これからのパブリックのトイレを考える

公共空間における個人の自由を求めて

鈴木謙介(社会学者)| 永山祐子×萬代基介×羽鳥達也(建築家)× 門脇耕三(建築学者、監修)

『新建築』2017年5月号 掲載

これからの公共空間を考える

左からLIXILの中村治之氏、石原雄太氏。

門脇

今回得られた結論は、個人の自由を享受する場所が公共空間の中にも必要ではないかということだと思います。鈴木さんの論文では、欧米と日本では「パブリックスペース」のあり方が異なると指摘されていました。日本の公共空間では、他の人になるべく迷惑をかけないような配慮を求める同調圧力が働いており、自由が抑圧されているというものですが、みなさんのアイデアは日本的な公共空間の弱点を補うものなのかもしれません。公共空間のあり方についてはどのようにお考えでしょうか?

永山

パブリックと言うとみんなで一緒に仲よく使いましょうみたいなイメージがありますが、トイレは大前提としてひとりで使うことが許されている空間なので、そういう意味では可能性を持っているのではないでしょうか。現代のオフィスでは開いたワークスペースが求められていて、多くの人と物がシェアされ、自分の机すらなく、個人ロッカーが唯一の専有空間ということが多いと思うのですが、究極に閉じることができるトイレ空間は、その現代的なオフィスに意外とうまく適合するのかもしれません。どんどん空間がオープンになっていく一方で、自分が空間を専有することができることの豊かさに改めて気付くことに繋がるのではないでしょうか。

羽鳥

その逆もあるでしょうね。個になれる場所がきちんと確保されているからこそ、アクティブベースドワーキングのように自分たちの好きな場所を探して働くという、オープンさの豊かさを感じられるかもしれません。

門脇

その話は萬代さんの案に通じるところがあるかもしれません。社会には個から集団までいろいろなスケールと密度がありますから、それぞれに応じた場所の手立てが公共空間にも必要だということを萬代さんは提案されているのだと思います。

萬代

そうですね。完全にひとりになれる場所から、少し物陰に隠れて数人で立ち話をするような場所、他の階の人と交流する場所というように、閉じることと開くことをうまく組み合わせながら、緩やかなグラデーションをつくっていくことが公共空間には大切なことだと思います。今までトイレは単純に用を足す場所という目的でカチッとつくられてきましたが、実際はさまざまな使われ方をしていて、そういう使い方の多様性を許すようなある種の「ゆるさ」のようなものが、空間に懐の深さをつくると思っています。これはトイレの話に限った話ではなく、公共空間全般に対しても言えることだと思います。

門脇

今までの公共空間には個であれる場所が少なく、そうした場所が求められているということでしょうか。個であれるからこそ公共をきちんと認識できるものなのでしょうが、今回の提案を通じて、プライベートとパブリックの両方の行き来できる公共空間のあり方が少し見えてきました。

石原

商業施設や駅などの公共トイレでも、個に対するニーズというものはもともとありました。例えば、スーツケースを開きたい時、化粧直しや身だしなみを整える時など人前でやりにくいことを行うためにトイレを利用するという意見が多かったのですが、オフィスの働き方が変わり、公共の空間とリンクしていくようになってきた時にどこまで許されるのかという問題があるのではないかと思いました。公共空間のトイレではひとりになれるが故に悪い使われ方をされてしまう懸念もあります。

羽鳥

公共空間ではそれぞれの状況もバラバラなので、背景として公共を語ることは凄く難しいなと感じましたが、そのように人前でやりにくいことをするための逃避を許す状況を積極的につくってあげたいなと思います。

門脇

抽象的な公共空間について議論すると、その公共空間の目的自体が分からないので議論がぼやけてしまいがちですが、今回はオフィスという場所に限ったことで、議論がクリアになったと思います。公共空間といってもさまざまなシュチエーションがありますから、パブリックトイレについてもさらに考える余地はあるのだろうと思いますが、今回議論したことが数年後に実際に現れてくるとよいですね。

 (2017年4月7日、新建築社にて。文責:新建築編集部)

撮影:新建築社写真部(特記を除く)

※トイレに関する法令、条例について
トイレの関する法令や条例により、男女区別や必要器具数が定められていますが今回は建築場所などの設定のない架空のオフィスとして企画しているためそれらを考慮しておりません。

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公開日:2017年12月25日