「パブリック・トイレのゆくえ」前半をふりかえって

浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ)

「パブリック・トイレのゆくえ」という、パブリック・トイレだけではたして1年間持つのかと心配されたこの企画も、蓋を空けてみればトイレを出発点にしつつも、機知に富んだ語り手と多彩な現地の書き手による海外レポートのおかげもあって、歴史や地域から現代社会までを扱う非常に幅の広い内容となった。ようやく半分を超えたので、新しい読者のためにもここで一度総括しておこうと思う。

メインの対談企画では「パブリック・トイレのゆくえ」というよりも「パブリックのゆくえ」といったほうが正確なほど、「パブリック」のほうに重心を置くことにはなったが、当初予定していた最小のスペースからこれからの公共空間を語るという目標は、ある程度達成されたように思う。青木淳氏×中山英之氏、内田祥士氏×藤村龍至氏、千葉学氏×塚本由晴氏というメンバーが、生権力から都市と建築の営繕、さらには震災復興や観光まで語るという、トイレを切り口にしたからこそ生まれたほかにはない内容となった。特に、最初の対談(「清潔なトイレ、パブリックなトイレ」2017年6月8日公開)で話していただいた中山氏による《石の島の石》は、これからのパブリック・トイレを考えるうえで非常に重要なメンテナンスの問題を、掃除をエンターテインメントにすることで解決しようという試みであり、今後も振り返ることになると思う。

トイレ・サーベイでは、ツバメアーキテクツ、冨永美保氏、TSUBUという建築サーベイを得意とするメンバーに、イラストや漫画なども交え、現在のパブリック・トイレについて再考していただいた。特に冨永氏によるトイレの利用方法の聞き取り調査(「トイレの実際」2017年6月29日公開)の結果は、なるほどと頷く返答がある反面、意外な使い方をしている人もいて非常に興味深い。さらに冨永氏は実在する公園を背景に新しいパブリック・トイレの提案までしているので、一度覗いてみて欲しい。

個人的に最も興味深かったのは、「海外トイレ事情」である。サンチアゴ、ベルリン、ニューヨーク、ケラダンガ、北京、ロンドン、ストックホルム、香港、バンコク、ジャカルタ、コペンハーゲン、チューリッヒと、アジア、ヨーロッパを中心に12都市の建築関係者による現地のパブリック・トイレのレポートは、文字通り多岐にわたっており、これほどまでに世界は多様なのかということをトイレという最小の空間が伝えてくれる。

とにかく、それぞれの場所や文化によってパブリック・トイレのあり方がまったく違うのだ。6平米に満たないギリギリにまで切り詰められたマンションにさえトイレを内包する香港の例がある一方で、北京の胡同には基本的にトイレがなく、そしてそのことによってパブリック・トイレが半ばパブリック・スペース化していたりする。さらにジャカルタでは、共同の水場でトイレ、洗濯、食器洗いまでを行なっており、より公共的なスペースとなっているが、運営がうまくいっているのはムスリム社会に根ざした相互扶助の精神があるからだ。また、バンコクのプラスチック椅子を改造してつくられたDIYトイレには、楽観的な国民性と同時に人間の根源的なたくましさが見られる。

そして、チューリッヒのパブリック・トイレのデザインは、現段階におけるひとつの到達点ではないだろうか。器具類は基本的に壁と一体でつくられており、仕上げは壁も含めてすべてステンレス製。巨大な小便器の上に便座を取り付けることで、小便器と大便器を統合しているだけでも驚きだが、さらにその上にこの巨大ボウル(?)は洗面器まで兼ねているとなれば、その合理的精神にわれわれは舌を巻くしかない。伊藤維氏による詳細なスケッチも素晴らしく、必見である(「スイス、チューリッヒ──パブリック・エレメントに見る要素の再構成・統合」2017年10月30日公開)。アフリカやロシア、中東などまだカバーできていない場所もあるので、なんとか後半でその辺りを取り上げたい。

ヴォ・チョン・ギア・アーキテクツへのアンケートも興味深い(「建築家メール・アンケート 2 ヴォ・チョン・ギア・アーキテクツ」2017年9月21日公開)。開放的で自然と一体となったパブリック・トイレというのは、アジアならではのものだろう。また、江戸がそうだったというのは有名な話だが、排泄物を作物の肥料とするために共同のトイレを利用し、各住宅にはトイレを設けないという話も興味深く、コンポスト・トイレなど衛生面での問題を現代のテクノロジーで解決することがより容易になれば新たな展開が期待できる。コンポストについては、ツバメアーキテクツが少し書いてはいるが、このあたりはもう少し掘り下げたい部分である。

さて、パブリック・トイレのゆくえについて一言で述べるならば、すでに「消えたパブリック・トイレのゆくえ」(2017年10月30日公開)で書いたように、パブリック・トイレは徐々に商業空間に溶解していくことになるだろう。これは近年のパブリック・スペースが商業スペースと同化していることとパラレルな関係にあり、より加速していくだろう。そのうえで、これまでの半分を振り返ってみると3つのキーワードが挙げられるように思う。

ひとつめは「時間」である。ほかの空間と比べても、トイレは適切に清掃していなければ使えなくなる空間であり、完成した時だけのことを考えても仕方がない。メンテナンスや清掃の問題がよりシビアに求められる。その意味で、繰り返しになるが、やはり中山氏の《石の島の石》は画期的だ。掃除だけでなく、メンテナンスをエンターテインメントにすることでサービスする側とされる側という垣根をも壊し、みなで建物を運用しようという試みだとすれば、今後の公共建築のひとつの雛形にもなりうるだろう。なにより負担をみなで分担しようという話にするのではなく、率先して楽しみながらやろうというアイデアはより発展させることが可能である。

2つめは「寛容性」である。海外レポートを見ればわかるように、世界には本当に多様な文化や風習がある。世界がよりグローバル化していくなかで、それぞれの文化が共存していくためには、互いに寛容でなければならない。また、みんなのトイレと言った時の「みんな」はどこまで拡張できるのか。その線をどこに引くのかということは、そのまま、その社会が多様な文化をどのように認識しているのかを浮かび上がらせる。そして、バリアフリー、ジェンダーレスなど、現代社会はその線をできる限り拡張しようとしてきた。しかしながらどこまで拡張してもどこかで線は引かれてしまう。今回同時に公開されている乾久美子氏×家成俊勝氏の対談(「福祉の現場から考える」2017年11月29日公開)で触れているように、結局最後は人が解決するのが一番の近道なのかもしれない。

3つめは「教育」である。これは部分的には2つめから必然的に派生するキーワードだ。なぜなら、寛容な社会になるためには、人々の意識の向上が不可欠だからである。ただ、より本質的なのは、啓蒙や最低限の常識を教えるといった話よりもっと手前の、「トイレを汚さずに使用する」というもはや犬や猫にトイレのやり方を教えるのと同じ水準での教育の話である。教育はもはやしつけと言い換えてもいい。当たり前のことだが、トイレも汚す人間がいなければ汚れることはない。汚れたトイレはいわば飼い犬や猫以下の動物として劣っている状態であり、考えてみれば情けない事態である。誰もが汚さなければ、もしくは汚しても掃除していれば、メンテナンスの問題も大幅に改善する。

このように書くと、「飼いならされた犬にはなりたくない」という反論が即座に想起されうる。たしかに動物は自然状態ではその辺で用を足すのが普通だし、かつては日本でも立ちションをする人が多かったように思う。そして、野上晴香氏のロンドンのレポートにもあるようにヨーロッパではいまだに多い(「イギリス、ロンドン──トイレから考える路上の公共性」2017年7月20日公開)。ただ、かつて日本で立ちションが多かったことと、いまだにヨーロッパで立ちションが多いことの意味はまったく違うのではないか。ヨーロッパではパブリックとプライベートを明確に区別するが、日本ではその境目が曖昧だと言われる。それは、建築や都市空間においても外部と内部を明確に分けるヨーロッパと、曖昧な日本というかたちで相似形をなしている。そして、ヨーロッパにおいて、今なお立ちションがなくならないのは、都市空間を外部と見なしているからではないか。それに比べ、日本では都市空間を内部空間として見なしており、だからこそ急速に減ってきているのではないか。外部かつパブリックな空間では啓蒙が重要である。その逆に、内部かつプライベートな空間ではしつけが重要になる(それこそ飼い犬のように)。そして、ポストモダンと呼ばれる、啓蒙がもはや機能しないこの時代においては、人間を人間として見なすのではなく、かといって自然状態の動物と見なすのでもなく、人間をペットのような存在として扱うということが現実的で可能な態度なのではないか。この差がじつは決定的であり、パブリックという概念そのものを更新しうる契機になるのかもしれないと考えている。

浅子佳英(あさこ・よしひで)

1972年生まれ。建築家、デザイナー。2010年東浩紀とともにコンテクスチュアズ設立、2012年退社。作品=《gray》(2015)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=西澤徹夫)ほか。著書=『TOKYOインテリアツアー』(共著、LIXIL出版、2016)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(共著、鹿島出版会、2016)ほか。