インタビュー 5

「所有」を問い直し、古くて新しいシェアのかたちを実践する

岡部明子(東京大学大学院新領域創成科学研究科教授) 聞き手:須崎文代(神奈川大学建築学科助教・日本常民文化研究所所員)

岡部明子氏

岡部明子氏

須崎文代氏

須崎文代氏

ゴンジロウ、ジャカルタ、コロンビアの実践

須崎文代

今日は岡部明子先生にお話をうかがいます。岡部先生は、アジアやラテンアメリカのインフォーマル居住地区、EUの都市、国内の集落などさまざまなフィールドを基点にして、リサーチ、研究、設計活動と多岐にわたる活動を展開されています。そして、さまざまな取り組みのなかで、実践的に社会と住まいの関係性とその問題を考察されていることは、著作を通して読者にも知られていることと思います。今日はそのうちのいくつかについて、具体的なお話を伺えるということでたいへん楽しみにしております。

まずは、最近のプロジェクトについてお話しいただきたいと思います。

岡部明子

よろしくお願いします。まず私がこれまで取り組んできたプロジェクトを一言で表現すると「古民家とスラム」だと言えるでしょう。そのうちのひとつが、房総半島の南端に位置する千葉県館山市の塩見という海辺の集落で行っているコミュニティ活動です。10年以上継続的に通っています。「かやぶきゴンジロウ」(以下「ゴンジロウ」)という古民家の改修や、集落のリサーチなどを行っています。ゴンジロウは屋号です。母屋、蔵、炊き場で構成されているのですが、炊き場が別棟になっているのは、南房総の民家の特徴です。この古民家に、大きく分けて3つの建築的介入をしました。

ひとつは、茅葺き屋根の葺き替えです。このプロジェクトを始めた2009年当初、雨漏りがひどく、小屋組の一部が朽ちていました。茅葺職人の協力を得て、傷みの激しいところから始め、毎年部分ごとに葺き替えしていきました。5年ほどの年月をかけて、研究室のメンバーで、地元の方々に見守られながら、なんとか屋根全体を葺き替えました。

「ゴンジロウ」屋根の葺き替え

「ゴンジロウ」屋根の葺き替え(以下、写真提供=岡部明子)

2つめは炊き場の再生です。じつを言うと私たちのプロジェクトで一番充実しているのは料理をつくることかもしれません(笑)。こうした集落で作業していると人がたくさん集まるので、食事をつくる機会も、つくる量も増えていきました。最初は母屋にあったいわゆる近代家族向けの増設されたキッチンを使っていたのですが、徐々に手狭になり、老朽化もしていたため、元々の炊き場を復活させることにしました。自然に埋没した廃墟のような雰囲気は残しながら、かつての炊き場のように実用的なキッチンへと蘇らせたのです★1。

蘇らせた炊き場

蘇らせた炊き場

庭で食事をする

庭で食事をする

また、雨天時に人が集まると、改めて民家の土間の便利さを実感します。しかし多くの古民家の土間は、近代化に伴ってキッチンや個室に改修されていきました。「ゴンジロウ」も、例に漏れずそのように改修されていました。そこで土間を再生し、外壁に押し上げ扉を新しく設置しました。これはとても便利で、雨の際には庇になります。加えて、こうした半屋外のスペースは、まさに古民家での活動にうってつけで、作業場にも休憩や食事の場にもなる。これが3つめの介入です。

「ゴンジロウ」半屋外空間

「ゴンジロウ」半屋外空間

そして2020年からは「ゴンジロウ塾」という試みをスタートさせました。令和元年房総半島台風で館山は被害が集中したところでした。瓦屋根が損壊する被害が一帯で見られ、ここ塩見もブルーシートで覆った屋根があちこちに見られました。ひと昔前なら、ひとつの集落はだいたい同じ大工さんが家を建てていて、新築したときに余った瓦は庭の片隅に積んでありました。そして、集落おかかえの大工さんが、それらを融通し合い、損壊した屋根を補修してきました。ところが今、プロの工務店に修理を依頼すると、全面葺替えが必要と言われています。一見問題がなさそうな部分でも全体的に瓦が動いているためです。しかも、費用がかなりかかる上に半年以上待たされていました。また、すでに廃番になった瓦だと、部分的に葺替え修理することが困難です。結局ブルーシートが風でめくられる度に固定し直すという状況が続きました。中間の選択肢がなかったのです。これはとても問題だと感じたので、昔ながらの地元の大工さん的役割を担うべく、「ゴンジロウ」が地域の工房、あるいは集落のホームセンターのような場所になればいいのではないか、と考えました。そこで大工さんを塾長に「ゴンジロウ塾」という私塾を立ち上げ、学生や集落の人、移住した建築家を巻き込みながら「コミュニティ大工」の概念を軸として活動しています。そして、台風で被害を受けた神社の神輿蔵の建替えや、倒壊したバス停の新築などをしました。

そして古民家のプロジェクトと等しく注力しているのが、インフォーマル高密居住地区での取り組みです。いわゆる「スラム」ですね。フィールドのひとつとしているのが、インドネシアの首都ジャカルタの中心部に位置するチキニという町です。1ヘクタールあたりに1,000人以上の人が住んでいる非常に高密度な地域で、この場所の住空間の改善策を模索しています。こちらも「ゴンジロウ」と同時期に開始し、10年ほど継続して通っています。

ジャカルタ、チキニのインフォーマル居住地区

ジャカルタ、チキニのインフォーマル居住地区

これ以外にも、最近ではラテンアメリカにフィールドを拡げています。アルゼンチンのチリとの国境付近の町と、エクアドルの震災被災地、コロンビアのインフォーマル居住地区です。

ラテンアメリカは、個人的には「里帰り」プロジェクトなんです。私は幼少期をメキシコで過ごしています。1960年代から70年代にかけてのころで、普通なら日本人学校かインターナショナルスクールに行くところですが、私は近所の公立小学校に通っていました。友だちのなかには、小学3、4年生になると、通い続けるのか困難になり、学校を辞めて働き出す子が何人もいるような学校でした。この幼少期の体験から、格差の大きく開いた社会で、「貧困」を救うべき対象として捉えるというよりは、同じ生きている仲間として、彼らの生活を間近にして貧困バイアスなしに、素直に「すごいなあ」「いいなあ」「うらやましいなあ」と思えるんです。もちろん遠慮なくケンカできる相手でもあります。それが、スラム的な環境をフィールドにするにあたり、私の強みなのかもしれないと思うことがあります。

古民家とスラムの共通点はあるのか?

須崎

たいへん興味深く拝聴しました。「ゴンジロウ」プロジェクトの実践は、他者と生活空間や目的を共有することで発生する共助と要求される寛容さ、創造的作業における役割分担などは「ゴンジロウ」を介在した共同性の発現と言えそうですね。単なる民家再生とは異なり、DIYのような個人の工作を集落共同体のレベルまで広げていく試みでもありますね。ラテンアメリカのスラムのプロジェクトは、フォーマル(社会規範)に排斥された人々がたくましく住む場所(Habitat)を獲得しようとする現象のなかに多くの示唆が含まれるということかと思います。

日本の古民家とラテンアメリカのスラムでは、何か共通点があるのでしょうか?

岡部

私が関心を持っている「古民家とスラム」は、一見すると正反対のものだと思われるかもしれません。なぜなら、古民家の空き家は人口減少によって生まれたもの、一方でスラムは人口増加によって生まれたものだからです。しかし、私は双方の現象を、いずれも「〈外〉で起きていること」と捉えています。使われることもなく、売りにも出されていない古民家は「資本主義社会における市場の〈外〉にある」と言えます。他方、スラムとは「都市計画や土地所有の制度の〈外〉に生起した場所」です。つまり、古民家もスラムも「既成の社会システムの〈外〉にあるもの」と、私は捉えているのです。

こうした〈外〉でのプロジェクトを通して、私が見出したいのは、人間が何もない状態からどのようにして生き抜くことができるのか、ということです。私たちは、生まれたときから社会システムに依存しているため、何もない状況をまったく想像できないでしょう。でも何かの偶然でそれらをすべて奪われ身ひとつになったら、意外に私たちの知らないすばらしい人間が立ち現れてくるのではないか。システムの〈外〉に身を置いてみると、それが見えてくる。歴史的に見ても、イノベーションは既成の枠組みの〈外〉から生まれてきましたから。こうした〈外〉を先入観なしに探究することは、今後の社会のあり方を見通す際にヒントになると考えています。

自ら選んだわけではありませんが、私たちはつくられた社会システム(=フォーマル)の枠の内に生まれ、そこでのルールに従って生きています。こちらから考えれば、そうした社会システムの〈外〉(=インフォーマル)は存在自体が居心地の悪いもののように感じられる。ゆえに、〈外〉をいかに取り込み馴染ませる(=フォーマライズする)か、という発想に陥ってしまいます。しかし本来は、フォーマルのほうが後から出てきたものなのです。だから、まず先にあった〈外〉の当事者になってみると、違う風景が見えてきます。

「所有」を問い直す──法的に保障された排他的な「所有」
人間のつくった社会システムの枠の〈外〉の世界では、何が決定的に違うのか?

須崎

今和次郎が開墾地移住者について、原野を開墾してすべて自給で営む彼等を「随分みじめ」だが、「彼等こそはっきりと先祖から何も与えられない裸のままで自分達の生活を築きにかかり、防備の工作をその家に漸次に盛って行きつつある」、そうした単純生活を堂々と営んでいることをたまらなく羨ましく感じられてくる、と述べています。そうした、葛藤と共に生きる逞しさのなかに、既存の社会規範には失われたヒントや人間の美しさが見出されるということかと思いました。歴史的にも「イノベーションは既成の枠組みの〈外〉から生まれた」というご指摘は非常に納得します。「フォーマライズ」されることで切り捨てられてしまうことが多いような気がします。

現代の社会システムに組み込まれた人間生活は、非常に他律的になっているという警鐘が人類学者等から発せられています。いったん災害などの危機によってインフラとの接続が停止すると、生活の営みそのものを継続することが困難になるというような事態は、多くの日本人が経験していると思います。例えば遊牧民の家族がほとんどすべての生活を自分たちだけで成立させる様子を見ると、社会システムのひとつの部品になってしまった人間の生活は、そこから外されてしまうと機能しないというような状況とも言えるでしょうか。そう考えるとなおさら、枠の〈外〉で生きる人たちの生活や自発的ルールが、じつは民主性の本質に関与するような気がします。そこで伺いたいのですが、「社会的」人間がつくった枠の〈外〉の世界では、何が決定的に違うのでしょうか。

岡部

古民家とスラムで実践していくうちに、私は、「所有」の問題と向き合うことになりました。「土地所有とは、法的に保障され排他的なもの」と私たちは思い込んでいますが、本当なのか。建築をバックグラウンドにする人間が所有を問い直すというのは、自ら進んで火傷しにいくような行為でもあります。しかし、どうしても考えざるを得ない状況になりました。

古民家同様、インフォーマル地区でも住人たちといっしょに、建物を改築したりつくったり、空間を改変するプロジェクトを実践してきました。地元の人たちと協働し、子供の家や共同トイレ、青少年のための集会所といった共同施設をつくりました。いずれも数十平米ほどの小さな施設です。現在は、地元のインドネシア大学をパートナーとして、コミュニティ・オフィスをつくっています。地元の行政と協力できたら、もっと顕著な環境改善ができるのではないかと思い、話を聞きにいきましたが、「住環境の改善は、土地所有問題が正規化された後だ」と当たり前のように言われました。最初は納得しました。確かに、インフォーマル地区では、法的に底地が不確定ですから、いつ立ち退きを迫られてもおかしくありません。それでは、長い目で環境改善を考えられません。

「土地がフォーマライズされれば、住民は土地所有者になり、土地を担保に借金もできるようになる。そうすればマーケットに組み込まれ、自力による居住環境の改善が進んでいく」という図式です。そうしたシナリオを、新自由主義論者は描いています。ところが、実際はそうなりません。30-40年、土地がインフォーマルな状態で生活し続けているのです。ジャカルタのチキニで、ごく少数ながら土地所有を正規化した人たちに理由を尋ねたところ、「その土地を売って現金に換えるためだ」という答えが返ってきてしまいました。土地を正規に所有しても、彼らはそこを改善するどころか現金化してしまう。安心してそこに住み続ける基盤にはならないのです。

なぜ、人がすでにここで生まれ育ち居住しているのに、その住環境の改善は後回しで、フォーマライズが断固として最初のステップに据えられているのか。土地所有はインフォーマルでも、住環境を改善するような建築をつくる方法がないのはなぜだろう。こうした素朴な疑問から、そもそも所有とは何なのかと考えざるを得なくなったのです。

また、私がフィールドとしているコロンビアのカリブ海沿岸では、かつてスペインに植民化された際に多くの黒人奴隷が川沿いに送り込まれたため、先住民たちは川沿いからジャングルの奥地に追いやられました。それから数百年の歳月が経ち、武装組織の抗争の地となり、川沿いの村々の住人たちは追われて、河口の都市に隣接したマングローブ地帯にインフォーマル居住地を形成するようになりました。こうした経緯で、フィールドとしているインフォーマル居住地区の住人の9割を黒人が占めています。マングローブ地帯は自然保護の対象であるため、土地利用計画上居住不可となっているエリアです。仮に継続的な居住の事実が認められて、現在住んでいる人の土地所有権がフォーマライズできたとしても、居住し続けることは土地利用規制上違法すなわちインフォーマルです。ここでも、土地のフォーマライズは居住環境の改善策にはつながらないのです。そもそも、土地を追われた人たちが、新たに住める場所を見つけてそこに住み着くというのは、人間の「住む」という行為の原点です。それが今の制度に合っていないからと言って、フォーマライズを強制されたり、いつ立ち退きを宣告されかわからないといったリスクを負っているのは、よく考えれば非常におかしなことです。

つまり、土地の「所有」にこだわっていることが、根本的な問題なのです。

カリブ海沿岸のマングローブ地帯に形成されたインフォーマル居住地(コロンビア)

カリブ海沿岸のマングローブ地帯に形成されたインフォーマル居住地(コロンビア)

「所有」はマーケットにとっても障壁?

須崎

なるほど、土地「所有」がスラムの居住改善の障壁となることがわかりました。岡部先生は、インフォーマルな居住実態の検討を通して、「住む」ことの原点を見つめていらっしゃるのですね。じつは、私個人も「所有」ということについて非常に懐疑的に思ってきましたので、とても共感します。「所有」に着目した岡部先生の取り組みは、資本主義そのものを問い直すような実践とも言えるかと思いますが、ほかにはどのような障壁となるのでしょうか。

岡部

所有はインフォーマルな場所に対してのみ障壁となるのではなく、不思議なことに、資本主義の上に成り立つフォーマル側のマーケットにとっても障壁となっていると指摘されるようになりました。それが、市場原理主義を牽制し、市場急進主義を提唱するE・グレン・ワイルらの見方です。彼らの考え方はエリック・A・ポズナー、E・グレン・ワイル『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀──公正な社会への資本主義と民主主義改革』(安田洋祐、遠藤真美訳、東洋経済新報社、2019/原著=2018)という本に詳しく書かれています。この本は、ブラジルのスラムの記述に始まっています。有名なリオのファヴェーラですね。ファヴェーラは高級住宅地と隣接しています。貧困層が最低限の生活すらままならないだけでなく、富裕層は犯罪を恐れて生活を楽しめていない。格差は貧困層だけでなく富裕層にとっても不都合なのに、なぜ格差解消ができないのか。これに対する処方箋は、左派の「増税して再配分」、右派の「市場を強化して民営化」、中道派の「ガバナンスを向上させ専門知識を強化」の間でぐるぐる回っており、いっこうに解消の兆しがありません。なぜか。ワイルは、「現在の所有権のしくみが、お金持ちに土地を独り占めさせるようになっているから」だというのです。法的に所有が保障されている状態が、市場を滞らせ、本来住むための土地を必要としている貧困層がアクセスできない。そこで、市場急進主義の切り札は、「オークション」です。一般に言うオークションは、競売にかけられたものだけが入札の対象ですが、彼が投げかけた思考実験は、ありとあらゆるものがいつもオークションの対象になっている状態です。そうなれば、リオの高級住宅地に隣接する、素晴らしい見晴らしのファヴェーラの土地は、まずはたちまち高値で落札されるでしょう。オークションの莫大な収益がファヴェーラの住人たちに還元されさえすればみんなハッピーではないか。他方、土地をもっていてもなんの保障もないので、金持ちは土地を独り占めしなくなり、誰もが必要な土地にありつける、というわけです。これはあくまでも原理であって、副作用は法的に手当する必要性を彼らも認めています。

要するに、「所有」の排他性が、土地を財産として持っていようとする方向に働き、マーケットの健全な機能を阻んでいる。「所有」が市場の障壁だという見方です。

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公開日:2021年03月29日