカウトでは山登りもしていました。すごく嫌だったのですが(笑)、いま振り返ってみると、1週間自然のなかで自分たちだけで生活するようなことをしていましたから、乾さんがおっしゃったような想像力は身につきますよね。キャンプをするときには、テントから離れたところに地面を掘ってトイレをつくらなければならないし、雨がいつ降るかわからないので側溝も自分で掘らなければならない。

家成

都市においては自然に与える影響を考えづらい。乾さんがおっしゃったような自然に対する大きな視点を獲得することは、やはり都市のなかにいたのでは難しいでしょうね。それならば、自然という経路を経ずにその視点を獲得することが可能かということも考えなければいけないと、お話を聞いていて思いました。

福祉施設における表現の場の役割

浅子

乾さんが現在設計されている福祉施設では、表現の場としてギャラリーのようなスペースがあるとのことでした。それを聞いたときに僕は「福祉施設を開いていくような仕掛けなのですか」と、乾さんに訊ねたんです。対して乾さんは、重度の障がいを持った方たちの施設なのでそう簡単ではないという話をされました。では、なんのためにつくるのですかと訊ねたところ、「表現の場があることによって職員の意識が変わるんですよ」という回答をいただきましたね。

福祉施設を開くという意味ももちろんありますが、一方で、家成さんの「尊厳のためのデザインリサーチプロジェクト」と近い意味合いも大切だと思っています。入所している人たちが楽しいと、職員の人たちも楽しいはずです。そういった考えから、総合的な発表の場を設けることは素晴らしいと思います。入所者と職員双方の生きがいややりがいに繋げられると思うんです。

浅子

福祉施設などにハレの場をつくるのはなかなか難しいですが、職員の方たちも裏方として仕事をし続けるとなるとどうしてもうちにこもってしまうので、表現の場があることはとてもいいと思いました。乾さんは、障がい者支援施設内の絵画教室でつくられた作品を所蔵、展示する《みずのき美術館》(2012)も手がけられていますね。

乾久美子建築設計事務所《みずのき美術館》

乾久美子建築設計事務所《みずのき美術館》(提供=乾久美子建築設計事務所)

家成

じつは僕が教えている京都造形大の学生たちを連れて《みずのき美術館》に見学しに行って、施設の方にいろいろとお話を聞かせていただきました。建物もよかったですし、運営の方たちの福祉に対する姿勢もすばらしいですよね。

浅子

《みずのき美術館》を外から見ると、美術館というより大きな家のように見えます。変わった印象の建物ですよね。

お金を取る美術館としてつくっているにもかかわらず、外から中の様子が丸見えだからでしょうね。お金を払っていない人に中を見せてしまうのですから、美術館としてのタブーを犯しているわけです。そのことが功を奏して美術館の意味や雰囲気を明るくしていると思います。

浅子

建物の良さを説明しづらいんですが、同じガラス張りでもフィックス窓が1枚あるというかたちならコマーシャルギャラリーではよく見かける光景なので、それほど違和感はないですよね。異様に大きな怪物のような引き違い窓が2つ付いていることが、あの建物を異次元な印象にしているのだと思います。

なぜそうなったのかというと、理由は単純、作品を搬入するためなんですけどね。

巨大な家=訓練する場としての福祉施設

浅子

《みずのき美術館》が巨大な家のように見えることから連想したのが、福祉施設は多くの場合、家の延長としてつくられているということです。また同時に、福祉施設は家ではできないことをアウトソーシングする場所でもあります。

浅子さんのおっしゃるように、福祉施設をいろいろと見ていると、いい福祉施設は巨大な家のようにつくられていることがわかります。リビングルームもお風呂もいくつもあり、家が何度も反復するかのようにプランニングされている。それは単純に居心地をよくするということでもあるし、施設利用者がふつうの家で暮らす練習をしているような面があるんです。だから家に近いつくりのほうがよい。

そういうなかで私が特に驚きつつ納得したのは、お風呂についてでした。わりと軽度な障がいの方のためのフロアなのですが、最初、お風呂をきちんと居心地良くデザインしようと提案したところ、「お風呂はユニットバスにしてください」と言われたんです。なぜそんなことを言ってくるのだろうと、よくよく話を聞いてみると世の中にあるお風呂のほとんどがユニットバスなので、ユニットバスに慣れてもらったほうが、施設から出たときに支障なく自律的に生活を送れるようになるとのことだったんです。すなわち日常生活に戻るための練習の場としてのユニットバスがあり、施設がある、という考え方なのです。

施設に導入された自立支援向けお風呂

施設に導入された自立支援向けお風呂(提供=介護・自立支援設備wells)

家成

なるほど、たしかにそうですよね。一般的にはユニットバスが多いので、福祉施設に特殊なお風呂をつくってしまうと、家に帰れなくなってしまうような事態になってしまう。

浅子

非常に興味深いですね。いままで考えたこともありませんでした。対照的にトイレは一般的なものとは違う閉じないつくりになっていて、寸法に関しても、一般的な家の基準からすると全体的に大きくつくられていますね。

はい。そうですね。

浅子

最初に、最近のオフィスでは、トイレがプライバシーを確保するための最後の砦になっているという話をしましたが、福祉施設においては逆で、トイレこそが最も危険な場所になりうるので、トイレこそは開いていなくてはならないということですね。福祉施設での事例を参考にすると、一般的な住宅においても、高齢者のことを考慮するならばトイレは閉じないほうがよいのかもしれません。そう考えるならば、施設のプランニングを参考にして住宅のプランニングを捉え直すこともできそうです。

家成

ありうるかもしれませんね。ただ、トイレを閉じないことに関して、福祉施設での意味と、一般的な住宅での意味合いは完全には一致しないと思います。福祉施設の場合は、使い手がある程度限られている。ですが、一般的な住宅の場合は、高齢者だけでなく、幼児や思春期の子どもなど、異なる世代が使う場です。トイレをオープンにした場合は、音の問題も出てくるでしょうし、どうしたものか悩むところです。

浅子

トイレ用擬音装置があるのは日本だけじゃないですか。われわれ日本人がトイレの用を足す音を気にしすぎているという気もします。

家成

習慣的なことについては、やはり近代以降のマインドセットの問題ともいえるのかもしれませんね。

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公開日:2017年11月29日