インタビュー 6

雑貨化する社会と未来の住まい(後篇)

井出幸亮(編集者)+三品輝起(雑貨店「FALL」店主) 聞き手:浅子佳英(建築家、プリントアンドビルド)

浅子佳英氏、三品輝起氏、井出幸亮氏

左から、浅子佳英氏、三品輝起氏、井出幸亮氏

雑貨化とシェアハウス──サブスク、シェア、マッチング

浅子

最後に雑貨化と住宅の未来について聞いておきたいと思います。三品さんは住宅も雑貨化するとお考えですか。

三品

それについては無印良品が出している住宅を例に話すのがよいかもしれません。無印良品の店内では、一番高い売り物として「無印良品の家」が紹介されていますね。

無印良品の家
引用出典=https://www.youtube.com/watch?v=68c601P0XRs&t=28s

無印良品が扱っている商品カタログを見ていると、ペンのような小さなものから始まって本棚のような大きなものへと至り、そして住宅が雑貨化の最終ゴールかのように思えてきます。同社のさまざまな雑貨を統合する場としての家、といった物語が紡がれているような気さえしてくる。

しかし、ふと考え直してみると、本棚から住宅のあいだには飛躍があるような気がするんですね。住宅が雑貨化するためには住宅の断片化が実現している必要がありますが、「無印良品の家」は普通の一軒家と変わらないように見えるのです。あらゆるものの雑貨化を実現してきた企業が──無印良品としてはそういう意識はないかもしれませんが──家に関してだけはアプローチが違っているように見える。本当の意味で雑貨化を推し進めるのであれば、僕は無印良品はシェアハウスをやるべきだと思うんですね。

浅子

うーむ、シェアハウスですか。家具から家だと値段の開きも大きいので飛躍があるというのはわかるのですが、シェアハウスというのは想定していませんでした。もう少し詳しくお話しいただけますか。

三品

無印良品は銀座と北京と深せんで「MUJI HOTEL」というホテルをやっていますね。そのコンセプトが「旅はいま、非日常から日常に、参加するものからつくるものへと変化しています」というもので、最初は意味がまったくわからなかったのですが(笑)、それは住宅の未来と関係しているように思うのです。遠い未来にはあらゆるジャンルでサブスクリプション(定額制)のサービスが出てきて、誰もが物を持たなくなるはずです。今日、ちょうど帝国ホテルがコロナ禍の影響で空きが出た部屋を定額で貸し出すアパートメント事業を始めるというニュースをやっていましたが、誰もが物を持たなくなるなら、引越しのストレスがほぼなくなって、最終的には家を持つ必要はなくなっていくでしょう。どこにでも住めるようになり、いずれはホテルと住宅の差異はなくなっていくはずです。

ただ、もっと近い未来における住宅を考えるならば、そのヒントは雑貨化にあると思っています。住宅の雑貨化とは、つまり既存の住宅を断片化して流通のスピードを上げるということです。断片化して流通速度を高める雑貨化の技術は、昨今のマッチング、シェア、ストリーミングといったサービスと密接に結びついています。人と住居をより素速く的確につなげるマッチングサイトやシェアハウスの隆盛は、インターネット以降の雑貨化の広がりと無関係ではありません。

このシェアハウスの雑貨化の側面──なかなか入居が決まらない部屋数のある広い一軒家を、高度なマッチングのテクノロジーを使って、多方面からバラバラに人を集めてくることでうまく途切れることなく回転させていく仕組み──はあまり指摘されていない。シェアハウスの話題として出てくるのはいつも、他者が一緒に暮らすことで生まれる民主主義的なつながりの「正しさ」や、キッチン、風呂、家電などをシェアすることでのSDGs的な「正しさ」ばかりです。

浅子

なるほど完全に理解しました。昨年、名古屋でシェアハウスを運営している奥村秀喜さんという方にインタビューに行ったんですが、(「シェアハウスのその後(中篇)」)その方にシェアの社会的可能性についてどう思うか聞いたところ、まったく興味がないというんですね。驚いて、ではなぜシェアハウスをやっているのかと聞くと、彼はもともとフライフィッシングの服という非常に間口の狭い商売を、しかもネット通販のみでやっていたらしい。彼がシェアハウスを見て、これはいけると思った。なぜならインターネットで売れるから。住宅を断片化してマッチングさせるサイトさえつくればシェアハウスは商売になるという、まさにいま三品さんがおっしゃったような話をしていたのです。たしかに無印良品は、住宅に関してはそういうアプローチを取っていませんね。

三品

そうなんです。無印良品は全国にキャンプ場をもっているので、そこに家を建ててシェアハウスを始めればいいのになどと勝手に思っていますが(笑)。いずれやり始めるだろうという気もしますけど、すでにベッドなど大型家具のサブスクリプションサービスは実験的に始めているらしく、定額で貸し出して、気に入れば追加料金を払うことで買取りもできるようです。無印良品が家具のサブスクリプションをやることの強みは、家具だけではなくそのパーツも売っている点です。壊れたらそのパーツだけ交換して、何度も貸し出すことができるわけですから。そう考えると、無印良品が家具のサブスクリプションに乗り出したということは、すでに住宅のシェアハウスサービスまで考えている可能性もあります。先ほども触れましたが、「サブスクリプション」「シェア」「マッチング」は密接につながっていて、いずれもインターネットの技術が可能にした流通の革命だったと言えます。

ただ、もっと先の未来、誰もが物を持たなくなった未来の社会においては、本当の意味での住宅の雑貨化が起きるかもしれません。

浅子

これからの住まいはなくなるということですか?

三品

そうとう先の話ですが、その可能性は高いと思います。現にこのあいだ出た平山洋介さんの『「仮住まい」と戦後日本──実家住まい・賃貸住まい・仮設住まい』(青土社、2020)という本を読むと、若い人たちの持ち家願望が減ってきているという動態調査の結果がはっきりと現れています。そもそも持ち家願望の背景としては、戦後、企業に労働力をへばりつけるために何十年もローンを組ませる制度が国を挙げて推奨されたわけですね。30年ローンくらい当たり前だとわれわれは刷り込まれてきましたが、冷静に考えれば人生の半分近くを借金の返済にあてなければならない。そういうものがようやく変わりつつあるわけです。

浅子

そうなると家の消費のされ方は雑貨のような手軽なものになっていくと。それにしても、住まいがなくなるという未来は本当に来るのでしょうか。

平山洋介『「仮住まい」と戦後日本<br>──実家住まい・賃貸住まい・仮設住まい』

平山洋介『「仮住まい」と戦後日本──実家住まい・賃貸住まい・仮設住まい』

三品

なくなりはしないでしょうが、ホテルのように1週間ごとに住み替えられるのであれば、そうしたいという人は増えるはずです。いまだってホテルに住みたい人はある程度いるでしょうが、物は持っていけないので仮住まいにしかならない。それがスマホだけあればほかに持ち物は必要ないとなれば、ホテル暮らしでいいとなるはずです。いや、スマホだってインフラに埋め込まれれば、それさえ必要なくなるでしょう。あらゆるシステムに接続されながら生きる、そういう未来像です。

井出

現代では、バーチャル世界に家を建てればそれで満足という人もすでにいるかもしれません。ゲームの世界であれば、好きなだけ大きな家や好みの家を建てられますから。

浅子

完全に映画『マトリックス』の世界じゃないですか。

井出

でも冗談抜きで半ばそういう世界が来ている感じはあります。ゲーム内のアバターに着せる服は欲しいけど、外に出ることはあまりないので、リアルな服はいらない。室内で快適に過ごせる部屋着、ファストファッションで十分なんですね。

浅子

コロナ禍でリモートワークが増えることで、現実空間のほうでも近いことが起こっていますよね。

アンプラグドな暮らし?

三品

仮にそうしたディストピアが来るとして、そのなかで住宅が存在するとすれば、ひとつにはお金持ちが買う贅沢品としての住宅という線もあるでしょうが、もうひとつの可能性としては、個人がインフラから外れても生きていけるヒッピー的なオフライン住宅のようなものになる気がします。もともと住宅というのは自律して存在しているわけではなく、都市のなかにはめ込まれてさまざまなインフラに接続されることで機能するものじゃないですか。それがスマホまでインフラに組み込まれてしまえば、もはやどこにも自由はなくなってしまうわけですよ。

浅子

たしかに気がつかないうちにあらゆるWEBサービスに囲い込まれ、自由はなくなっていますよね。かといってアンプラグドハウスが流行りますかね。

三品

誰もがそうするとは思いませんが、ハードコアな人はアンプラグドな暮らしを求めても不思議ではないと思います。太陽光で発電して、水も雨水を再利用しつつ、資本主義社会と距離を取りながら生きる。必要なときだけインフラにつなげばいいという生活です。

浅子

1970年代からパオロ・ソレリという建築家が、アメリカのアリゾナ州に「アーコサンティ」という自治区を実験的につくることを試みています。実際に住んでいたことのある友人に話を聞くと、すべてがハッピーだったということでもないようなので、難しい部分はありますが、ああいうものをイメージすればよいでしょうか。となると、住宅はやはり消えていく運命ですかね。もしくは、住宅の雑貨化としてもうひとつ、窓や浴槽といった家のパーツをもっとバラバラに自由に選べるというモデルも考えられますが、そういう未来はありえないかしら。

パオロ・ソレリ「アーコサンティ」

パオロ・ソレリ「アーコサンティ」
引用出典=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Arcosanti_Cliff_View.png

三品

それも十分ありえると思います。あらゆるパーツをきめ細やかに選べるようになれば、それも雑貨化といっていいでしょう。ただ最近、家から店までの15分ほどの道を歩いていて気がついたのですが、よくレンガを模したような住宅の外壁材がありますよね。数えてみるとたった15分の道に、そのシミュラークル化した謎の外壁材が20種類くらいあったのですが(笑)、デザインとしては微妙なものばかりで、こだわってそうしているとは思えない。この外装と内装の分離といいますか、外装に対する圧倒的な興味のなさを見ると、外壁を自由に選べますとなっても需要があるのか疑問です。多くの人が住宅に何を求めているかというと、燃えないことと地震に耐えることくらいしかない。それは歴史的に関東大震災の頃から美観と構造の論争が建築界にあって、ずっと構造派が勝ち続けてきたという政治的な帰結なのでしょうが、美観がここまで失われた国というのも珍しいですよね。

ただ、一方で僕は、日本ではライフスタイルがなかったがゆえに雑貨文化が生まれたと考えていて、このカオスな景観のなかで生まれ育ったわれわれが手にした希望のひとつが、雑貨でありインテリアだったのではないかという見方をしています。お金がある人は住宅の設計を建築家に頼んで何もかも自分の好みのデザインにできるかもしれませんが、普通の人であれば外装は簡単にいじれない。だから内装で勝負するしかなく、雑貨やインテリアへの欲望が育まれた面もあるのではないでしょうか。

浅子

お金のある人が家の周囲の文脈に関係なく豪華なファサードを築いたところで、それは街自体を愛しているようには見えませんよね。お金をかけなくても自分なりのこだわりをもって少しずつ手を加えていく方が結果的に街とつながって見える、そういうファサードのほうが街への愛着も感じられる。リノベーションが流行している理由は、金銭的な理由とは別にこういう理論的な側面もあると思います。これはある程度若い日本人建築家に共通の感覚だと思います。

三品

結局、日本人にライフスタイルがないのは、拠り所となるアイデンティティがないという不安から来ていると思うんです。アイデンティティの欠如は戦後のGHQの政策のせいもあるでしょうが、だからといってわれわれは戦前に戻ることもできない。

浅子

このカオティックな景観自体がわれわれのアイデンティティの現われなのだとしたら、それを全否定してヨーロッパみたいな街並みにしようとしてもしょうがないわけですね。カオティックな環境そのものをポジティブに捉えるしかない。そう考えると、レンガ風の微妙な外壁材が街に氾濫していることも受け入れるしかない。

三品

ええ、そう思います。雑貨文化もオタク文化も、日本が世界に誇る文化ですが、それは「なんでもあり」のカオティックな環境だからこそ生み出せたわけです。その根底には、いびつなものとわかったうえで、あえてそれを愛好するシニカルな感覚があります。さらにいうなら、たとえば中沢新一さんの『アースダイバー』(講談社、2005)や「ブラタモリ」(NHK)といったコンテンツは、神道的なものを巧妙に避けながら古層への関心を喚起し、縄文ブームや地形ブームに火をつけました。日本人はなぜああいったものが好きなのかというと、要は現代の日本は混沌とした景観だけれど、それは確固とした歴史の古層の上にあるのだというアイデンティティをわれわれに与えてくれるからですよね。

ここからは極論ですが、無印良品は、多くの人はシンプルなノームコア的なものとして消費していると思うのですが、あそこに凝縮された日本人性のようなものを見てとっている人もおそらく2割くらいいる気がするんですね。いわゆる日本的な企業として。たとえばアドバイザリーボードにいる初期のメンバーのインタビュー記事なんかを読んでいると、伊勢神宮の話がときおり出てきます。伊勢って異様にきれいで洗練されているじゃないですか。たしかに実際に行くと、こんなカオスになっちゃった日本にも、ずいぶん極まった場所があるもんだと感心します。ただ、それと近代のバウハウスなどを経て、戦後のミニマリズムのなかで生まれた無印良品が同じなはずはないんですが、先ほどの古層ブームと同様、両者のイメージを結びつけて、無印良品に日本人が本来もっていたとされる清浄思想みたいなものを見出したいという人たちが一定数いるかもしれない。けっして無印良品が仕向けているというわけではなくて。そこにはカオスにまみれたわれわれが信じたくなるような切実な物語があると思えてならないんです。

井出

清浄思想ということでいえば、去年、無印良品は「掃除」をテーマにしたキャンペーンをやっていましたね。ボードメンバーであるデザイナーの原研哉さんが、先日新聞のインタビュー記事で、「人々の欲望の水準が少し上がり、皆が一斉に『つばを吐いたらよくない』と思い始めた途端、都市はきれいになります。都市はデザインされるものではなく、人々の欲望の結果です。欲望や感覚が洗練された瞬間、ひとつステップが上がります」と仰っていました。

浅子

いやあ、僕は自由に道路につばを吐けるほうが良い都市だと思うので、あの発言は逆に恐怖を感じました。

無印良品『掃除  CLEANING』

無印良品『掃除 CLEANING』(2020)

井出

それには同意しますが、ただあえて擁護するなら、先ほど話に出たような、自分が暮らしている場所に対する愛情の問題なのかなと思うんですね。「この場所は自分の街じゃない、単に消費をするだけの場所だ」とみんなが感じると、誰もその街を長期的な視点で大切に扱わなくなってしまう。現在の渋谷はそのひとつの例かもしれませんが、再開発ばかりでスクラップアンドビルドを繰り返す街になると、人が記憶を失い、愛着を感じづらくなる。そこが「自分の場所だ」と思えたからこそ、かつて渋谷の若者たちが独自のインディなカルチャーを生み出せたわけじゃないですか。たとえ綺麗でない、カオスな街であったとしても、みんながそこに愛着を持てるなら、草の根的に文化は生まれるし、自分たちの土地への誇りや責任感も生まれてくるはずです。三品さんが言われたレンガ風の外装の家にしても、たとえ僕の目から見た時に良いものと思えないセンスだったとしても、選んだ本人がそれが好きで、誇れるものであればそれでいいじゃないかと思う。でも実際には、その多くは特に愛情があるわけではなく、「便利でお得であればなんでもいい」という発想から選ばれている、というケースが多いのではないでしょうか。ですから、サッシひとつとっても、自分がどういうサッシが欲しいのか、サッシに何を求めているのか、というような内省の意識をもつことが大事ではないかと思うんです。

浅子

結論には完全に同意しますが、少なくとも原さんの記事は逆のことを言っていると僕は感じました。彼が言う欲望というのは、彼にとって正しく美しいと感じる欲望であって、原さんと同じ価値観をみんながもてばいいと言っているにすぎません。しかもそれがある種の正しさのようなかたちで喧伝されると、僕には恐怖でしかない。個々人の自由よりも、彼個人の美意識の方が正しいというのはどう考えてもおかしい。実際、みんながディズニーランドみたいな世界を望んだとしても、正しくないと原さんは言うでしょう。

三品

結局、カオスに耐えることは、一部の人にしかできないんですよね。右でも左でもない中途半端なところにとどまって、そこから良さを引き出すというのがもっとも大人な態度だと思いますが、それに耐えられる人は少ない。カオスをよしとする態度は一種のシニシズムといえますが、それは抑圧のなかからしか生まれてこない特殊な思考回路で、多くの人は「カオスのままでいいのか」「美しくなくていいのか」と詰め寄られると反論できない。だからみんなカオスであることの居心地の悪さから逃れて、「回帰すべき古層」という気持ちのいい物語のほうを選ぶわけですね。ただ、世界は否応なくグローバル化しているわけで、これからはいままで以上に混沌としたところに踏みとどまって、その状態を楽しむ資質が求められてくるように思います。他者と触れ合うというのは、そういうことでしょうから。

浅子

原さんについては、近年の行き過ぎたポリティカル・コレクトネスはどうなのかと思うところがあって過剰に反応してしまいましたが、雑貨であれ店であれ街であれ、愛着を持ち、時間を内包し積み重ねていくという部分はとても重要だと思います。まさに井手さんがおっしゃるようにそれこそが文化を育むことになるからです。

そして、さまざまな人々の多様な欲望を受け入れること。たとえ受け入れることは困難でも、少なくとも自分とは違う欲望をもった人がこの世界には住んでいるということを認めること。多分、これこそがあらゆる場所が繋がり、あらゆる情報がみえるようになった社会で最も重要な合意事項ではないでしょうか。

三品さんは、『雑貨の終わり』のなかで自分の店にディズニーランドの雑貨が置いていないのはおかしいと悪戦苦闘する様子を半ば冗談半分に語っていましたが、最後のカオスに耐えるという話を踏まえると、冗談でもなんでもなく、現在最も重要なテーマだと思います。僕自身、自分の中で整理できていなかったけれど、感覚的にずっと感じていた違和感のようなものが、少し晴れた気分です。

また、耐えるというと苦難が伴うイメージがありますが、それはこの新たな時代の感覚がうまく美意識にまで昇華されていないからで、ノイズに溢れたこの光景を美しく語る言葉や美しく表層するイメージをつくっていかなければならないのでしょうね。僕自身設計者でもあるので、実践でも答えていきたいと思います。本日はありがとうございました。




[2021年2月1日、プリントアンドビルドにて]



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井出幸亮(いで・こうすけ)

1975年大阪府生れ。古今東西のアーツ&クラフツを扱う雑誌『Subsequence』(cubism inc.)編集長。雑誌『POPEYE』『BRUTUS』(ともにマガジンハウス)ほか、さまざまな媒体で編集・執筆活動中。主な編集仕事に『ズームイン、服!』(坂口恭平著、マガジンハウス、2015)、『細野観光 1969-2019 細野晴臣デビュー50周年記念展オフィシャルカタログ』(朝日新聞社、2019)など。『「生活工芸」の時代』(新潮社、2014)、『工芸批評』(新潮社、2019)などで工芸文化についての論考を執筆している。

三品輝起(みしな・てるおき)

1979年生まれ。2005年より東京の西荻窪で雑貨店「FALL」を経営。著書=『すべての雑貨』(夏葉社、2017)、『雑貨の終わり』(新潮社、2020)。

浅子佳英(あさこ・よしひで)

1972年生まれ。建築家、デザイナー。2010年東浩紀とともにコンテクスチュアズ設立、2012年退社。作品=《gray》(2015)、「八戸市美術館」(2021)(共同設計=西澤徹夫)ほか。共著=『TOKYOインテリアツアー』(LIXIL出版、2016)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(鹿島出版会、2016)ほか。

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公開日:2021年03月29日