インタビュー 5

「所有」を問い直し、古くて新しいシェアのかたちを実践する

岡部明子(東京大学大学院新領域創成科学研究科教授) 聞き手:須崎文代(神奈川大学建築学科助教・日本常民文化研究所所員)

所有できる前提と制約

岡部

そもそも、個人が今日のように排他的に土地を所有できるようになったのは、近代以降のことです。それ以前の封建社会では、土地が先にあり、人はその土地に属していました。今となっては、私たちは土地に縛られないことこそが自由だと思っていますが、それは近代側からの捉え方に過ぎません。土地に属していた人々は、先祖から子孫までずっとその土地に居続けられることが保障されていたのに、近代化によってその権利は逆に奪われた、とも言えるわけです。土地から人を切り離したからこそ資本主義経済が成り立ち、現在の経済体系があるわけですが、一方で、自分やその子孫が同じ場所に住み続ける権利を失ったのです。

ここで、所有権のルーツを問い直してみましょう。近代所有を理論化したのは、イギリスの哲学者ジョン・ロックだと言われています。ロックは『統治二論』(1689)のなかで、キリスト教の価値観のもとでフィルマーの王権神授説の批判をします。神が創造物として人や自然をつくったという大前提に立ち、自然状態において、そこから「人間がその自然を食べる、つまり自分の所有物にしてしまうという行為がなぜ正当化されるのか」を延々と説明しています。ロックの「所有」概念の起点は、人間に固有の労働力です。自らの身体はその人固有の明白な「所有」物なら、その身体をもってする労働力も、個人に固有の所有物です。それを投入して入手した事実が、「所有」できる正当性の所在だというわけです。これが「所有」の前提条件です。しかし、自らの労働力をもって手に入れたものなら、無制限に所有できるわけではない。加えて2つの制約をあげています。自分が生きていくために必要なものであること、採りすぎて腐らせてはいけないということ。所有とは、こうした前提と制約の上で成り立つものなのですね。

これからの人と土地の関わり

岡部

こうした知識をもって「スラム」に立ち戻ると、インフォーマル地区では、まさにこれら制約の下で土地の所有がなされていないでしょうか。住人たちは、その場所が生きるために必要であり、生きていくために必要以上の空間を使っていません。自力でその場所を保っています。フォーマル(法的)とはいえ紙一枚で所有権を主張する人たちよりも、ロックの言う自然状態での所有の前提と制約にかなう土地との関係を持っています。

そしてこれは「古民家」でも同様です。私たちは「ゴンジロウ」を、フォーマルに賃借しているわけではなくインフォーマルに使わせてもらっていて、学生たちがそこで活動し、住んだりしています。漠然とした現在の常識の下、もし所有者が変わって立ち退きを要求されたら、私たちはすぐにその場を出ていかなければならないと思わされています。しかし、そもそも適切かつ責任を持ってその場所を使っている者のほうが、自然状態であれば、本来その場所に対する所有を正当化する前提と制約を満たしているといえそうです。だからといって私はゴンジロウの所有権を主張したいのではなくて、買ったり借りたりしてフォーマルに使おうとすると、ゴンジロウのように市場に上がっていない空き家は使いたい人がいても使えないことが問題だと指摘したいのです。空き家の活用や被災地の復興に際して、土地所有がネックになっているのと同根です。

もちろん、人間の流出入が激しいインフォーマル居住地区において、こうした論理を主張するためには、さらなる検討を要します。また、先ほど紹介したコロンビアのインフォーマル居住地区は、別の問題も抱えています。自然環境保護を訴える人たちは、マングローブの保全のためには住人を立ち退かせ、ソーシャル・ハウジングに入ってもらうべきだと主張している。一方、住人たちは、立ち退きではなく、この場所で都市と同様に生活ができるようにインフラ整備を要求しています。たしかに、都市計画的にはここは居住が認められる場所ではない。しかし今住んでいる人たちの権利も保障されるべきである。ここでもやはり、現在のフォーマルな所有権の有無は、解決に何も寄与しません。自然状態における所有の原点に立ち返るなら、彼らがこの環境を自らの労働をもって適切に維持・管理するという責務を果たすなら、土地を持ち続けることが保障され、安心して住み続けられるのではないでしょうか。

以上のスラムや古民家のプロジェクトを通して、人間と土地の関係を問い直すことで見えてくるのは、近代に生まれた「所有」という概念を所与として居住環境の解決を図ることはもはや難しい、ということです。私たちは、これからの社会に相応しい、地球環境の持続性に条件づけられた人と土地の関係を、より普遍的なかたちで考えていこうと思っています。

須崎

今のお話は、ミクロなプロジェクトからみえてくるマクロな問題についてのたいへん重要な投げかけだったと思います。「ゴンジロウ」は、単なる再生プロジェクトではなく、生活様式の共同性を模索する実践で、多くの示唆を含有するものですね。資本主義経済のなかの仕組みや土地家屋の所有など、私たちが当たり前だと思っている現在の生活基盤を問い直すきっかけが、むしろインフォーマルな場所に潜んでいたのですね。岡部先生のお話にもありましたが、自らの住む環境を探して移動し、適切な場所を見つけてそこに住まうということは、人間にとって本質的な行動です。しかし、そうしたものが、近代のシステムの〈外〉にはじき出されてしまった。岡部先生の研究は、そうした現代社会のヘテロノミーを問いなおすきっかけとしても有意義だと思います。

岡部

私は、システムの外を〈外〉のまま残しておく仕組みがフォーマルの側に求められていると考えています。それはややいい加減で、ところどころ穴のあいた仕組みです。実際に都市のインフォーマル居住地区に住んでいる人たちは、なにも完全に独立した生活をしているわけではなく、マーケットなどのフォーマルな仕組みをその都度、都合よく利用しているのです。一般的に、フォーマルの側はインフォーマルの存在を認めませんが、それが現代社会の閉塞感に繋がってもいます。フォーマル側が寛容になり、インフォーマルなものを無理に内側に取り込むのではなく、それをあるがままにしておけるようになれば、閉塞感も緩和され、おおらかな社会になっていくように思います。

フォーマルには住むことが想定されていないところに自力で住む

岡部

昨今「シェア」という言葉は、個人が所有している物をみんなで使うことを指します。耳にすることが増えたシェアリング・エコノミーにおいては、みんなで使ったほうがその物の価値は上がるものの、必ず大元の誰かに排他的な所有権が帰属しています。所有者不明の空き家をシェアリング・エコノミーのプラットフォームに上げることは考えられません。しかし本来は、特定の誰のものでもない自然がすでにあり、人間を含むあらゆる生物がそこから食料をはじめ必要なものを得て生活していたわけです。排他的に誰かに帰属していないものがシェアのプラットフォームにあったわけです。それは言い換えれば、元々個人を基盤としてシェアがあるのではなく、そもそもシェアされているという状態が先にあったと表現できます。現在のシェアの先にある「新しいシェア」は、こうした本来のかたちに近づくのではないかと思います。

これを住まいで考えてみましょう。例として、2017年から行っているアルゼンチンのプロジェクトを紹介します。対象としている場所は、チリとの国境付近にあるリゾートタウンにあるインフォーマル居住地区で、都心へのアクセスが良い斜面地にあります。リオのファヴェーラと構図はいっしょで、平地に美しいリゾートタウンがあり、そこに隣接してインフォーマル地区があります。800人くらいの人が暮らしているコミュニティですが、元々は1970年代のチリ内での紛争によって土地を追われた人々が、国境を越えて住み着いた場所です。リゾート観光都市であることが手伝って低所得者向けの仕事も多いので、周辺からも移り住みやすい場所柄なのです。しかしここは、地質的に落石の起こりやすい危険な地帯でもあり、もちろん都市計画上では居住は許可されていない場所です。仮にこの土地でクリアランスを強行し、住民を中心部から遠く離れたソーシャル・ハウジングに入れたとしても、この土地はやはり利便性が高いために、再び住民が戻ってくる、あるいは別の人が新しく流入する可能性が大きい。土地所有の正規化プロセスにあるところは一部で、行政と揉めている場所や、所有権がはっきりしない場所が多い。かろうじて電気、水道は整備されていますが、自然災害のリスク低減については何も対策がなされていません。そもそも、住んではいけない場所にそうした対策が必要なのかさえ、議論になっています。

『未来のコミューン』

チリからの政治難民が石切り場跡の斜面地に住む、アルゼンチンのカンテラ地区

インフォーマルな地域に暮らしている人のなかには、建設業の従事者が多く占めています。そこで私たちは、彼らが自力で実現できる土地の環境改善から提案することにしました。まずは土砂崩れを抑えるために表土の流出を抑え、仮に落石があっても逃げる時間を稼げるよう、仮設工事における山留めのようなものをつくりました。また同時に、行政にも斜面へのエレベーター設置などを提案しています。この地区は観光地としてのポテンシャルがある場所なので、アクセスを改善をすれば、観光にかかわるスモールビジネスの創出が見込めます。地区住民にとって、非常時の病人の搬出などにも役立ちます。

山留めの制作

山留めの制作

住宅を基本単位としないハイブリッド居住

岡部

他方、住まいはどうすればいいのか。災害リスクの高い急斜面で土地利用規制上は居住の認められていないところに一人ひとりにフォーマルな居住の権利を与えるのは不可能です。狭さや地盤の悪さゆえに、これ以上新しい家が建つと地区全体を巻き込む大災害のリスクが高まります。そこで「家に住む」のでは生活が成り立たなくても「街に住む」可能性はあるのではないか。個々の住居単位でみると「適切な尊厳ある居住」は無理でも、街として十分な生活機能をもたせることができるのではないか。そう考えて「ハイブリッド居住」を提案しました。まず現在住んでいる災害リスクの高く居住性能の低い住居については、住み続けることに重きを置く。他方、住民みんなが使えるシェルター的なドミトリー・ハウスを新設する提案です。落石災害時の避難施設や感染症蔓延時の隔離施設など非常時はもちろんのこと、平時でも高リスクの住居で不安を抱えている高齢者や障がい者の利用を想定しています。

こうしたプロジェクトに取り組みながら考えるのは、近代的な一住戸で完結した住まいを前提として住環境を改善しようとすると、かえってそれが問題解決の足かせになりかねないということです。今お話した例は、ラテンアメリカに多い災害危険斜面地のインフォーマル地区で、地区全体として災害リスクをいかに低減するかの挑戦でした。他方、インドのムンバイのインフォーマル地区のように、ヘクタール当たりの人口が数千人にも及ぶような超高密度では、各戸にトイレや十分なスペースを確保することが難しい状況です。しかし、各住戸単位で環境がましなことよりも、そこに住むことによって街の中心地へのアクセスが容易だから、かろうじて生活が成り立っているという側面もある。つまり、近代住居では各戸にある生活機能を諦めてシェアし、相互に依存しながら暮らすことを甘受して、都市中心部での生活を実現しているのです。こうした、当たり前に存在している自然なシェアの状況を評価し、私たちはそれを見落とさないようにしなければなりません。近代の尺度における豊かさを押しつけることで、今の彼らの暮らしのなかにある豊かさを奪ってはならないでしょう。

ここまで、主にインフォーマル地区をフィールドとしたプロジェクトを通して、考えるようになったことをお話しました。「所有」という壁を克服した先にあるのは、古くて新しい「シェア」が、個人以前にまず基盤となる社会です。そうしたこれからの社会では、住戸という単位で住まいはとらえきれなくなります。フォーマルな社会で個人あるいは家族が所有する住宅は、確かにその多くが人間らしい生活ができる適切な環境です。一方、シェアを基盤とした社会の住まいは、最小限の寝ぐらと、人によって異なるものの何らかの住機能が備わっただけのものでもかまわない。後者は、前者の近代住居から見れば非常に不完全なものかもしれません。しかし、必要なときに必要なものを求めてアクセスできる社会であれば、これも人間らしい暮らしが可能な住まいとして、十分に成立します。インフォーマル地域における暮らしは、まさに後者のかたちで成立していました。つまり、クリアランスをして近代的な住居をつくる・所有する以外にも、豊かな生活は可能になるのです。主体的に自らの生活する環境を整えられることに人間の尊厳があるとするなら、こちらのほうが尊厳ある豊かな住まいといえるかもしれません。

これは古民家のゴンジロウと付き合っていて痛感したことでもあります。毎年2月ごろに、歩いて茅を刈りに行き、家の裏の篠目竹をみつくろってとってきては茅を押さえるのに用いて葺き替えていく──現代の高性能住宅には望めない人間の尊厳と豊かさだなあ、贅沢だなあとしみじみ感じています。所有でも現在のシェアでもなく、旧来の意味での「古くて新しいシェア」は、人間の尊厳を高める可能性を示唆していると思います。

須崎

近現代的な社会システムとは異なる、インフォーマルな地域で暮らしている人たちは、近現代に失われてしまった知恵を今も保有している。社会が長い間培ってきた知恵、人間同士あるいは自然との共存の知恵を再評価していくべきだ、ということですね。

岡部

そうですね。誰かに生かされ、誰かを生かしているというのは、基本的には人間同士のことを指しますが、その誰かとは、果たして人間だけなのか。きっと、そうではありません。そこには、人間以外の生き物や、土地、自然環境といった、私たちを取り巻くあらゆるものたちも含まれるでしょう。こうしたものや環境を介して、間接的に人と人は生かされているのだと思います。つまり、家族を基本単位とする住まいの発想から、取り巻くものとの関係性のなかで住まうことを考えるというのは、これからの住まいを考えるうえで大きなヒントになると思います。

須崎

個別の住宅で完結させるのではなく、あるまとまりやコミュニティという単位で改善をしていくという方法が、やはり大事なんだろうと思いました。私の研究範囲で考えると、かつての日本で風呂を共同使用していたことなどは、シェアを基盤とした社会のかたちだと言えますね。「もらい風呂」「まわし風呂」と言って、お風呂をコミュニティでシェアしていた文化がかつてあった。風呂をシェアする範囲で、最小限の共同体が構成されていて、そこでルールが共有されたり、ものの貸し借りやコミュニケーションが生まれたりしていました。都市の内部でも村落でも、こうした共同体が存在していましたが、近代になってプライバシーを尊重すべきだという風潮が高まり、日本の住居は開放性を失っていきます。

今、「古くて新しいシェア」を考えたときに、情報、空間、物など、何かを共有するということについて再認識させられました。私たちは建築の分野に身を置いているので、とくに空間や住機能を通して、具体的なシェアが生み出されていく可能性について考えたいと思います。身の回りでも、研究室やオフィス、あるいは家庭もそうですが、空間をシェアしていると、「これ、貸して」といってシェアが自然に行われますし、何かのお裾分けが自然に生まれる場面があります。しかし現在、一度社会に出てみると、こうした自然な行為はなかなか生まれません。これも、資本主義ベースで住まいの供給や取得が展開されてきたことによる弊害なのかもしれませんね。

また岡部先生のご指摘の通り、シェアリング・エコノミー(共有型経済)などと言われるところの「シェア」は基本的に資本主義経済やIoTシステムの中で展開されているため、そのシェアの主体やターゲットは現状では限定的です。例えばウーバーは、スマートフォンが使えないおじいさん、おばあさんにとっては使えない。もっと広げて言えば、資源そのものは元々所有されているものではなく、地球上に存在し、それが全体として共有されているはずなのですが、ある特定の組織や富裕層が独占的に所有してしまっている状況です。先ほどのインフォーマルな地域の人々の根源的な居住環境のように私たちが「生きる場所を獲得」するためには、個別の住宅単位で解決しようとするのではなく、「向こう三軒両隣」くらいから始まって少しずつ集団のなかから実現していくべきなのでしょう。そこから地域、都市そして地球全体といったさまざまなレベルで展開されていったらいいのではないかと、歴史的な観点から想像します。

岡部

今須崎さんがおっしゃったように、空間自体もシェアの対象にもなり得ますし、シェア空間があることによって、さらに新しいシェアが誘発されることもありますね。それはビジネスとしてのシェアとは異なる、マーケットに乗らないシェアです。

また、この「古くて新しいシェア」の課題と可能性についても言及しておきたいと思います。ひとつは、流動化する社会においても、共同性の理想論は成立しうるのか、という問題です。シェアなんて、顔見知りでなければなかなか成立しないのに、あっという間に人が入れ替わる世の中でも成立するでしょうか。もうひとつは、先ほども言いましたが、人と人だけではない、自然環境やモノも含めたシェア関係、つまり「アクター・ネットワーク」的な考え方をどのように構築していくことができるのか、という問題です。この2つの問題は、それぞれ独立しているのではなく、おそらく繋がっています。近代になって、たしかに人間は比較的自由に移動できるようになり、自由、平等、個人の尊重が普遍的な理念として打ち上げられました。それによって、人は流動化したわけですね。その流動化に適した仕組みとして、排他的な所有が生まれ、対立が未然防止されていました。しかし、さらに資本主義経済が加速した先の社会では、かえってその所有が障壁になり、シェアが叫ばれるようになってきています。顔見知り同士という閉じたシェアではなく、もっとオープンなものが求められているのです。その「開かれたシェア」が開く先にいるのは、人間だけではありません。今度は自然やものとのシェアという発想になっていくはずです。

「ゴンジロウ」も最初は、南房総の集落にある単体の建物におけるプロジェクトだと認識していました。しかし屋根を葺き替えるという活動を通して、それは単体として存在するのではなく、里山の循環的なエコシステムに生かされていることを体感したわけです。茅を刈ってそれを屋根に載せ、古くなった屋根の茅を畑に還すというサイクルは、まさに自然と家が、互いを生かし、互いに生かされていることで成立しています。茅を刈り取った後の茅場を焼けば、また茅が再生し翌年もそれを刈ることができる。古い茅を戻した畑でできた作物を、人間がいただく。この建物自体が、家であると同時に里山のジェネレーター的な役割も果たしているのです。人間同士だけではなく、環境との関係でも、私たちは生かし生かされています。今後、さらに人間社会の流動化が進むと、シェアがどんどんオープンになっていく。シェアの対象もシェアの相手も選り好みできません。その現れが、今のコロナ禍であることはいうまでもありません。そういった状況を、私たちはいかにおおらかにマネジメントしていけるのか。それが人間同士を超えて、自然やものにも開かれていくような方法こそが問われていると、私は思っています。

屋根の葺き替え
米・野菜づくり

茅の葺き替え、米・野菜づくり、茅の刈り取りといった里山の循環

茅の刈り取り

須崎

なるほど、今の循環性に関するお話は、土地の力とそこに根ざす環境をいかに人間の生存環境と調和させていくのかというブリコラージュ的な創造物と言えるかと思いました。ここ何年か私が調査研究に取り組んでいる、ブラジルのサンパウロ郊外のレジストロという町に、明治期に渡った日系移民の居住地域があります。現在の住民は三世、四世ですが、入境した当初は開拓に向かって植民され、最初は掘建小屋のような住居をつくって住み、やがて生活が軌道に乗ると、1階に土間、2階に居住空間のある農村住居を建てて暮らしてきたそうです。現在のような機械はなく、最低限の道具での開墾は本当に大変だったようです。主な建材はカネラ・プラッタという堅木で、ノコを使って切り出すだけでも大変な労力が必要だった。多くの人がマラリアに罹って次々に死んでゆき、日本にも帰れないので、必死で居住環境をつくっていった。そのたくましさは、驚嘆に値します。一方、現代の私たちは、例えば震災などであるシステムが分断されたら、生存不可能になる可能性が大きいですよね。今日のお話を聞いて、こうした状況を根本的に問い直されたように感じました。

岡部

今のブラジルの例も含め、開拓民たちは、最低限の道具で開墾や工作をしなければなりません。アクセスできるものが少ない状態で、必要に迫られてやっているわけです。私が「ゴンジロウ塾」で大工さんたちと話していて思うのは、職人が十年間修行してようやく一人前に使えるようになるような道具しかない時代に比べて、現在はとても恵まれているということです。ホームセンターに行けば、少し学べば使えるようになる道具がたくさんあります。せっかくそのような道具が数多く存在し、技術も飛躍的に進歩しているのだから、それらを使って自分の住まいや環境を主体的に形成していくようにしたい。昔のように、血の滲むような状態でブリコラージュを強いられるのとは違います。選択肢が多く、可能性に満ちた楽しい社会になるのではないかと思います。

限界費用ゼロ社会と狩猟採集社会に見る、これからの社会

編集

最後になりますが、本日お話いただいた「所有」「シェア」「住まい」というテーマを踏まえて、岡部先生は今後社会がどのように変わっていくと考えられているのか、ひとつの指針をうかがいたいと思います。というのも、じつはこの収録の打ち合わせの際に、岡部先生は「今後『限界費用ゼロ社会』★2に近づくことで、再び狩猟採集型の生活が成立するかもしれない」とお話しされていたのです。これが非常に興味深い内容だったので、ぜひ最後にお聞きしたいです。

現在の社会では、所有の世界観とシェアの世界観はまったく違うプラットフォームとして並存していると思います。そのうえで、新たな世界として岡部先生が予見されているのが、「古くて新しいシェア」として紹介された、本来的な所有が成立する狩猟的な世界です。これはまったく新しいというよりも、発展的に古来の世界へと回帰するようなものでした。

この回帰的な狩猟採集社会が、資本主義を加速的に突き詰めていった先に成立する「限界費用ゼロ社会」によって可能になるというのは、一聞しただけでは矛盾があるようにも感じられます。里山の循環システムと近しいのかもしれませんが、まずは読者の理解のために、「狩猟採集社会」と「限界費用ゼロ社会」のつながりを整理し、お話しいただきたいと思います。

岡部

おっしゃる通り、一聞すると「狩猟採集社会」と「限界費用ゼロ社会」は遠いところにあるものだという気がします。まず「限界費用ゼロ社会」では、現代の資本主義下でデジタルテクノロジーがより効率化され、IoT(モノのインターネット)が広がると、理論上最終的には生産コストがゼロになります。そのような社会を迎えると、やがて生産者/消費者という構図自体が消失し、みんなが必要なものを必要なときに求めてアクセスするようになるわけです。このようなデジタルのテクノロジーによって形成されたシェアリング・エコノミーを基盤とした社会が「限界費用ゼロ社会」です。必要なものを必要なときに求めてアクセスする状態とは、まさに先ほどお話ししたインフォーマル居住地区の人びとの暮らし方と同様であり、さらに言えば古来の狩猟採集社会に回帰したかのような状態と結果的には同じなのです。

流動化した社会では、所有をベースとした資本主義社会が成立していました。しかし、それが加速した先では、ベースにある所有がむしろ邪魔になってきているということは、『ラディカル・マーケット』が指摘した通りです。そこで、個人を基盤とした社会、あるいはシェアを基盤とした社会、という二択ではなく、第三の道としてあるのが、個人を基盤とした社会を突き詰めて効率化しようとした先に生まれる、シェアを基盤とした社会なのだと思います。これが面白いのは、そのように社会を意図的につくろうということではなく、「なるべくして」回帰している、ということです。

編集

なるほど、ありがとうございます。そうした社会を描くことが、次の世代の仕事のような気がしますね。

岡部

そうですね、ただ、それは偶発性に満ちていて、全体像を描こうとすると相当に複雑な世界でしょうから、あまり真面目にやると辛いことになりそうな気がします。そこそこいい加減に実践を重ねたほうが良さそうですね(笑)。

須崎

「いい加減さ」は、私も大切だなと思っています。他者との共生、共助を考えるうえで、それぞれが豊かに生きていくための多様性を成立させるためには、あるルールや型のなかには収まりきらない襞を切り落とす必要が必ず出てくる。その襞は、多様性や豊かさにもつながるものです(工業製品と手仕事の違いも、この部分に発見されます)。そうしたものを自他に受容できる「寛容さ」が欠如した社会は、逆に人間性という根本に歪を生むことにも繋がるように思います。あるいは、住む場所の獲得や、そこでの創造的作業における役割分担は、既存のフォーマル/インフォーマルの通念とは異なる民主性の根本を示すものでもあるように思われます。共同性の発現段階における検討を通して、ボトムアップ的なフォーマライズのシステムの再構築を目指されているのですね。

狩猟採集社会の再来は、多拠点型の合目的的生活が広がっている現象を観察すると、とても納得がいきます。それば、トポロジーにも関わるものでしょう。場所性の変質や空間を介在し、そこに発現するシェアの意味が、ドラスティックに変化する可能性がありますね。既存の社会規範ではコントロールが及ばない、あるいは資本主義のマーケットに乗らないシェアが、多くの示唆をもたらすということがたいへん興味深かったです。

あるいは世界を取り巻く課題は「再生産」に帰着すると私は考えています。民家の茅葺仕事や、インフォーマル地区のトイレの問題は、「人間がいただいたもの」の先の再生産も含めて生活のあり方が検討されるべきものであると再認識させられました。今回は、コロナ禍の影響もありゴンジロウへの訪問は叶いませんでしたが、料理や食事を介して共同性が発現していく現場を拝見する機会をぜひ設けたいと思います。本日はありがとうございました。

[2021年1月14日、Zoomにて収録]



★1──岡部明子「ゴンジロウ廃屋キッチンで見つけた分かち合いのかたち」(「LIXILビジネス情報」2019.10)
★2──ものやサービスを生み出すコストがなくなる、あるいは限りなくゼロに近づくことで出現する社会。詳細はジェレミー・リフキン『限界費用ゼロ社会──〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭』(柴田裕之訳、NHK出版、2015)

岡部明子(おかべ・あきこ)

東京大学大学院新領域創成科学研究科教授。博士(環境学)。主な著書に『メガシティ6 高密度化するメガシティ』(東京大学出版会、2017)、『バルセロナ』(中公新書、2010)、『サステイナブルシティ──EUの地域・環境戦略』(学芸出版社、2003)、『ユーロアーキテクツ』(学芸出版社、1998)など。

須崎文代(すざき・ふみよ)

神奈川大学工学部建築学科特別助教(2022年4月建築学部設置予定)。神奈川大学日本常民文化研究所所員。日欧政府国費留学(フランス、ポルトガル)、日本学術振興会特別研究員(DC1)、米田吉盛教育奨学金大学院給費生、非文字資料研究センター・フランス国立高等研究院(CRCAO/EPHE+College de France)派遣研究員を経て、同大学院工学研究科建築学専攻博士後期課程修了、博士(工学)。日本生活学会第1回博士論文賞。専門は近代住宅・建築史、生活史。
「便所の歴史・民俗に関する総合的研究」http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/research/toilet/
「渡辺甚吉邸サポーターズ」https://jinkichihouse.wordpress.com/

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公開日:2021年03月29日