インタビュー 6

雑貨化する社会と未来の住まい(後篇)

井出幸亮(編集者)+三品輝起(雑貨店「FALL」店主) 聞き手:浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)

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浅子佳英氏、三品輝起氏、井出幸亮氏

左から、浅子佳英氏、三品輝起氏、井出幸亮氏

「今日はこの子を連れて帰ろう」──オタクと雑貨

三品輝起

ここで忘れてはならないのは、オタク系の雑貨についてです。オタク系の商品、たとえばフィギュアなどは完全に雑貨と言っていいと思いますが、フィギュアショップやコミケ(コミックマーケット)で取り引きされている貨幣流通量は、旧来の雑貨業界の売り上げより多いかもしれない。そういう市場は昔からあったのだけれど、雑貨文化とクロスしなかったため見えていませんでした。でもいまはSNSを見れば、どこに、どんなクラスターがあるかひと目でわかるわけですね。そうなると逆に、洗練を求める「おしゃれ」な雑貨界隈がいかに狭い世界だったかということも見えてくる。インターネット以降、旧来の雑貨の世界にも、資本主義の先端で戯れるオタクたちの消費行動やオタク産業のビジネスモデルが遅れてやってきます。たとえば二次創作や「誰もが消費者であり作り手である」というコミケの理念も、かなりのタイムラグを持って私のよく知る雑貨の世界に浸透していきます。いまでは「iichi」「minne」「Creema」など手作り雑貨を売買できるウェブサイトがたくさんでき、雑貨作家も山ほどいます。大手広告代理店がバックについていることもあって、ハンドメイド雑貨は現在ではかなり巨大マーケットになっていると聞きます。

minne

ハンドメイド通販サイト「minne」
引用出典=https://minne.com

もうひとつオタク文化の影響を感じることといえば、最近、雑貨を買うことを「お迎えする」と言ったりするんですね。これはもともとオタク系の界隈でされていた言い方で、フィギュアを買うことを、その作者を敬う意味を込めて「お迎えする」と言っていた。一種の擬人化ですね。いまでは私の周りの一部の界隈でも、雑貨のことを「この子」と呼ぶ習わしが定着しつつあって、「今日はこの子を連れて帰ろう」と言ったりする(笑)。それもオタクたちがフィギュアを売り買いする世界の慣習が遅れて定着した結果だと考えられます。

雑貨の世界というのはあくまでも旧来の消費文化で、規模もそれほど大きくありませんでしたが、少しずつオタク的な行動原理、批評家の東浩紀さんの言葉を借りれば「動物化」した行動原理に変化してきている。「動物」になるというのは、大きな物語を求めないということです。ちょっとした刺激や快楽だけで生きていける。そんな彼らの生き方は、半分は自分の意志でやっているところもあるでしょうが、半分は資本主義的なビッグデータやSNSなどのシステムに囲われることで生み出されていると思うんですね。

井出幸亮

いわゆる「オタク」的と呼ばれるカルチャーの世界でももちろん、ファッションの原理と同じように「差異を求め、競い合う」文化があったはずですが、それは現在では超高度資本主義のなかに取り込まれ、消えていきつつあるのかもしれない。それは、そもそもそうしたオタク的カルチャーが資本に対して抵抗する力が弱かったからという側面もある気がするんですね。アイドルの握手会に参加するためにCDをたくさん買ったり、子供の頃に好きだったアニメのDVD BOXをどんどん買い集めたりするのは、愛や忠誠心の高いファンの証である一方で、「資本の意のままに動かされている従順な消費者」という面がないとは言えない。それに比べると、雑貨文化など日本のファッション的なサブカルチャーというのは、アメリカのヒッピー文化をはじめとしたカウンターカルチャーに根差したところがあって、「資本に対するカウンター」的な側面が多少なりともあったのかなと。とは言え、もちろん雑貨の世界でも明確な思想をもっていた人はごく一部で、大半はオタク的文化と同様に、超高度な資本のメカニズムに取り込まれていったというのが実情でしょう。

浅子佳英

カウンター的な雑貨文化を担ってきた人たちは、どちらかといえば左翼ですよね。彼らが社会のなかで大きな影響力をもちえないまま先鋭化していったのは、いまの日本の政治とパラレルな問題でしょう。かたやオタク文化やそれを担ってきた人たちというのは、資本の論理に取り込まれている面は否めませんが、まったく社会を変えてこなかったかといえば、そうとも限らないと思うんですね。たとえば社会学者の濱野智史さんは『前田敦子はキリストを超えた──〈宗教〉としてのAKB48』(ちくま新書、2012)のなかで、総選挙と握手会があるAKB48はシステムの中に偶然性と近接性を内包しており、神(=超越者)が信じられなくなった現代において、世界宗教の代わりになるかもしれないと述べている。もちろん、これをそのまま受け入れるのは難しいでしょうが、とはいえ、違う見方をすると、女性がなんの後ろ盾もなく自立を勝ち取っていくというムーブメントとしてアイドルを見ることもできるかもしれない。彼女たちがファンと互いに連帯しながら自分たちを表現することで、資本の論理に取り込まれつつも抵抗するということをやっているとはいえないでしょうか。もちろん、それでも搾取されているじゃないかという見方もできるので、難しいところではありますが。

井出

いやあ、それはどうでしょう。インディなショップが草の根的に育んできた雑貨文化と、大人たちが巨大な資本のもとで仕掛けているアイドル文化を同列に語ることは無理があるように思います。もちろんカウンターカルチャーとしての雑貨文化が、その規模の小ささゆえに、社会的に大きなインパクトをあまりもちえなかったという点についてはそのとおりですし、これからも考えていかなくてはいけない問題だと思っています。ただ、たとえ規模が小さくても、長年にわたって継続してやり続けることで、社会にじわじわと確実に影響を与えてきた面があって、僕はそこを評価していきたいんですね。

浅子

たしかに、最終的には継続することが重要なんでしょうね。

本当の西洋なんて知りたくない──目眩し、ディズニーランド

浅子

三品さんは『雑貨の終わり』のなかでディズニーランドについて書かれていますよね。社会学者の新井克弥さんの『ディズニーランドの社会学──脱ディズニー化するTDR』(青弓社、2016)を参照しながら、ディズニーランドの肝は「イリンクス=目眩し」を起こすことにあると論じられていました。

三品

要は破綻のない世界ということですね。日本の景観は破綻だらけで、いくら内装をひとつの世界観で統一させても、窓の外を見たら途端に夢から覚めるじゃないですか。よくヨーロッパの街並みは美しいと言われますが、そのときの「美しい」というのは「統一感がある」ということだと思うんです。同じ様式、同じライフスタイルが貫かれているように見える。言いかえれば、ひとつのアンデンティティがあるように見え、それが美観につながっている。日本にはそういう意味での美観が──京都や倉敷のように半ば人為的に整備された街を除けば──ほとんどありません。

新井克弥『ディズニーランドの社会学──脱ディズニー化するTDR』

新井克弥『ディズニーランドの社会学
──脱ディズニー化するTDR』

そのなかにあってディズニーランドは徹底的に統一されています。入場すると周囲にはビルひとつ見えません。東京湾を飛ぶ飛行機だけは見えますが、消せる技術ができればすぐに消すはずです(笑)。ですから、好きな人には夢の国ですが、嫌いな人からすると悪夢でしょう。夢から覚めさせるような視覚的な破綻が一切ないわけですから。さらにいえば、なめ猫にストーリーがあったように、あの場所にあるもの、アトラクションからそれこそポップコーン屋に至るまで、すべてのものにストーリーがあるわけですよ。そうした切れ目のない膨大な情報に囲まれて、訪れた人は忘我状態を起こす。「イリンクス」とはそういうことです。こういう分析は、新井さんが『ディズニーランドの社会学』を書くまでは誰もしていなかったと思います。

ここで注意すべきなのは、「イリンクス」というのは「動物化」と一緒で、刺激や快楽が次々と絶え間なく供給される状態に置かれることで起こるわけですから、ずっとネットでSNSをやっているのと変わらないわけです。そういう意味では、ディズニーランドとウェブ空間は密接にリンクしているといえます。しかも同書では、イリンクスを起こすランド側の見せ方に関して、日本のディズニーランドだけが異形の発達をしてきたことが論じられています。

浅子

一昨年、カリフォルニアのディズニーランドに行ったのですが、たしかに日本のディズニーランドのような徹底ぶりではありませんでした。隣接する高速道路から場内がまる見えで、建物の裏側は鉄骨が剥き出しになっているので入場前から書き割りであることがわかる。これには驚きました。

三品

ディズニーグループは巨大なコングロマリットで、世界有数のメディア企業です。研究所の規模も大きく、Google並みに研究費を費やしてIT関連の研究をしています。日本のディズニーランドはオリエンタルランドというライセンス企業が運営していますが、同社にしてもディズニーオタクと言われているコアなファン層の情報をキャッチして、絶えず施設やコンテンツをつくり替えています。パレードの演出もすべて計算されていて、昔はひとつの物語を表現していたのですが、いまはあらゆるキャラクターを見たがるお客さんの欲望を汲み取って、もっと断片的な構成にしているらしいです。

浅子

僕は建築家のなかでは珍しくディズニーランドが好きなので割と行くのですが、10年くらい前から、参加型のイベントが流行っているんですね。コアなファンはたいてい年間パスポートを持っているので、その人たちが全員同じ格好をしてダンスをする。つまり、従来のようにディズニーランド側が一方的に物語を差し出して享受しなさいというものではなく、お客さん自身が演者になる。そういうイベントのほうが人気らしくて、よく考えられているなと感心します。

三品

先ほど話に出たオタクもそうですが、ディズニーランドというのは未来の消費原理を先取りして取り込んでいるところがあるので、学べることがたくさんあります。個人的にディズニーランドがおもしろいと思うのは、その出自が雑貨と似ていて、西洋そのものを持ってくるのではなく、そのミニチュアを体験させるという点です。日本人からすると、リアルな西洋の建築物というのは憧れの対象である反面、どこか怖いところがあります。僕も初めてイタリアに行ったとき、建物や内装のスケール一つひとつが不自然に大きいので、全然落ち着かなかった記憶があります。その点、緻密な計算のもとに縮約されたディズニーランドの西洋像というのは日本人にフィットしていて、最初から成功することが決まっていたように思うのです。

浅子

いまのお話は盲点でした。たしかにあそこにあるものは西洋そのものではなく日本人が期待する西洋、キッチュな西洋ですよね。

三品

そういう出自から始まって、時代から追い抜かれることもなく何十年も、それこそくるみの木と同じくらい長きにわたって夢を与え続けてきたディズニーランドというのは、雑貨文化を考えるうえでもいろいろとヒントを与えてくれます(東京ディズニーランドは1983年、くるみの木は1984年にオープン)。

われわれは本当の西洋なんて知りたくないわけです。自分たちのなかで勝手な西洋をつくり出して、それを雑貨として仕立てあげて消費している。このことを僕は「雑貨化」と呼んでいるんですね。『雑貨の終わり』ではディズニーランドから小さな古道具屋まで登場しますが、それは巨大資本のもとでの雑貨化と個人経営の店における雑貨化、あるいはグローバルとローカルの両端で起こっている雑貨化には、同じ原理の力が働いていることを明らかにしたかったためです。なぜなら、自分の店はインディペンデントな店だから雑貨化には加担していませんよ、と言い逃れしたくなかったからです。個人経営の店でも、グローバル企業と同じ原理で動いている。ただ雑貨化の力は重力と同じで、規模が大きければ作用する力も大きくなるので、たとえば個人店よりAmazonのほうが「雑貨化の権化」のように見えるというだけです。

もちろんAIが商品をおすすめしてくるAmazonと人が接客する実際のお店は、少なくとも店頭に関しては違います。ただ、地方の雑貨屋をつぶさに見て回ればわかりますが、たいていのお店はウェブショップもやっていて、主な売り上げはそちらであげているというのが実情ではないでしょうか。このことは、雑貨化の核心が人間の倫理観の問題じゃなくてテクノロジーの問題なのだ、ということを示しています。

浅子

ファッション業界も同じで、近年は地方の山のなかにおしゃれなショップがどんどんできています。それが成り立つ背景には、おっしゃるようにインターネットの普及があるように思いますね。

三品

ウェブショップを支えるプラットフォームは各ショップが独自開発しているわけではないので、そこで働いている原理はAmazonにしても個人経営の雑貨屋でも変わりません。大都市部であればなかには奇特な人もいるので、そういう人たちだけに向けて商売することもできますが。結局、雑貨化したくなければ閉じた世界でハードコア化するしかない。雑貨化した人を遮断する論理をどう民主的な手続きによって構築するかが、今後のインターネットの課題になってくるのではないでしょうか。

井出

インターネットというのは「いつでも、どこでも、誰でも」を実現するテクノロジーなので、その逆の可能性を考えるということですね。

浅子

1995〜2000年までのウェブにブログくらいしかなかった頃は、近い将来、誰もが草の根的に自分を表現できる新しい時代が来ると期待されていましたよね。ところが実際にネットが隅々まで普及したら、単に全員が大衆化しただけで、そこで表現されるものもワイドショーのようなものばかりになってしまった。

1%の「勝者」と99%の「それ以外」

井出

アメリカの『ローリングストーン』誌によれば、音楽ストリーミングの世界では全体の9割の再生数を上位1%のアーティストが占めているそうです。おそらくこれは音楽に限ったことではなく、物理的な障壁をなくして市場を完全にグローバル化したら、どのジャンルでも1%の「勝者」と99%の「それ以外」になっていくはずです。それがインターネットが完全に普及したことで見えた現実だと思うんですね。哲学者のブルーノ・ラトゥールは著書『地球に降り立つ──新気候体制を生き抜くための政治』(川村久美子訳、新評論、2019)のなかで、「グローバル企業を支配するスーパーリッチ層に比べれば、ドナルド・トランプの資産など中間層にすぎない」ということを書いていました。去る1月にトランプのSNSアカウントが永久に凍結されましたが、大統領だった人間でも一企業の判断ひとつで、一瞬で発信力をほとんどゼロの状態にされてしまうわけです。ひとつの国家よりもGoogleやTwitterといったグローバル企業のほうがはるかに大きな力をもっているとも言える。

ブルーノ・ラトゥール『地球に降り立つ──新気候体制を生き抜くための政治』

ブルーノ・ラトゥール『地球に降り立つ
──新気候体制を生き抜くための政治』

スーパーセレブとして知られるキム・カーダシアンのインスタグラムのフォロワー数は2億人以上もいます。世界の人口が70億人だとすると、じつに35人に1人はフォロワーという計算です。地球上の誰もが、ほとんど同じ情報を摂取しているということ。それほど世界はフラット化していて、「上位1%」以外はみんな同じような暮らしになってきている。世界中どこに行っても、みんなスマホを持ってSNSをやり、YouTubeやNetflixを見ている。しかもそこで消費される商品やサービスのコストパフォーマンスはめちゃくちゃ高くなっていて、昔だったらCDを1枚買うのに3,000円近くも払っていたのが、いまは月に1,000円ほど払えば5,000万もの楽曲にアクセスできるわけです。この現実をどう捉えるかを考える以前に、多くの人は「お得で便利なんだからそれでいいじゃないか」となってしまう。

浅子

しかし、現実には5,000万曲すべてにアクセスするなんて不可能なわけじゃないですか。僕は数年前から街のインテリアを見て回るインテリアツアーという活動をしているのですが、それは物理空間をもったショップがやはり大事だと考えているからです。物理空間をもったお店なら店内を一望できるので、当初の目的とは違った商品をたまたま手に取ってしまう可能性に満ちている。逆にいえば、現在のインターネットにはそういう可能性がほとんどない。それがインテリアツアーを始めたひとつのきっかけでした。僕が雑貨屋に希望を見出すのもそういうところなんです。

井出

ネットでは工学的な技術によってAIがレコメンドの役割を担おうとしていますよね。

浅子

そう考えられていますが、人は自分が欲望すると思っていなかったものを間違って欲望してしまうことがあるわけで、AIは原理的にそういうレコメンドはできないと思うんですね。マリメッコの器を買おうと出かけたら偶然三品さんの店を見つけて、そこでたまたま手に取ったミュージシャンのつくった器になぜか惹かれて買ってしまう。物理空間のショップはそういうことだって起こりうる。このようにして別のルートが拓けるわけです。それは、おそらくAIからすると間違ったルートでしょう。その人のいままでのライフスタイルからすると、必ずしも最適化された選択とはいえないからです。ただ、僕は間違ったルートをつくることこそが大事だと思うんですね。

井出

同感です。自分が編集の仕事をしているのも、三品さんがお店をやっているのも、結局はそういう理由かもしれません。

三品

たしかにそういうのは雑貨屋をやっていておもしろいことではあるし、そこに希望を見たくはなります。ただ、消費者たちの多くが本当にそういう異物やノイズを求めているのかというと、求めていないわけですよね。そのことはコロナ禍でだいぶはっきりしてきて、工学的な方法によってウイルスを抑え込むことができるとなったら、社会の大半はそちらに邁進していくわけじゃないですか。いまでは誰もノイズなり異物なりが、つまりウイルスだって多少はあったほうがいいなんて言わないでしょう。さらに追い討ちをかけるように、コロナ禍ではステイホームということが声高に言われるようになり、物理空間の力も一気に弱まってしまいました。

浅子

もちろんそれはわかるのですが、なぜノイズが重要なのかということをもっと大きな視点で考えてみましょう。世界はグローバル化してフラットになりましたが、それでも国境や人種は依然として存在しています。この世界のなかでノイズを排除したいと望むことは、分断を強めることにしかならないのではないか。ベタな言い方をすれば、他者を愛することがない限り、われわれの未来はないと思うんです。たとえば自分のパートナーを選ぶときに、昔だったら親が決めた許嫁と結婚することが当たり前だったわけじゃないですか。そういう因習は、少なくともいまの日本ではなくなってきた。ところが、最近では婚活アプリによる「最適化された」マッチングをわれわれは受け入れるようになっています。それは一周回ってお見合いのような慣習が復活しているという見方もできて、僕はちょっと怖いんですよ。自由恋愛がなにもかもいいとは思いませんが、性愛はしばしば格差や階級を飛び越えるので、他者を自分で選ぶほうがやはり自由だと思ってしまう。

三品

グローバル化によってかえって分断が強まっている面すらありますよね。社会がタコツボ化していると言われて久しいですが、それは工学的な技術によって他者と触れ合わなくて済むようになっているからでしょう。Twitterのタイムラインを眺めても、そういう他者の存在は見えません。僕も店にミッキーマウスの人形を置くことで、雑貨好きの人たちとディズニーオタクの人たちをつなげたいと夢想していた時期があります(笑)。しかし、グローバル社会は人々を分断させることでかえって消費を促すという面もあるので、フラットになれば万事うまくいくというわけでもないのが難しいところです。

井出

先のアメリカ大統領選挙では、バイデン支持者とトランプ支持者のあいだで殴り合いの喧嘩が起こったり、お互いのSNSのアカウントを炎上させたりするなど、深刻な分断が顕在化しましたよね。三品さんは、僕と以前やりとりしたメールの中で「そうしたコンフリクト自体が非常に人間的な営みであり、そのうちそうした衝突も工学的に制御されてお互いの存在が不可視化され、揉めることすらなくなっていくだろう」と言われていましたね。いがみ合わずにはいられない野蛮さは、ギリギリ残っている人間らしさでもあると。

三品

トランプのアカウントが永久凍結になったのはその最初の兆候という意味で、歴史的に語り継がれるかもしれないですね。本当はTwitterの炎上ももっと制御できるはずですよ。でも、現在のTwitterの運営は炎上とセットで成り立っているところがある。炎上というと言葉は悪いですが、バズることで広告費をはじき出していくシステムになっているわけですから。

浅子

未来の人々が今回の事件を見ると、黒幕はトランプではなくTwitterだということになるかもしれないですね。

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公開日:2021年03月29日

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